★イギリス
アイザック・ブロック少将
1812
クィーンストン・ハイツの戦い

大航海物語★
GUERNSEY
ブロック少尉

Ensign Isaac Brock
ブロック大佐

Colonel Isaac Brock
ブロック少将

Major-General Isaac Brock
連隊の紋章(Regimental Coat of Arm)
1769 国旗・軍旗 1969

1769 アッパー・カナダ軍司令官ブロック生誕200年記念 1969

ガーンジー 1969/12/1 発行

CANADA
アイザック・ブロック卿

クィーンストン・ハイツの記念碑
カナダ 1969/9/12 発行
5大湖と、チェサピーク湾(西)とデラウェア湾(東)とに挟まれたデルマーヴァ半島(Delmarva Peninsula)の地図





五大湖地方









現地人との友好条約

               デルマーヴァ半島       ガーンジー島、サーク島


ブロ

ク少将





イギリス軍









ノルマンデ
ィ|半島


アッパー・カナダの軍司令官アイザック・ブロック少将記念
ガーンジー 1996/6/8 発行

MARSHAL ISLANDS
現地人ショーニー族テクムセ酋長の協力

マーシャル 1999/2/1 発行


アラスカ


カナダ


U
S
A
CANADA
中央がハドソン

カナダ 1981/6/30 発行

ケーン水路

グリーンランド

←パフィン島
プロビジャー
←ハドソン海峡
←ラプラドル湾
ラプラドル半島
ニューファンドランド島

←ケベック


Gambia
19世紀イギリス帆船

ガンビア 1998 発行
US Postage
5大湖
スペリオル、ミシガン、ヒューロン、エリー、オンタリオ
グリーンベイ→


ミルウォーキ→

シカゴ→


←ケベっク

←モントリオール
オンタリオ湖


エリー湖

←デトロイト
アメリカ 1966/6/28 発行 (200%)

CANADA
1812 米英戦争200年記念 2012
ブロック将軍 クィーンストンの丘 テクムセ酋長

カナダ 2012 発行

アメリカ合衆国の正規軍

大英帝国の正規軍
DOMINICA

ドミニカ 1976/4/12 発行
US
アメリカの陸軍歩兵

USA 1975/7/4 発行
DOMINICA

ドミニカ 1976/4/12 発行
GRENADA
イギリスの陸軍歩兵

グレナダ 1976/4/5 発行
アメリカ独立200年記念

ガーンジー島生れのアイザック・ブロック将軍は1802年にイギリス領カナダ駐在となり、アメリカ合衆国とカナダの国境の防衛責任者になりました。カナダでは兵士の脱走や反乱という苦難に直面するも、ブロック将軍の英雄的な行動が称えられました。カナダやイギリスの多くの人が第2次独立戦争とも呼ばれる米英戦争は避けられると思っていた時、ブロック将軍は戦争に備えて軍隊や民兵の準備を整え始めました。戦争が始まった時、劣勢だったイギリス軍でアメリカ軍の侵略に対抗しました。緒戦のマッキナック砦やデトロイト砦で勝利し、アメリカの侵略を止めて、カナダ軍の勢いは最高潮に達し、バス勲章も受章してアッパー・カナダの英雄になりました。ショーニー族のテクムセ酋長と共に戦いましたが、クィーンストン・ハイツの戦いでブロック将軍が戦死し、イギリス軍の勢いをそぎ、大きな痛手となりました。
少将アイザック・ブロック卿 (1769/10/6〜1812/10/13)
 Major-General Sir Isaac Brock

  英陸軍(RM)少将、バス勲章(extra knight of the Order of the Bath, 1812)
  アッパー・カナダ副総督(Lieutenant Governor of Upper Canada, 1811-1812)
  生地:ガーンジー島セント・ピーター・ポート生
  没地:クィーンストン・ハイツで戦死、43才没、結婚歴無
▼初めに
アイザック・ブロックが生まれた頃のヨーロッパは、ナポレン(Napoleon Bonaparte、1769-在位:1804-1814、1815、-1821)が台頭してきて、それに対抗するべくヨーロッパ諸王国が反ナポレオンの対仏大同盟(第一次:1793-1797〜第七次:1815)を結成して、ナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-1815)が続いていました。やがて、ナポレンが敗北(1814年エルバ島へ追放、1815年ワーテルローの戦い敗戦)する迄、イギリスは新大陸へ派兵する余力がありませんでした。そこで、独立(1776/7/4)してまもないアメリカ合衆国が北アメリカ大陸北部イギリス領カナダへの領土拡張を目論み、第2次アメリカ独立戦争ともいわれる米英戦争がアメリカ合衆国のイギリスへの宣戦布告で勃発することになりました。それは又、現地人同志の代理戦争でもありました。その戦争のイギリス軍現地司令官として、ブロック少将は緒戦の戦いを勝利へと導きましたが、戦死してカナダの英雄と称えられました。その後の戦いでの結果はガン条約Treaty of Ghent、1814/12/24)にて元の状態に戻りました。

▼生い立ちの記
ブロック少将はイギリス海峡のチャネル諸島にあるガーンジー島のセント・ピーター・ポート(St Peter Port, Channel Island of Guernsey)で、中流階級家庭で裕福な父ジョン英海軍士官候補生(midshipman John Brock 1729-1777)と母エリザベス(Elizabeth De Lisle)の8番目の息子として生まれました。父や3人の兄は軍人でした。少年時代は勤勉な学生として評判をとり、水泳やボクシングが得意で、体格は身長193cmの”6尺豊かの大男”だったと伝えられています。10才の時にサザンプトン(Southampton)の学校に行き、1年間はロッテルダム(Rotterdam)に留学してフランス人プロテスタント牧師の下でフランス語を学びました。

1785/3/2にブロックは15才で第8王国歩兵連隊(8th King's Regiment of Foot)で連隊旗々手少尉(rank of ensign)の欠員ができたことを、その連隊にいた士官の長兄ジョン(John)大尉の勧めで買取って入隊しました。1790/1/27に中尉(rank of lieutenant)に昇進して、王国ハイランド連隊(42nd Royal Highland Regiment of Foot)に転属。1791/6/15に大尉(Captain)に昇進して、第49ハートフォードシャー歩兵連隊(49th Hertfordshire Regiment of Foot)に転属しました。49連隊と共にカリブ海のバルバドス島へ派遣された後、ジャマイカ島へ移動となり(1793年迄)ました。そこで熱病にかかりほとんど死にかけるも、1793年にイギリスに戻ってやっと病から快復後、ジャージー島で静養。1795/6/27に少佐 馬上のブロック少将
(Major)に昇進。1796年原隊の第49歩兵連隊に復帰して、1796/7月カリブ海へ派遣され、1797/10/28中佐(Lieutenant-Colonel)に昇進、1798/3/22に先任中佐(Senior Lieutenant-Colonel)として連隊の指揮をとる連隊長(Commander)になりました。なお、帰国したのは病気ではなく、決闘を挑まれたのが原因とする説もあります。その決闘では武器にピストルを選んで、射撃距離を「ハンカチの長さ」と言って相手をへこましたとする説。

1798年にイタリア遠征を終えたナポレオンはイギリスとインドの連絡を断つべくエジプト遠征に乗り出し、オスマン帝国相手の陸戦では勝利を重ねるも、ナイルの海戦でフランス艦隊はネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗北。それでナポレオンはエジプトから動くことができなくなりました。ナポレオンのフランス不在を好機と見た諸国は、同年1798/12/24に第2次対仏大同盟を結成してフランスへの攻撃を開始しました。第2次対仏大同盟戦争(Second Coalition War, 1798/12/24-1801、リュネヴィルの和約:1801/2/9)が勃発すると、1799/8月に第49連隊はラルフ・アバークロンビー中将(lieutenant-general Sir Ralph Abercromby KB 1734-1801)麾下でバタヴィア共和国(Batavian Republic 1795-1806、現:オランダ)に対するヘルダー遠征 ナイル河口アブキール湾のフランス艦隊、1798

ジブラルタル 1998 発行
(Helder Expedition:Anglo-Russian invasion of Holland 1799/8/27-11/19)に参加・従軍しました。1799/9/10にジョン・ムーア少将(Major-General Sir John Moore KB 1761-1809)麾下での上陸時に、中佐ブロック連隊長は初めての戦闘に遭遇しました。ブロック中佐の第49連隊は戦闘隊形ではなかったので、実際の戦闘にはほとんど加われませんでした。ムーア少将はそれを補って訓練を積んだ連隊を使って橋頭堡を築きました。10/2に第49連隊はエグモント・オプ・ゼーの戦い(Battle of Egmond-aan-Zee(Alkmaar) 1799/10/2、英軍40,000・仏軍25,000)で激しい戦闘に巻き込まれて戦死33人を出しながら、第49連隊はエグモント・オプ・ゼーの海岸沿いに砂丘の急斜面を上ったり悪路を通っての前進を命じられました。そして6時間にも及ぶ激しい交戦の後で、目的地までは1.6km位になり、続く白兵戦が1時間続いた後で、フランス軍が撤退。ブロック自身はマスケット銃の流れ弾を喉に受けて負傷するも、制服の襟のお陰で致命傷を免れ、30分もしないうちに部隊に復帰して、初陣を飾りました。1801年に74門艦ガンジス号(74-gun ship of the line HMS Ganges 1782, 1,679t)トーマス・フリーマントル艦長(Vice-Admiral Sir Thomas Francis Fremantle GCB GCH RN 1765-1819:ブロックの友人)に乗艦してコペンハーゲンの砦攻撃に向かいましたが、コペンハーゲンの海戦(Battle of Copenhagen 1801/4/2)が勃発して、イギリス艦隊が勝利。ブロックの連隊は、この海戦の勝利で砦攻撃は不要となりました。ブロック中佐はネルソン提督の戦術巧者の様子を目撃し、海戦後にはフリーマントル艦長と共にネルソン提督の祝賀会に列席しました。

▼カナダへ派兵・駐留
1802年にブロック中佐は第49連隊と共にカナダへ派遣され、8/25にケベック(Quebec City)に到着し、モントリオール(Montreal)市駐在になって、越冬となりました。翌1803年春にアッパー・カナダのヨーク(York、現:トロント:Toronto)へ本部が移動し、カナダのオンタリオ州南西部ナイアガラ川がオンタリオ湖に流れ込む河口にあるナイアガラ・オン・ザ・レイク(Niagara-on-the-Lake)のフォート・ジョージ(Fort George、ON)のロジャー・ヘイル・シェアフィー中佐(Lieutenant-Colonel Roger Hale Sheaffe 1763-1851)の一翼を担うことになりました。そしてブロック中佐は到着から間もなく、カナダでは主要な問題となっていた、独立後まもない自由の国アメリカへの脱走問題に直面しました。

・脱走兵(反乱の防止)
  Deserter (Mutiny)
1803/夏に、ジョージ砦のシェアフィー中佐から報告が入り、砦の守備兵が士官を捕虜にしてアメリカに逃げ込もうとしていると伝えてきました。ブロック中佐は直ぐに伝言を運んできたスクーナー帆船に飛び乗り、シェア
19世紀イギリス帆船
フィー中佐の指揮するジョージ砦に向かいました。予期せぬブロック中佐隊の到着を急拵えの衛兵栄誉礼が出迎えました。ジェイムズ・フィッツギボン中尉(Lieutenant James FitzGibbon 1780-1863)と当
直兵と共に、衛兵の軍曹を武装解除し監禁させました。それから夕食時間中の砦に入ると、兵士は全員兵舎の中にいました。ブロック中佐は先任士官ウィリアム中尉(Lieutenant Williams)に反乱首謀者の容疑者と見なされている兵士を連れてくるよう命じました。その反乱の容疑者が部屋に入って来るや、フィッツギボン中尉が男にサーベルを突きつけて押さえ、叫び声を上げたら殺すと脅しました。同じようにして反乱の嫌疑が掛かっていた者全てが捕らえられました。最後にブロック中佐は招集太鼓で、全員を集合させました。兵士達は宿舎を出て営庭のブロック中佐の前に整列しました。そこで、ブロック中佐は反乱の計画に加わった者は前へ出よと命じ、数人が出てきたので、逮捕させました。続いて連隊に向かって演説し、反乱を知らなかった者の服従を求め、服従を誓った者は宿舎に返されました。ブロック中佐は反乱の計画に加わった12人と脱走兵7人を軍法会議のためにケベックに送りました。そこで分かったことは、反乱計画者は全ての士官を監獄に閉じ込めシェアフィー中佐だけを殺害し、ナイアガラ川をクィーンストンで越えてアメリカに入る計画を立てていたということでした。この結果7人の兵 イギリス軍の太鼓手
士が銃殺刑となりました。ブロック中佐は反乱を未然に防いだ後にケベックへ戻り、1805/10/30に大佐(Colonel)に昇進しました。なお、1803/夏に兵7人がヨーク(現:トロント)で船を盗み国境を越えてアメリカに逃亡。ブロック中佐はオンタリオ湖(Lake Ontario)から国境を越えて追跡隊を平底川舟バトゥー (bateau)で送り、アメリカ領の湖岸で脱走兵を捕え、脱走兵を連れ戻しケベックに送ったとの説も有。

▼米英戦争の緒戦でイギリス領カナダを防衛
   War of 1812 (1812/6/12-1815/2/18)
   別名:第2次アメリカ独立戦争
・開戦前夜 (戦前の準備)
米英戦争開戦前に米国が迫る脅威が見えてくると、ブロック大佐はカナダの防衛強化に素早く動きました。ケベックの要塞は壁を作り砲兵大隊を作ることで強化し、砲兵ではないブロック大佐は大砲の操作や設置に関する科学的な書籍で独学して、強力な防衛拠点を作り上げました。彼は書物を集めた図書室を持っていました。また湖沼・河川の作戦展開に必要な海兵隊部門を再調整し、五大湖を確保するために必要な海軍力(5大湖イギリス艦隊)まで造り上げました。このことは米英戦争でカナダ防衛に極めて重要な役割を果たしました。

1807年にカナダ総督のジェイムズ・ヘンリー・クレイグ(Governor General Sir James Henry Craig KB, 1748-在任1807-1811-1812)がブロック大佐を准将(Brigadier-general)に昇進させました。1810年にはアッパー・カナダの全軍を指揮することになりました。この期間、ブロック准将はヨーロッパでの従軍を求め続けました。1811年には少将(Major General )に昇進。その年の10月に副総督フランシス・ゴア(Lieutenant Governor Francis Gore 1769-1852)がイギリスに戻ったので、ブロック将軍が暫定的な副総督となり、アッパー・カナダの統治者となりました。このために、ブロック将軍は軍政面も民政面も全
てみることになりました。1812年早くにヨーロッパ勤務の辞令がくるも、ブロック将軍は合衆国に対してカナダを守るのが自分の義務と考えて固辞しました。ブロック将軍はアッパー・カナダの管理者となると、戦争に備えて幾つかの改革を断行。カナダ総督ジョージ・プレボスト(Governor General Sir George Prevost 1767-在任1811-1815-1816)の消極策や、植民地議会の反発はあったものの、まず民兵軍法(militia act)を改定し、志願兵(volunteers)の利用を可能にし、これら新兵の訓練を強化させました。さらに守りの強化と補強を続け、ショーニー族(Shawnee)の指導者テクムセ酋長(Tecumseh, 1768頃-1813/10/5)などの現地人指導者と渡りを付けアメリカとの戦争が起こった場合にイギリスと同盟することを確認。当時の一般的な見方ではカナダは侵略されれば直ぐに落 現地人との友好条約
ちてしまうとされていましたが、ブロック将軍は植民地の戦力で戦う戦略を模索し続けました。

・米英戦争の開戦
アメリカ合衆国は1812/6/12にイギリスに対する宣戦を布告。
アメリカ第4代大統領ジェームズ・マディスン(James Madison、1751-在任1809-1817-1836)政権の時にアメリカ合衆国議会がイギリスに宣戦布告しました。1812/7/12にアメリカ軍はウィリアム・ハル准将の指揮で主に民兵(Militia)2,500人の部隊がデトロイトより、サンドウィッチ(Sandwich、現ウインザー:Windsor、ON)からカナダ領への侵攻を開始しました。ハル准将はカナダ領に入ると、全てのイギリス兵に降伏するよう宣言を発しました。ハル准将は現地人と共に戦ったイギリス軍捕虜は殺すと脅すも、それは降伏宣言と共に、却ってアメリカの攻撃に対するイギリス領カナダ人の抵抗を強固にしました。ハル准将は脅しを掛けてはみたものの、マッキナック砦の戦いでのイギリス軍の勝利の知らせに接し、デトロイト砦南の丘でのブラウンズタウンの戦い(Battle of Brownstown 1812/8/5、英の勝利)とモンガゴンの戦い(Battle of Monguagon(Maguaga), Trenton, MI, 1812/8/9、引分)で補給線の確保が難しくなったと判断し、ハル准将の侵攻は直ぐに停止され、2,500人の部隊と共にデトロイト砦に引き返し、ハル軍はカナダ領
アメリカ市民軍兵

(Militia)
から撤退しました。

ブロック将軍の「マッキナック砦の攻略」、1812/7/17
  Siege of Fort Mackinac
, Mackinac Island, Michigan, USA
ブロック将軍は現状の準備では植民地全体の安全を守るには不十分だと感じたので、新任のプレボスト総督の専守防衛の方針に反して逆に攻勢に出て、ミシガン湖(Lake Michigan)とヒューロン湖(Lake Huron)を結ぶ水路上にある戦略上重要なマッキナック砦をチャールス・ロバーツ大尉(Captain Charles Roberts)に命じて攻略する作戦を実施しました。

1812/7/16深夜に、ミシガン州ヒューロン湖北部に浮かぶマッキナック島北部海岸にイギリス軍ロバーツ大尉が少数の部隊で上陸して、マッキナック砦を見下ろすように大砲を設置しました。翌7/17朝にマッキナック砦を包囲して、降伏を要求すると、アメリカ軍は吃驚して即座に降伏しました(その2年後の、1814/8/4に米軍が上陸して攻撃するも失敗、英軍が守りきりました)。この緒戦の勝利でイギリス側は現地人の士気も鼓舞でき、多数の現地人がアマーストバーグ(Amherstburg, ON、デトロイト南25km)のイギリス軍の支援に参加しました。この作戦は完全な成功でしたが、ブロック将軍は未だ足りないと思っていましたが、プレボスト総督は防衛に専念することに重きをおき、アメリカ領土への攻撃には反対していました。

ブロック将軍の「デトロイト砦の攻略」、1812/8/15-16
  Siege of Detroit
, Michigan, USA
イギリス軍のブロック将軍は1,200人の部隊を連れてデトロイト砦攻略に向かいました。ブロック将軍は偽の文書を用意し、その文書がアメリカ軍の手に落ちるようにし、その文書にはデトロイト砦の攻略に5,000人の現地人戦士がおればよいと書いておきました。
ブロック将軍は現地人テクムセ酋長の支援を確保してデトロイト砦に向かいました。この時点で、現地人を含めても、ブロック将軍の兵力はほぼ2対1と劣勢でしたが、ブロック将軍はハル准将を臆病な男と推測し、特にテクムセ酋長たち現地人を恐れていると思いました。8/13にブロック将軍はエリー湖西詰でデトロイト砦の対岸にあるアマーストブルグ(Amherstburg)に到着すると、ハル准将を脅すための幾つかの仕掛けを使うことにしました。まず、援軍を謝絶する伝言(表面上プレボスト総督宛)をハル准将の手に渡るようにしました。そこに書かれていたのは、現地人の協力で十分に砦を落とせること、すなわちこれ以上の援軍は要らないとしていました。次に、民兵に正規兵と同じ服装をさせ、全軍が農夫や商人ではなく正規歩兵であるかのように見せました。こうして、デトロイト砦を包囲すると、サンドウィッチの町の川向こうアマーストブルグに大砲を据え、慎重に仕組まれた行軍を何度も行って、実際以上に現地人同盟軍がいるかのように見せかけました。もう一つ、テクムセ酋長の部隊にできるだけ騒々しい音を立てさせて テクムセ酋長

マーシャル 1999 発行
その兵力を偽装し、とても制御出来ないような現地人大集団がいるかのように見せかけて、ハル准将を怯えさせました。最後に、ブロック将軍はハル准将に降伏を要求する文書を送りました。これに続いて8/16に大砲の砲弾を砦に向けて撃ち込みました。すると、偽の文書を見たハル准将は現地人とその「拷問」や「頭皮剥ぎ」の脅威に怯え、またイギリス軍が実際以上に兵力があるものと思いこんでいたハル准将は戦闘もしないで、ブロック将軍の文書を受け取った2時間後にデトロイト砦を明け渡して無条件降伏し、イギリス軍がデトロイト砦を占領しました。ハル准将は年長でしたが軍隊での最近の実戦経験がなかったので、降伏しなかった場合に受ける現地人の拷問を酷く恐れていました。

デトロイト砦の攻略はアメリカ軍の士気を損ない、その地域のアメリカ軍の脅威を取り除いたことで、ブロック将軍にとって大きな勝利となりました。一方でカナダ人の士気は大いに上がりました。ブロック将軍は£30,000ポンドにもおよぶアメリカ軍の軍需物資を抑え、装備の薄い民兵に配分することで自軍の戦力を高めました。そして戦うことを能力の印であり、やる気を示すことであると考えるテクセム酋長や他の現地人酋長達の支援を確固たるものにしました。テクムセ酋長はブロック将軍を信頼し尊敬しており、初めての会合の後で、「これが男だ("This is a man")」と言ったと伝えられています。デトロイト砦の攻略はミシガン準州(Michigan Territory)の大部分のイギリス支配も可能にしました。ブロック将軍はアメリカ領内への侵攻作戦を続ける作戦を練るも、プレボスト総督がアメリカのヘンリー・ディアボーン少将 デトロイト砦

図案は同一形式の星型要塞
ペルー 1936/8/27 発行
(Major General Henry Dearborn, 1751-1829)と停戦交渉を始めており、それ以上の行動には移せませんでした。このことがブロック将軍の動きを失速させ、アメリカ軍は軍隊を再編してカナダ侵攻の準備をする時間を得ることになりました。ブロック将軍は、アメリカ軍が侵攻してくる地点を予測できず、躍起になってアッパー・カナダ全体の守りの備えのために精励しました。

クィーンストン・ハイツの戦い、1812/10/13
  Battle of Queenston Heights
, Niagara-on-the-Lake, ON, Canada
カナダのオンタリオ州クィーンストン(Queenston, ON)村落はナイアガラ瀑布の北5kmのナイアガラ・オン・ザ・レイクにあってナイアガラ川峡谷の出口で、川の流れは速く川幅は180mありました。村の直ぐ南は100m迫り上がった地形でクィーンストン・ハイツ(Queenston Heights:クィーンストンの丘)と呼ばれていました。川の反対側がアメリカのニューヨーク州ルイストン(Lewiston, NY)で、その南にルイストン・ハイツ(Lewiston Heights)がありました。
ブロック将軍 クィーンストンの丘 テクムセ酋長
アメリカ連邦党員であまり軍歴も無いままに政治的に指名されたニューヨーク副総督(Lieutenant Governor of New York, 1795-1801/6/30)だったアメリカ軍ニューヨーク民兵少将(militia major-general, 1801-1812)ステファン・ヴァン・レンセリア(Stephen Van Rensselaer III, 1764-1839)が、1812/10/12に
ナイアガラ川を越えて、ルイストン近くに6,000人の大軍を率いて現れました。レンセリア少将はその軍隊の質に関しては大きな危惧を抱いているも、大統領からの圧力も受けていて攻勢に出る他ありませんでした。事態をさらに悪くしたことに、レンセリア少将は軍隊経験が無いために、正規軍の大多数から信用されていませんでした。1812/10/13の早朝にアメリカ軍はナイアガラ川を越えて「クィーンストン・ハイツの戦い」に突入。イギリス軍からの激しい砲撃をものともせず、第一派のジョン・E・ウール大尉(Captain John Ellis アメリカ軍の渡河作戦

ジャージー 1976/5/29 発行
Wool 1784-1869)指揮する部隊が川の向こう岸に上がり、漁師道を通って丘の上に向かいました。続いて丘上のイギリス軍砲兵隊を攻撃して、潰しました。

10/13のイギリス軍勢力1300人は、ブロック将軍とロジャー・ヘイル・シェアフィー少将(Major General Sir Roger Hale Sheaffe, 1st Baronet 1763-1851)の主力部隊が近くにあったジョージ砦にいて、イギリス軍の分遣隊はクィーンストン、チッパワ(Chippawa, city of Niagara Falls, ON)及びエリー湖の東端でナイアガラ川への入り口にあるエリー砦(Fort Erie, 1764)に分散していました。ブロック将軍はクィーンストンの丘の砲声を聞くと、其処にいる小さな部隊を指揮するために丘へ急行。大砲が 使えなくなり、アメリカ軍の残りの部隊も川を越えてくることを恐れたブロック将軍は、丘の上からの直接攻撃を下令。「率先垂範しなければ命令するに値しない」というブロック将軍の個人的な哲学そのままに、ブロック将軍自ら攻撃隊の先頭にたちました。この攻撃は成功したかに見えるも、そこで反撃にあい、ブロック将軍は右手(sword arm)の手首をマスケット銃で撃たれるも、さらに第二次攻撃も指揮しました。その時、ブロック将軍の派手な将軍服はかっこうの目標になって、アメリカ軍狙撃兵に胸板を撃たれて戦死しました。瀕死の重傷を負ったブロック将軍の最後の言葉は:〜 イギリス軍
・続けよ、勇敢なヨークの雄志よ! (Push on, brave York Volunteers)、又は、
・俺に構わず、戦え! (Push on, don't mind me)
だったと伝えられています。

▼その後
ブロック将軍戦死の後で、シェアフィー少将がクィーンストンの丘の戦場に到着して、イギリス軍の指揮を執りました。直接攻撃を行った前任者ブロック将軍とは対照的にシェアフィー少将は、より注意深い態度を選びましだ。このことが最終的には成功し、アメリカ軍に対する勝利に繋がりました。イギリス軍の損失は50人程度でした。この戦闘中第49連隊は「将軍の仕返し("Revenge the General")」を鬨の声に使かったと伝えられています。

シェアフィー少将は午後2時にクィーンストンに到着し、イギリス軍の指揮を執りました。シェアフィー少将はさらに援軍を集め、アメリカ軍の大砲を避けながら5kmの回り道をして、クィーンストン・ハイツに向かいました。そこでシェアフィー隊はチッパワからの別の増援隊とも合流して、全軍800人以上となりました。午前中にブロック将軍の下で戦っていた残兵を集め、第41連隊の5個中隊と民兵の7個中隊および3ポンド砲2門になりました。シェアフィー少将は部隊を編成しなおして準備をさせ、午後4時に攻撃を開始。レンセリア少将が攻撃を開始してから13時間が経っていて、アメリカ軍の民兵は現地人の雄叫びを聞いてから悪い方に運が傾いたと思い、命令も聞かずに撤退を始め、スコット大佐に残された守備兵はわずか300人となってしまいました。スコット大佐はシェアフィー少将の大部隊に直面してアメリカ軍を撤退させようとするも、兵士を逃がそうにも川に船が無く、モホーク族(Mohak)は2人の酋長の死で猛り立っていたので、虐殺を恐れたスコット大佐はイギリス軍への降伏を選びました。それでも興奮した現地人は高地から川岸に群がるアメリカ軍に向かって銃撃を数分間続けました。降伏が成立した後で、高地の周りに隠れていた500人のアメリカ軍民兵が出てきて、やはり降伏したのを見た アメリカ陸軍歩兵
スコット大佐は衝撃を受けました。6,000人いたレンセリア少将軍で、100人が戦死し、300人が負傷し、さらに925人が捕虜になりました。捕虜の中にはニューヨーク民兵(New York Militia)のワズワース准将(Brigadier General William Wadsworth 1765-1833)、スコット大佐(Lieutenant Colonel Scott)、4人の中佐および67人の士官がいました。イギリス軍は6ポンド砲1門を捕獲し、ニューヨーク州民兵隊の連隊旗を捕獲しました。イギリス軍の損失は14人の戦死、77人が負傷でした。攻撃が惨憺たる敗北に終わったレンセリア少将は戦闘後即座に辞任し、ナイアガラ地区の上級士官アレクサンダー・スミス准将(Brigadier-General Alexander Smyth, 1765-1830)が後任になり、バッファローに部隊を留めていましたが、その部隊が3,000人に増強されるまで次の攻撃を掛けませんでした。スミス准将はエリー砦の近くで2度も渡河を試みて失敗し、渋々兵士を引き揚げました。レンセリア少将からの攻撃に対する拒否を酷評され、反乱の噂も立ったところで、スミス准将は職を辞してバージニア州の故郷へ帰りました。

オルバニー(Albany, NY)では、レンセリア少将の失敗を聞いたディアボーン少将が更に動かなくなりました。2方面の軍隊が敗北し、ディアボーン少将は3番目の軍隊を率いて動く気にならなりませんでした。心ならずもオーデルタウン(Odelltown, QC)まで前進するも、そこで民兵が更なる前進を拒否し、結局は撤退。この結果、レンセリア少将軍が1812年にアッパー・カナダを攻めた唯一の軍隊となりました。

▼葬祭の儀
戦い済んで、49連隊でブロック将軍に長年仕えたジョン・グレッグ大尉(Captain John Glegg)が葬送の手配をなし、1812/10/16にブロック将軍とジョン・マクドネル中佐(Lieutenant-Colonel John Macdonell of Greenfield 1785-1812/10/14)の葬列が政庁からジョージ砦まで続きました。イギリス軍の兵士、民兵、現地人達が道の両側に並びました。棺はジョージ砦の北東隅に新しく掘られた墓穴に降ろされ、イギリス軍は21発の弔砲を3度鳴らし、弔意を表しました。その日遅く、ナイアガラ砦のアメリカ軍守備兵も同じように弔砲を鳴らしたと伝えられています。ブロック将軍とマクドネル中佐の遺体はその後3度移され、最終的には1853/10/13にブロック記念碑の中に納められました。数千の人々が最後の埋葬に参列し、それは当時のアッパー・カナダの人口を考えれば驚くべき数だったと伝えられています。

1812/10/9にジョージ3世の御代の摂政皇太子ウェールズ公ジョージ(Prince of Wales Regent George、後のジョージ4世:George IV, George Augustus Frederick, 1762-在位1820-1830)がデトロイト砦の勝利で、ブロック少将にバス勲章(extra
出席できなかった
爵位(ナイト)親授式


ヴァ−ジン諸島  1980 発行
knight of the Order of the Bath)を授与し、爵位(ナイト)を授けましたが、その知らせが届く前に、ブロック少将は戦死していました。

・アイザック・ブロック少将の生涯略年表:〜 
記 事
1769 0 10/6:ガーンジー島セント・ピーター・ポートで誕生
1779 10 サザンプトン(Southampton)の学校入学
1783 14 アメリカ独立戦争が終結(1776/7/4独立宣言、戦争突入)
1785 16 3/2:第8王国歩兵連隊の連隊旗々手少尉
1790 21 1/27:中尉に昇進
1791 22 6/15:大尉に昇進、第49ハートフォードシャー歩兵連隊に転属
1792 23 バルバドス島へ派遣された後、ジャマイカ島へ移動、熱病にかかる
1793 24 イギリスに戻って病から快復後、ジャージー島へ
1795 26 6/27:少佐に昇進
1796 27 原隊の第49歩兵連隊に復帰して、7月:西インド諸島へ派遣される
1797 28 10/28:中佐に昇進
1798 29 3/22:連隊長
8/1:ナイルの海戦
12/24:第二次対仏大同盟戦争が勃発
1799 30 8月:北オランダへ派遣される
9/10:初陣、於バタビア共和国(現:オランダ)、ヘルダー遠征
10/2:エグモント・オプ・ゼーの戦いで負傷
1801 32 4/2:ガンジス号乗艦、コペンハーゲンの海戦勝利で陸戦は無くなる
1802 33 第49連隊と共にカナダへ派遣され、8/25:ケベック上陸
1803 34 春:ヨーク(現:トロント)へ本部が移動
夏:脱走兵を捕える
1805 36 10/29:大佐
1806 37 カナダ5大湖イギリス艦隊を編成
1807 38 准将に昇進
1810 41 アッパー・カナダの全軍を指揮することになる
1811 42 6/4:少将に昇進、ブロック少将の部隊がヨーク・ファクトリーに到着・駐留
8/20-9/8、休戦期間
10月、アッパー・カナダの副総督となる
1812 42 早く、ヨーロッパ勤務の辞令がくるも、辞退
ショーニー族の指導者テクセムなどの現地人指導者と渡りをつけ
アメリカとの戦争が起こった場合にイギリスと同盟することを確認
6/12、アメリカ合衆国がイギリスに宣戦を布告、米英戦争が勃発
7/12、アメリカ軍ハル准将がカナダに侵攻
7/17、マッキナック砦を奪取
8/16、米軍が降伏、デトロイト砦を奪取
10/9、バス勲章を受賞
43 10/13、クィーンストン・ハイツの戦い勃発、戦死
- 10/16、葬祭の儀でジョージ砦に埋葬される

参考:〜
米英戦争のカナダ戦線(概略)
  (アッパー・カナダのアメリカによる侵略、1812年)
アメリカの指導者はカナダを簡単に奪えるとみていました。前大統領第3代(1801-1809)トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743-1826)はカナダの征服について、楽観的に「行軍するだけのことだ」と言っていました。多くのアメリカ人がアッパーカナダ(Upper Canada, 1791-1842)に移住しており、イギリスからもアメリカからも ”移住者”はアメリカの側に付くと思われていましたが、そうはなりませんでした。もう少し人口の多いローワー・カナダ(Lower Canada)では、イギリス帝国に強い忠誠心のある ”特権階級のイギリス人”から、またアメリカがカナダを征服すると、プロテスタント、英国式、民主共和制、商業的資本主義、の古い伝統を壊されることを恐れる
野戦砲

アセンション 1985 発行
”フランス人特権階級”からイギリスが支持されていました。また、”フランス人住民” はアメリカ人移民が入ってくることで、良い土地が減っていくことによる損失を恐れていました。

アメリカ軍のアッパー・カナダ侵攻作戦:〜
・エリー湖(Lake Erie)の周辺から侵攻、ウィリアム・ハル准将
  デトロイトからアマーストバーグを攻撃する作戦
セントローレンス川地域とシャンプレイン湖(Lake Champlain)、ディアボーン少将
  セントローレンス川を横切ってキングストンを奪取する作戦
・ナイアガラ川(Niagara River)の渡河作戦、ヴァン・レンセリア民兵少将
  ナイアガラ川を渡河してイギリス軍拠点ジョージ・ジョージを奪取する作戦
  副官は又従兄弟ソロモン・ヴァン・レンセリア大佐
これらが1812年にアメリカ軍が始めた3方面から、アッパー・カナダ国境のイギリス軍拠点を攻撃する作戦で、これらの軍が合流してローワー・カナダのモントリオール(Montreal, QC)とケベック(Quebec)を占領することで、セントローレンス川を切り取ることが北アメリカにおけるイギリスの死命を制し、カナダを掌握して、早急に停戦に持ち込める筈でした。
アメリカ軍
イギリス軍はヒューロン湖(Lake Huron)のセントジョセフ島(St.Joseph Island, ON)の分遣隊がアメリカ軍よりも早く宣戦布告(1812/6/18)を知って、1812/7/17にアメリカの重要な交易基地だったミシガン州マッキナック島(Mackinac Island)のマッキナック砦を攻略して、緒戦の重要な戦果を上げました。この緒戦の勝利で現地人の士気も鼓舞でき、多数の現地人がアマーストバーグ(Amherstburg, ON、デトロイト南25km)のイギリス軍の支援に参加しました。

アメリカ軍のウィリアム・ハル准将(Brigadier-General William Hull 1753-1825)が1812/7/12にデトロイトからカナダ領に侵入するも、マッキナックのイギリス軍の勝利の知らせに接し、デトロイト砦に引き返しました。イギリス軍のブロック将軍は1,200人の部隊と共にデトロイト砦攻略に向かい、調略でハル准将を怯えさせたので、ハル准将はイギリス軍が実際以上に兵力があるものと思いこみ、1812/8/16に戦闘もしないでデトロイト砦を明け渡して降伏しました。
イギリス軍

ブロック将軍は、アメリカ軍のニューヨーク民兵少将レンセリアが2回目の侵略を試みているエリー湖の東端(1回目はナイアガラ川方面)に移動しました。この時、アメリカが抗議していたイギリスの枢密院令(アメリカの貿易を規制する布告)を放棄することで、ジョージ・プレボスト総督(Sir George Prevost、
1767-1816、1811年クレイグ総督の後任)が停戦を実現できるかもしれないと期待して採用した一時的休戦により、ブロック将軍はアメリカの領土を侵すことはありませんでした。この休戦期間(8/20-9/8)が終わると、アメリカ軍は1812/10/13にナイアガラ川を越えた攻撃を行うも、クィーンストン・ハイツの戦いで手痛い敗北を喫しました。

1812年のアメリカ軍最後の侵攻は、ヘンリー・ディアボーン少将がシャンプレイン湖から北へ侵攻するというものでしたが、アメリカの民兵はアメリカ領から出ていくことを拒んだので失敗しました。アメリカの民兵とは対照的に、カナダの民兵はよく戦いました。フランス系カナダ人は合衆国内で紛争の種になっていた反カトリックの立場をとり、アメリカ独立戦争でイギリスのために戦った王党派はアメリカの侵略に強く抵抗しました。しかし、アッパー・カナダの人口の大半は近年入植したアメリカ人でしたので、イギリスに対する目に見える忠誠は無しでした。アメリカ軍の侵略に同調する者もいましたが、アメリカ軍はイギリスに対する忠誠心の強い
民兵

グレナダ 1976/4/5 発行
カナダの人達から激しい反攻を受けることになりました。

カナダ5大湖イギリス艦隊の編成:〜
 (Provincial Marine)
・オンタリオ湖(Lake Ontario)〜5隻
 ・戦艦ロイアル・ジョージ号
  (Royal George, ship, 510t, 22gn)
 ・戦艦プリンス・リージェント号
  (Prince Regent, ship, 16gun)
 ・ブリッグ艦モリア伯爵号
  (Earl of Moira, brig, 262t, 14gn)
 ・ブリッグ艦グロースター公爵号
  (Duke of Gloucester, brig, 10 gn)
 ・スクーナー艦セネカ号
  (Seneca, schooner, 216t, 8gn、徴用商船)
イギリス艦

アメリカ独立200年記念
セントルシア  1976/6/26 発行
 ・スクーナー艦シムコー号(Simcoe, schooner, 187t, 8gn、徴用商船)
・エリー湖(Lake Erie)〜3隻
 ・戦艦クィーン・シャルロッテ号(Queen Charlotte, ship, 400t, 17gn)
 ・スクーナー艦レイディー・プレヴォスト号(Lady Prevost, schooner, 230t, 13gn、数週間後除籍)
 ・ブリッグ艦ハンター号(Hunter, brig, 180t, 10gn)

カナダ5大湖の戦闘:〜
  ・エリー湖の湖上戦、1813/9/10、米国の勝利
   Battle of Lake Erie, or Battle of Put-in-Bay
    エリー湖のオハイオ州湖岸プット・イン・ベイ近くで戦わ
    れた水上戦でアメリカ海軍の9隻の艦艇がイギリス海軍
    の6隻の艦艇を打ち破り全てを捕獲。それで米英戦争の
    残り期間、エリー湖の制水権を確保。一方でデトロイト砦
    の支配を回復し、テムズの戦い(Thames、1813/10/5)
    にも勝利して、テクムセ酋長の現地人同盟を消滅させる
  ・プラッツバーグの湖上戦、1814/9/6-11
   Battle of Plattsburgh、Lake Champlain)、米国の勝利
    米英戦争の終結近い1814/9/6〜9/11に、米国ニュ
    ーヨーク州北部シャンプレーン湖(Lake Champlain)で、
アメリカ艦

アメリカ独立200年記念
グレナダ・グレナディーン 1976/5/18 発行
    米軍と英軍の間で戦われた戦闘で、北部よりニューヨーク州に侵攻しようとした
    イギリス軍をアメリカ軍が食い止め、当時協議が進行していた休戦条約で、
    有利な条件を得ようとしたイギリスの思惑が潰れる。

こちらで
・ショーニー族テクムセ酋長
エリー湖の戦い
フォート・ジョージ (ジョージ砦)
フォート・ナイアガラ (ナイアガラ砦)
ナイアガラ瀑布
をお楽しみください。

参考HP:〜
ナイアガラ滝の付近地図(日本語GoogleMap:ナイアガラ川が有)
  (シカゴ、デトロイト、ナイアガラ滝、トロント、モントリオール、ケベック、その他何処にでも移動可)
ナイアガラオンザレイク付近の地図(日本語GoogleMap:何処にでも移動可、写真付)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/9/13
スタンプ・メイツ
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