★イギリス |
ロバート・バーク警視 1860 オーストラリアを南北に縦断 |
大航海物語★ |
MALAWI ロバート・バーク警視 マラウィ 2008 発行 |
バ|ク | EIRE バークの南北縦断探検地図 Burke & Willis Expedition アイルランド 1988/3/1 発行 |
オ|ストラリア | AUSTRALIA バークとクリッパー帆船
オーストラリア 1988/6/21 発行 |
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EIRE アイルランド島の地図 アイルランド 1922-23 発行 |
GRENADA 18〜19世紀の英国帆船 グレナダ 1998/4/26 発行 |
NEDERLAND オーストラリアの州区分地図 |
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←カーペンタリア湾 ←クィーンズランド州 ←ニューサウスウェールス州 ←ヴィクトリア州 ←タスマニア島 |
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サウス・オーストラリア州 | |||
オランダ 1988/8/30 発行 |
アイルランド生まれのロバート・バーク警視はオーストリア帝国軍で騎兵中尉となり、北イタリア各地を転戦後に健康を害して温泉療養した後にアイルランドに戻り、騎馬警官になりました。その後にオーストラリアへ大航海して移住し、ヴィクトリア州の警察署長になりました。オーストラリアのゴールド・ラッシュに際してはブライトでの「バックランド・ヴァレー暴動」を鎮圧して名を上げ警視に昇進しました。未知のオーストラリアの探検が進み、1860年に人跡未踏のオーストラリア南北縦断探検隊長に指名され、南のメルボルンから出発し、北のカーペンタリア湾に到達して南北縦断は成し遂げましたが、帰路で食料の欠乏と疲労でメルボルンに帰着することも無く亡くなりました。 |
ロバート・オハラ・バーク (1820/5/6〜1861/6/28) Robert O'Hara Burke ロバート・バークはアイルランド共和国の西海岸にあるコノート地方ゴールウェイ州セント・クレアランス(St Clerans County Galway, Ireland )で3人兄弟の2番目(7人兄妹の2番目)で生れ、ロンドンの南東にあるウールウィッチ王立陸軍士官学校(Royal Military Academy, Woolwich)で学び、1836年15才でベルギーに渡りベルギー士官学校で学びました。1841年20才でナポレオン戦争(Napoleonic Wars 1803-1815)が終って北イタリアへ侵攻中のオーストリア帝国軍(Imperial and Royal Army 1804-1867)に入隊しました。1842/8月に23才でハガリー軽騎兵連隊(Hungarian Hussars、7th Reuss Regiment)の騎兵中尉(Second Lieutenant of cavalry regiment)に昇進しました。彼はオーストリア帝国(Austrian Empire 1804-1867)軍のもとで北イタリアに派遣されて、1847/4月に騎兵大尉(1st Lieutenant)に昇進しました。1847年の終り頃に健康を害して、北イタリアの温泉地レコアーロ・テルメ(Recoaro Terme)へ療養に行き、オーストリアのグラフェンバーグ(Grafenberg)へ移り、さらにドイツのアーヘン(Aachen)へ行って療養しました。そして1848/6月に除隊し帰国しました。
1851年にヴィクトリア州で「金」が発見されゴールドラッシュが起って、メルボルン付近の人口が急激に増加していましたが、1857年ブライト(Bright, Victoria)で発生したアイルランド人(Anglo-Irish)と中国人の金鉱探しによる「バックランド・ヴァレー暴動」(Buckland Valley Riot)で、中国人金鉱探しの死者行方不明者2000人が出ましたが、80km離れたビーチワース警察からロバート・バーク署長が駆けつけて鎮圧しました。3年務めたビーチワースから、1858/11月に警視(superintendent of police)となってキャスルメイン地区(Castlemaine district)へ移動して£550ポンドの給与を受領し、ギンゲル通ブロードアクス(Broadoaks Gingell Street)に住居を構えました。 ジョン・マクドナルド・スチュアート(John McDouall Stuart 1815-1866)が南オーストラリア探検後に、中央オーストラリアに達すると、1859/7月に南オーストラリア州議会(South Australian parliament)がオーストラリア南北縦断の成功者に£2,000ポンドの賞金を与えると発表しました。1860/6月にヴィクトリア州探検遠征隊(Victorian Exploring Expedition)、通称:バーク・ウィルズ探検隊(Burke and Wills Expedition 1860-1861)の隊長にロバート・オハラ・バークが、副隊長にジョージ・ランドルズ、副隊長補佐にウィリアム・ジョン・ウィルズ(William John Wills 1834-1861)が指名されました。 ヴィクトリア州政府の支援による王立ヴィクトリア学会(Royal Society of Victoria)の要請で人跡未踏のオーストラリア南北縦断探検に、1860/8/20にメルボルンで盛大な見送りを受けて、ロバート・バーク隊長が18人の隊員(イギリス人5人、アイルランド人5人、インド人セポイ4人、ドイツ人3人、米国人1人)と荷馬車6台に2年分の食糧や6トンの燃料用木材そしてテントなどの備品を積み、ラクダ27頭、馬23頭を連れて約2,800キロ離れたカーペンタリア湾を目指して出発しました。食糧や備品を船でアデレードから輸送させ、マレー川とダーリング川で陸揚げすればよいとの提案は退けられ、重さ20トン全ての荷物を6台の荷馬車で運び、雨と悪路で3台が出発後すぐに壊れました。 ・バーク・ウィルズ探検隊(Burke and Wills Expedition 1860-1861) 08/20、メルボルンのロイヤルパーク(Royal Park, Melbourne)発 08/20、夜にエッセンドン(Essendon, Victoria)着、荷馬車3台を失う 08/23、ランスフィールド(Lancefield, Victoria)着 08/26、ミアミア(Mia Mia, Victoria)着 09/06、スワン・ヒル(Swan Hill, Victoria)着、一部の隊員を残留させる 09/15、バールランド(Balranald, New South Wales)着 09/24、ガンバラ(Gambala)着、ラクダに食糧の一部を運ばせることに 決め、そのため隊員の一部が残りの行程を徒歩で行くことになる 10月初旬、ビルバーカ(Bilbarka)でバーク隊長とランドルズ副長がラム酒廃棄で口論、 ダーリング川沿いのキンチェガ(Kinchega New South Wales)でランドルズが ベックラー外科医と離脱したので、副隊長補佐ウィルズが副隊長に昇格 10/12、メニンディー(Menindee, New South Wales)着、少数の隊員を残して、残る隊員に、 後から大陸縦断を目指す者が通りかかったら捕まえて待つよう命じる 10/19、バーク隊8人がクーパークリークへとメニンディー発 トロウォット湿地(Torowotto Swamp)で副隊長補佐のライトがメニンディーへ引き返し、 ライト別動隊を率いて補給物資の調達に出発 11/11、スタート大尉が1845年に名付けたクーパークリークにバーク隊とブラーエ隊8人が着、 川下のバラー・バラー・ウォーターホール(Bullah Bullah Waterhole)に 疫病をもたらすネズミ除けの防御柵を立ててフォート・ウィルズを設営
帰途は5週間分の食糧で10週間でクーパーズ・クリークへ引き返すことになり、 補給が無く食糧が欠乏し飢えと疲労と雨期に入っての局地的豪雨による難渋の連続で、 03/04、ラクダのゴラー・シン(Golah Sing)が動かなくなり放棄、他の3頭は食用に射殺 03/25、バーク川(Burke River Queensland)のほとり着 グレイが盗んだ小麦粉で粥を作り隠れて食べていたところを見つかりバークに殴られる 04/10、唯一の馬のビリーをディアマンティナ川のほとりで射殺、機材が運べなくなり放棄して行く 04/10、ディアマンティナ川(Diamantina River Queensland)のほとりに着 04/17、マサカー湖(Lake Massacre South Australia)着、ポリゴナム湿地(Polygonum Swamp)で、 4/8から動けなくなっていたグレイが赤痢で亡くなる 04/21、4ヵ月以上待っていたブラーエ隊が食料減少で早朝に補給所を発つ、9時間後の夕刻に バーク隊が約束のクーパークリーク会合地点補給所に到着 04/22、クーリアット・ウォーターホール(Koorliatto Waterhole, Bulloo River)でストーンが亡くなる 04/23、救助を求めてマウント・ホープレス(Mt Hopeless)を目指して、夏季で50 ℃の猛暑の中を マウント・ホープレスに向かってストルゼレツキ砂漠(Strzelecki Desert)へと出発 04/23、クーリアット・ウォーターホールでパーセルが亡くなる 04/29、クーリアット・ウォーターホールでベッカーが亡くなる 05/07、最後のラクダのラージャ(Rajah)が死にクーパークリークから十分な備品を運べなくなる 06/05、デソレーション・キャンプ近くのラット・ポイント(Rat Point)でパッテン(Patten)が亡くなる 06/30、ブリーリー・ウォーターホール(Breerily Waterhole)でウィルズが亡くなる 06/28、クーパークリークのバークスウォターホール(Burke's Waterhole)で ライト別動隊はついに現れず、食料が尽き果て隊員は次々に餓死し、 07/01、クーパークリーク(Burke's Waterhole)で飢えと疲労困憊でバーク隊長も亡くなる 08/20、バーク探検隊の失敗がメルボルンに知らされる 09/11、アルフレッド・ホウィット救助隊がクーパーズ・クリーク着 09/15、ホウィット救助隊はキングがアボリジニに助けられ生存しているのを9/19に発見、救助 カーペンタリア湾へ到達した4人の内の唯一の生存者ジョン・キングだけがメルボルンに帰着、悲惨な状態で生き残ったキングはゆっくりとメルボルンへ移送され、後に従妹(いとこ)と結婚するものの探険の精神的後遺症から回復することなく、11年後に肺結核で33才の若さで亡くなりました。
15分後にメニンディーへ引き返した。 ・19人のバーク・ウィルズ探検隊員(病名※犠牲者7人) 1)ロバート・バーク(カーペンタリア湾到達)(栄養失調※) 2)ウィリアム・ジョン・ウィルズ(カーペンタリア湾到達、後任の副隊長)(栄養失調※) 3)ジョン・キング(John King 1838-1872、カーペンタリア湾到達) 4)チャールズ・グレイ(Charley Gray、カーペンタリア湾到達)(赤痢※) 5)ルートヴィヒ・ベッカー(Dr Ludwig Becker)(栄養失調※) 6)チャールズ・ストーン(Charles Stone)(栄養失調※) 7)ウィリアム・パーセル(William Purcell)(栄養失調※) 8)ドスト・マホメット(Dost Mahomet) 9)ウィリアム・パットン(William Patton、装蹄師)(栄養失調※) 10)トーマス・マクドノー(Thomas McDonough) 11)ウィリアム・ブラーエ(William Brahe、別働隊長) 12)ヘルマン・ベックラー外科医(Dr Hermann Beckler surgeon) 13)フランシス・カデル(Captain Francis Cadell) 14)ジョージ・ランドルズ(George James Landells、前任の副隊長) 15)ウィリアム・ライト(William Wright、補給物資調達の別働隊長) 16)その他4人。 参考:〜
・フリンダース川 Flinders River (840km Queensland) フリンダース川はオーストラリア北東部クゥイーンズランド州最大の川(840km)。グレートディヴァイディング山脈(Great Dividing Range、大分水嶺山脈)のヒューエンデン(Hughenden, Queensland)に端を発し、リッチモンド(Richmond)とジュリアクリーク(Julia Creek)近郷を流れて、カルンバ(Karumba)近くでカーペンタリア湾南東岸に注いでいる。河口近くの東方にノーマントン川沿いの町ノーマントン(Normanton)がある。 参考HP:〜 ・バーク・ウィルズ探検隊のオーストラリア縦断地図 ・バーク・ウィルズ探検隊の探検地図 ・キャスルメインの場所地図(NSW州南部メルボルン付近) ・アデレードの地図 ・マレー河の地図 ・カーペンタリア湾付近の地図(クィーンズランド州) ・マーレー・ダーリング湿地帯付近の場所地図(メルボルン〜アデレード、両河の水域図) ・ニューサウスウェールス州の場所地図 ・クィーンズランド州の地図 ・北部準州の地図 ・サウス・オーストラリア州の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/2/5 |