★イギリス
フリードリィッヒ・ライカート
1843、ポート・エジングトンへの北東部探検
1848、スワン・リヴァー植民地への探検

大航海物語★
AUSTRALIA
フリードリィッヒ・ライカート

1788 オーストラリア200年記念 1988
オーストラリア 1988/6/21 発行
北部準州の地図
スタ|ト砂漠バラ
北部準州 1978年成立 記念
オーストラリア  1978/6/1  発行

NEDERLAND
ノーザンテリトリー(北部準州)
GRENADA
18〜19世紀の英国帆船

グレナダ 1998/4/26 発行


ヴァンディーメンズ湾

ウェストオーストラリア→
パ−ス→

サウスオーストラリア




←クィーンズランド
ブリスベーン

←ニューサウスウェールス
←ヴィクトリア
←タスマニア
オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行

プロシャ生まれのライカートはドイツの自然科学者、探検家で、29才で大航海してシドニーへ渡り、オーストラリアの探検をしました。それは、ハンター・バレーの探検をした後に、アデレードからポート・エジングトンへの4800km以上の探検を成功させて数々の栄誉を受賞し、その後にオーストラリアの西岸パースへの探検を試みましたが、マレー・ダーリング湿地帯へ踏み込んで、35才で消息不明になりました。
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ルドヴィック・ライカート (1813/10/23〜1848)
 Friedrich Wilhelm Ludwig Leichhardt

ライカートはプロシャ(Prussia)のトレバッヒ(Trebatsch)村のピート検査官(royal inspector of peat)の農家に6人兄弟の4番目で生まれ、トレバッヒの学校に通い、ザウエ(Zaue)の寄宿学校から、ベルリンの南東125kmにあるコットブス(Cottbus)の7年生大学進学校(gymnasium)で学び、1831年にベルリン大学に入学しました。1833年にゲッティンゲン大学(Gottingen)に移り、医科のジョン・ニコルソン(John Nicholson)と親友になりました。1834年から1836年まで再びベルリン大学に戻りましたが、どちらでも学位は取得しませんでした。1837年にベルリン大学に居たニコルソンの弟ウィリアム(William Nicholson)とイギリスのクリフトン(Clifton in Gloucestershire)へ渡り、1842年迄王立外科学校(Royal College of Surgeons)でウィリアムの少ない収入を倹約しながら医学と自然科学の勉学に励み、イギリス、フランス、イタリア、スイスでのフィールドワークを経た後、ウィリアムから£200ポンドの資金を出してもらって、ライカートは1841/10月にサー・エドワード・パジェット号(Sir Edward Paget)でロンドンを出帆してオーストラリアへと向かいました。1842/2/14にシドニー(Sydney)に到着しました。6ヵ月間シドニーで地質学と植物学(geology、botany)調査をして、ギップス総督に官立博物館を建設し館長(curator)になることを要請し、植物園監督(director of Botanical Garden)に指名されましたが、何の官職も与えられませんでした。

▼第1回探検〜ハンター・バレーの探検
1842年にハンター・バレー(Hunter River valley)で、地質学、植物学、動物学、そして農業とブドウ栽培の調査を実施を計画しました。そして1843年から1844年初めにかけて、ニューカッスル(Newcastle)からモートン・ベイ(Moreton Bay、現:ブリスベーン Brisbane)への陸路を踏破しました。1844/5月〜7月の間はシドニーで、収集した植物(plant)と岩石(rock)のサンプルを調査・研究しました。
オーストラリアワインの産地

図案はクナワラの眺望

▼第2回探検〜ポート・エジングトンへの北東部探検
1844年にモートン・ベイとポート・エジングトン(Port Essington)間の大陸縦断探検が議会(Legislative Council)の推薦で、土地検査官主任トーマス・ミッチェル少佐の探検隊で計画されましたが、その危険性ゆえにギップス総督が許可しませんでしたので、ライカートは同探検を個人からの援助と募金で進めることを決心しました。
北部準州トップエンドの探検

図案はヨーク半島地帯
1844年
08/13、6人でシドニーを出発、海路でモートン・ベイへ向かいました。
     モートン・ベイで新たに博物学のジョン・ギルバート(John Gilbert)と
     3人が加わり、総勢10人になる
10/01、ダーリング・ダウンズ(Darling Downs、QLD)にある最奥地の入植地
     ジンバ(Jimbour)を馬17頭に食料・備品を積んで出発
     リンド川(Lynd River)からミッチェル川(Mitchell River)へ向かう
     途中で2人が引き返す
1845年
06/28、ミッチェル川で夜間にアボリジニの襲撃を受け、
     ジョン・ギルバートが亡くなり、2人が負傷
07/05、アルバート(Albert)付近に到着、
     ヴァンディーメン湾(Van Diemen Bay)を望見
12/17、約4828km(3,000miles)を踏破して、
     7人の探検隊がコーバーグ半島(Cobourg Peninsula)ポート・エジングトンに到着
1846年
03/26、ヘロイン号(HMS Heroine 8-gun packet brig)でシドニーに帰着
全滅したと思われていた探検隊が戻ってきたので、一行は大歓呼で迎えられました。ライカートは「探検家の英雄」として讃えられ、政府は探検の成功に1,000ポンドを授与し、個人から1,500ポンド以上の寄付金が集まりました。1846/8/25シドニーで「モートン・ベイからポート・エジングトンへの探検記」(Journal of an Overland Expedition in Australia, from Moreton Bay to Port Essington、1847)の著作を発表しました。

▼第3回探検〜スワン・リヴァー植民地への探検
ライカートの次の計画は、オーストラリア大陸をダーリング・ダウンズから大陸横断して西岸へと抜け、そこから南下しスワン・リヴァー植民地(Swan River、WA、現:パース、Perth)へと行く計画でした。
1846/12月、ダーリング・ダウンズを出発
マレー・ダーリング湿地帯
        激しい雨や輸送の困難、日照りと暑さ、干ばつ、
        そして熱病などのため、
        約805km(500miles)進んだ所で、
1847/06月、引き返すことになり、2週間の休息後、
        帰路は6週間で、
        コンダマイン川(Condamine River,QLD)から965km(600miles)を踏破
1847/08月、シドニー帰着

・ライカートの第2次スワン・リヴァー探検
1848年
02月、探検隊7人(現地人2人)がダーリング・ダウンズ(アデレード)に集合
03月、ライカート探検隊はコンダマイン川を馬7頭に食料・装備を積んで出発し、
04/03、アデレードから西の奥地ダルビー(Dalby)近郷コグーン(Cogoon)の
     マクファーソン牧場(McPherson's station)に到着した後、
     コグーンから内陸部へと移動してから探検隊は消息を断ちました。

1852年から1938年にかけて、少なくとも9回の捜索が行われましたが、いずれもライカートら一行の消息は様として分かりませんでした。ライカートのものらしい遺骨と遺物は発見されました。

ライカートは行方不明になる前から、その業績は高く評価されていました。パリの地理学協会(Paris Geographical Society)は、1847年の年間賞をライカートとロシェ・デリクール(Rochet d'Hericourt)の両者に分け与えました。また同年/5/24にはロンドンの王立地理学協会(Royal Geographical Society, London)が、ポート・エジングトン探検で得られた成果に対し勲章(金メダル)を授与しました。地質学者や植物学者も、彼が持ち帰った標本や記録を高く評価しました。

参考HP:〜
 ・ライカート探検隊の探検地図
 ・モートン・ベイの地図
 ・ブリスベーンの場所地図
 ・ダーリング・ダウンズの場所地図(赤点)
 ・ポート・エジングトンの地図
 ・ポート・エジングトンの地図(北部準州の詳細)
 ・ポート・ダーウィンの場所地図(オーストラリアの地図)
 ・北部準州の地図(道路)
 ・コンダマイン川の場所地図(Dalby有)
 ・マーレー・ダーリング湿地帯付近の場所地図(メルボルン〜アデレード、両河の水域図)
 ・クィーンズランド州の地図(Dalby有)
 ・サウス・オーストラリア州の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       10/5/15
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