Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)アステカ帝国征服(IV-7-2
ヒメネス・ド・ケサーダ
1538
コロンビアのボゴダ市を建設
フンザの征服

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
ヒメネス・ド・ケサー

フロリダ400年記念
スペイン 1960/10/12 発行

ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・キャラック船
Spanish Carrack


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
VENEZUELA
大コロンビアの地図

ヴェネズエラ 1969 発行
REPUBLICA ARGENTINA
南アメリカの地図

アルゼンチン 1935〜51 発行

スペイン生まれのケサーダは1536年に新世界に渡り、南アメリカ北部の現コロンビアを探検して征服したコンキスタドール(征服者)でした。ケサーダがグラナダ新王国(New Granada)と名付けた領土を探検・征服して金や也エメラルドなどを獲得して、1538年首都のサンタフェ・デ・ボゴタをボコダ高原に建設しました。教養のある弁護士として、スペイン征服者の知識人の一人で、有能な組織者であり指導者でもあり、その地域の政府のための最初の法律を起草し、歴史家でもありました。1556年から1557年までコロンビア・カルタヘナの総督を務め、1569年以降は東方への探検を行い、夢のようなエルドラド(黄金卿)を探すも成功せず、1573年にニューグラナダに戻りました。ケサーダはセルバンテスのドン・キホーテのモデルだともいわれています。
(AI、書き直し文)
スペイン出身のケサーダは1536年に新世界へ渡り、南アメリカ北部の現在のコロンビアを探検し、征服したコンキスタドールでした。彼が「グラナダ新王国」と名付けたこの地を探検し、金やエメラルドを獲得し、1538年には首都サンタフェ・デ・ボゴタをボゴタ高原に建設しました。教養ある弁護士であり、スペインの征服者たちの中でも知識人として、また有能な組織者であり指導者として、その地域の政府のための最初の法律を起草し、歴史家としても活動しました。1556年から1557年にはコロンビア・カルタヘナの総督を務め、1569年以降は伝説のエルドラドを求めて東方への探検を行いましたが、成功せず、1573年にニューグラナダに戻りました。ケサーダは、セルバンテスの「ドン・キホーテ」のモデルとも言われています。

ゴンサロ・ヒメネス・ド・ケサーダ・イ・リベラ
 Gonzalo Jimenez de Quesada y Rivera (1509〜1579/2/16)
ケサーダの出自は定かではありませんが、スペインのアンダルシ州グラナダかゴルドバの出身だとの説があります。1509年に父ルイス・ヒメネス・ド・ケサーダ(Luis Jimenez de Quesada)がゴルドバにきて法律家をしていたともいわれています。エルナン・コルテスフランシスコ・ピサロが遠縁の従兄弟だったとの説もあります。ケサーダには三人の弟・エルナン(Hernan)とフランシスコ(Francisco)とメルチョール神父(priest Melchor)がいてコンキスタドールとして新世界へ渡りました。そして姉妹のアンドレア(Andrea)がいました。

・新世界へ渡航
1535年に母親の家族が経済的に関わっていた重要な裁判に敗れたばかりで、故郷の人々との関係も良好ではなかったため、一攫千金を夢見て、コロンビア遠征隊に参加することを決意しました。ケサーダはカナリア諸島第二代総督ペドロ・フェルナンデス・ド・ルーゴ(Pedro Fernandez de Lugo, 1475 セビリア生-1536 サンタ・マルタ没) の遠征隊で副司令官に任命されました。1536年にルーゴ総督はコロンビア北部マグダレーナ県サンタ・マルタ(Santa Marta, Magdalena)の総督職を購入し、艦隊を整えて1,000人以上の兵士を集め、金と真珠に満ちた豊かな土地を求めてサンタマルタへとスペインを出帆しました。2ヵ月の航海の末、彼らが到着したサンタ・マルタの海岸沿いの小さな集落には、不潔で病気に苦しむ入植者たちが、アバラ家や周辺地域の原住民が作った皮や粗く織られた綿の服を着て歩いているだけでした。食料はすぐに不足し、熱帯熱が最も強い者たちを襲い始めました。

・ムイスカ連合の征服
 (Conquest of The Muisca Union)
1536年にニューグラナダの首都サンタ・マルタに着くとルーゴ総督が軍事経験のないケサーダを、夢のエルドラドを探し求めてニューグラナダの内陸部を探検する遠征隊の隊長に指名しました。陸上部隊は、彼の兄弟エルナン・ペレス・ド・ケサーダ(Hernan Perez de Quesada)、フアン・サン・マルティン(Juan San Martin)、副隊長フアン・デル・フンコ(Juan del Junco)、ラサロ・フォンテ(Lazaro Fonte)、セルヒオ・ブスティージョ(Sergio Bustillo)らと共に、1536/4/5に900人を率いてサンタ・マルタから南へと出発。セザール川(Cesar River, 280km)を渡り、マグダレナ川(Magdalena River, 1,528km)沿いのタマラメケ(Tamalameque)に到着。支援艦隊も5〜6隻に多くの兵士を乗せてサンタ・マルタを出帆。マグダレナ川を航行するも、タマラメケに到着したのは2隻だけでした。その後、多くの兵士を乗せてサンタ・マルタに戻りました。ケサーダと部下たちはマグダレナ川をラ・トラ(La Tora)まで遡り、マグダレナ川流域で首都ボゴタ北260km、国の中央部にあるサンタンデール県のオポン川(Opon River)をさかのぼり、コルディレラ山脈(Cordillera)に入り、オポンの丘(Opon hills)、チパタ(Chipata)、スアレス川(Suarez River, 172km)の渓谷に到達。1537/3月にはフケエネ湖(Lake Fuquene9とフケネ湖(Lake Fuquenei)、スエスカ湖(Lake Suesca)を通り、ネモコン(Nemocon)とクンディナマルカ県(#14)ジパキラ(Zipaquira)に到着しました。

その地域は、ムイスカ連合(Muyquyta)の原住民が住んでいて2人の支配者が統治していました。クンディナマルカ県のボゴタ(Bogota, プシヒプクア:Psihipqua)には酋長ティスケスーザ(Thisquesuza、1537年没)が、同県のフンザ(Hunza, ムイキタ:Muyquyta)には大酋長クエムエンチャトーチャ(Quemuenchatocha、1472-1538)がおり、両者は対立していました。ケサーダはボゴタを征服し、続いてフンザ(Hunza)を攻略して勝利を収め、黄金やエメラルドなどを獲得しました。1538/8/6にラス・カサス神父がキリストの像が描かれて新しく建てられた小さな礼拝堂の前でサンタ・フェ・デ・ボゴタ最初のミサを祝いました。その日はボゴタの創設日として毎年記念式が行われました。最終的には支配下の地域にエンコミエンダ制を導入して統治しました。スペインの街トゥンハ(Tunja、ボヤカ県#6県都)は1539/8/6に建設されました。

・三人の征服者
ケサーダは1538年の終わりまでこの地域に滞在。そこへ2つの遠征隊が到着しました。現エクアドルの首都キトから来たベラルカサールはピサロの反乱に加わった船長の一人で、もう一人はベネズエラから来たドイツ人ニコラス・デ・フェダーマンでした。3人の隊長はニューグラナダのサバンナで会い、それぞれがこの地を自分のものにしようとしました。紛争を解決するため、ケサーダは彼らを説得し、スペインに戻って王室の裁定を求めることにしました。1539/7月に彼らはコロンビアのボリーバル県(#5)カルタヘナからスペインへ向けて出帆するも、総督の地位を獲得することはできませんでした。ケサーダはヨーロッパ各地を12年間放浪した後、1550年にニューグラナダに戻り、そこで30年近く平穏に暮らしました。ケサーダは尊敬される入植者となり、王国で最も影響力のある人物となりました。ケサーダは入植者を官僚の厳しさや貪欲なエンコメンデロスから守りました。しかし、ケサーダ自身の富と黄金への欲望は生涯変わることはありませんでした。

・リャノスへの遠征と征服
1569年に63才のケサーダはコロンビアのアンデス山脈の東(Eastern Ranges) にあるリャノス(Llanos (Plains), Colombian Andes)という南米北部のアンデス山脈でベネズエラのオリノコ川流域からコロンビアにかけて広がる広大な熱帯サバンナ草原)の征服を命じられました。1569/4月にボゴタから、騎兵500人・原住民1500人・馬1100頭と荷運びラバ隊・牛600頭・豚800頭・黒人奴隷多数・司祭8人という大部隊を連れて、最初にオリノコ川の副支流ゲハル川(Guejar River 12km. アリアリ川(Ariari River,185km)支流)上流のメタ県(#20)メセタス(Mesetas)に下りました。そこでは、ほとんどの家畜が草原の野火で焼失していました。
ケサーダ遠征隊はその後、メタ県(#20)サン・フアン・デ・ロス・リャノス(San Juan de los Llanos)に移動し、東南東への道路を開設し、2年間維持しました。約1年後、数人の男性がフアン・マルドナド(Juan Maldonado)を伴って戻り、ほとんど生存者がいない状態で6ヵ月後にサン・フアンに到着しました。ケサーダは最終的にグアビアレ川(Guaviare River, 1,760km)とオリノコ川の合流点にあるベネズエラのサン・フェルナンド・デ・アタバポ(San Fernando de Atabapo)に1571/12月に到達しましたが、それ以上進むには船の建造が必要でした。そのため、ケサーダは落胆してボゴタへ帰ることにし、1572/12月にスペイン人25人・原住民4人・馬18頭・司祭2人だけがボゴタに到着ました。この遠征は歴史上、最も悲惨な惨事の一つとされています。

・終焉
ケサーダの死因ははっきりしていません。ボゴタで喘息に苦しみ、6万ダカット(Ducats)を超える借金を抱えていた彼は、より温暖な気候を求めて新王国グラナダの主要市場町マリキータに移住し、そこでハンセン病に罹患し、1579/2/16に70才で静かに亡くなったとも言われています。彼の遺体はマリキータのサンタ・ルシア修道院に埋葬されましたが、1597年7月に王室謁見官ドン・アントニオ・ゴンサレス・マンリケ(Antonio Gonzalez Manrique, 1695-1738)の命で、ケサーダが創設した首都ボゴタに移送されました。

参考:〜
・ムイスカ連合の征服とフンザ発見・征服の経過
1536/4月、ケサーダは伝説のエルドラドを探し征服するためにサンタマルタを出発し、アンデス山脈への壮大な遠征を開始しましたが、ジャングルで苦難に遭遇しました。数か月の苦闘の末、彼らはヘビ、トカゲ、カエルを食べることになり、さらにはハーネスや剣の鞘から剥がれた革さえも食べざるを得なくなりました。900人の中で生き残ったのはわずか180人でした。遠征中にはソモンドコとリャノスでエメラルドと他の貴重な宝物の情報を得ました。1537/8/20、ケサーダ征服者たちは馬と犬を連れて大酋長クエムエンチャトーチャの街に到着し、金の服を着た椅子に座るクエムエンチャトーチャを発見しました。この征服は後にサンアグスティン修道院が建てられるバランカベルメハ(Barrancabermeja)、マグダレナ川沿いのサンタンデール県(#27)西部で行われました。ケサーダはクエムエンチャトーチャをスエスカに連れて行き、隠された財宝の場所を聞き出して黄金やエメラルドなどを獲得しました。クエムエンチャトーチャは甥のアキミンザケに王位を譲り、ラミリキに退去してそこで亡くなりました。

<フンザの征服>(Conquest of Hunza) コロンビアの鉄道地図
サンタマルタ〜ボゴタ


コロンビア 1961 発行
(0)序章:〜フンザの発見とフンザ侵攻
(1)大酋長ホア・キミンザを捕える
(2)フンザ宮殿の略奪
(3)ソガモソの略奪と太陽の神殿の消失
(4)ネイヴァと悲しみの谷への遠征
<ムイキタの征服>(Conquest of Muyquyta)
(5)ティスケスーサの殺害
(6)サギパがムイキタの族長になる
(7)ボサの兵舎とサギパとの会談
(8)トカレマの戦い
(9)サギパの拷問と死
(10)サンタフェ・デ・ボゴタの建設
(11)遠征の結果
(0)序章
・スペインによるフンザの発見(1537)とフンザ侵攻(1538-1539)
スペインの侵略はケサーダが成功し、権力ある大酋長クェムンチャトチャ(Quemuenchatocha)を捕え、若き酋長アキミンザケ(Aquiminzaque)に権力を移譲した時に始まりました。アキミンザケは、彼と彼の部族がケサーダによってエンコミエンダ制度に組み込まれた後、スペイン人に対して攻撃的な姿勢を見せず、最終的にカトリックに改宗しました。しかし、スペイン人からの絶え間ない要求はムイスカ人の不満を引き起こし始めました。

・フンザ征服の経過
 (Conquest of Hunza)
1536/4/6、ケサーダは歩兵、騎兵、犬を連れて、強力なホア・エウカネメ(Hoa Eucaneme,1472フンザ生-1537ラミリキ(Ramiriqui)没,ケムエンチャトチャ: Quemuenchatocha)が治めるフンザに向けてサンタ・マルタから進軍を始めました。ホアはプシヒクア(Psihipqua,ジパ:Zipa)よりも高位にあり、ムイスカのプシヒクアと同等の威厳を持っていました。ホアは偵察兵からの報告により、金銀財宝を求める外国人の接近を知り、布と食べ物の贈り物で彼らを歓迎する使者を送りつつ、金やエメラルドを隠しました。1537/8/20にスペイン人がフンザに到着しました。
スペイン人がフンザに到着した時、彼らはエウカネメの居住地の王宮へと向かいましたが、エウカネメは隠れることに成功し、甥のキミンザ(Quiminza)にその場を任せました。王宮内部に入った彼らは、壁が金箔で飾られ、ドアには金の鈴で作られたカーテンがかかっている光景に大いに感動しました。フンザは外国人の突然の到来に備えていなかったので、その時の群衆の混乱と驚きは甚大でした。ムイスカの戦士たちは戦いの声を上げ、住民は恐怖に震えながら混乱し、ケサーダは部下たちに防御態勢を取るよう命じました。騎兵隊は歩兵から少し離れたところに整列して防御を固めいました。その時、原住民たちは宮殿の周囲にある2つの門を閉ざし、スペイン人の逃走の道を断と、2つの囲いの間に閉じ込められてしまいました。ケサーダは馬から降り、部下の少尉がついにドア閉鎖の縄を切り落しました。二人は剣を手に宮殿へと進み、残りの兵士たちも後に続きました。次に、彼らは宮殿内で最も大きく華やかな家屋へと向かい、恐怖に怯える人々の群れを慎重に避けながら進みました。そして、彼らが大きな家屋に入ったとき、そこでホアを見つけました。

(1)大族長ホア・キミンザを捕える
 (Capture of Hoa Quiminza)
ケサーダは大族長ホア・キミンザ(カシケ:Cacique)に拝謁しました。金色の肘掛け椅子に座り、立ったままの貴族たちに囲まれていたホアは、スペイン人が入ってくるのを見ても無表情でした。ケサーダは数歩進み、ホアに手を置きました。すると、カシケの家臣や使用人たちは、憤慨と怒りの叫び声をあげたので、外の群衆は入りたがるも、彼らは門前口にいた兵士たちの槍に制止されました。そして直ぐ夜になりました。幾つかの議論の後、通訳を通じて、ホアと彼の女性はスペイン人の保護下に留まり、彼らの地位による安全性と配慮が保証されるべきであることが合意されました。大族長ホア・キミンザは偽物で本物はホア・エウカネメ(Hoa Eucaneme)で、彼が安全だと感じた時にのみ現れ、スペイン人はだまされていました。1539年でさえ、そのままで、1540年に疑いが発見され、カシケ全員(アキミンザケ(Aquiminzaque)・トカ(Toca)・モタビタ(Motavita)・サマカ(Samaca)・トゥルメケ(Turmeque)・スタマルチャン(Sutamarchan)のカシケがケサーダの命令で逮捕されて死刑が宣告されました。1540年にザク(Zaque)は斬首され、その死はフンザのザク王朝(Zaque Dynasty of Hunza, c800-1540)の終焉となり、甥キミンサ(Quiminza)も処刑されました。それは新トゥンジャ州(ボヤカ県#6)に沿ったエンコミエンダの先住民の崩壊と分散になりました。それらはスペインのトゥンハ(Tunja)設立の文書に記載されていました。なお、スペイン人が中央コロンビアの高地に到着したとき、この地域は2人の支配者を持つムイスカ連合に組織されていました。ジパ(Zipa:ティスケスーザ)は南部の支配者でムイキタに拠点を置いていました。ザケ(Zaque(Hunza):クエムエンチャトーチャ)は北部地域の支配者で、今日トゥンジャとして知られているフンザに拠点を置いていました。
参考HP:〜
ムイスカ連合の場所地図(コロンビア中央部)
ムイスカ連合のカシケ区分地図

(2)フンザ宮殿の略奪
 (Looting of Hunza Palace)
同夜、スペイン人は松明を持って宮殿の家々を見学し、ほとんどの金がそこから奪われたことを確認しました。金箔で覆われた壁を見たとき、スペイン人は「ピル、ピル、ピル」と叫びました。なぜなら、ピルは当時のペルーのことで、その莫大な富はすでに知られていたからです。ケサーダは発見されたものの目録を作成するよう命じました。彼らは、あらゆる色の多くの上質な生地、大量のエメラルド、金のシートと宝石、金で縁取られた美しい貝殻を見つけました。これらは、現地人が祝祭日や戦いを告げるラッパとして役立ちました。各兵士はできるだけ多くの荷物を宮殿の大きな中庭に運び、年代記の著者は、彼らがもっと早く門を壊すことができれば、もっと多くの富を集めることができただろうと書いていますが、それでも蓄積された金の山は非常に大きかったので、その周りに立って見張っていた騎兵はお互いを見ることができないほどでした。

(3)ソガモソの略奪と太陽の神殿の消失
 (SolSacking of Sogamoso & Burning of Temple of the Sun)
フンサでケサーダは、スアモックス(Suamox、現ソガモソ:Sogamoso)と呼ばれる町に、太陽崇拝に捧げられた巨大な寺院があり、無数の富が守られていることを知りました。その後、ケサーダはその町を求めて北へ出発することを決め、ホアの捕虜をフンザに残しましたが、スペイン兵は彼の階級とケサーダが彼らにそうするように命じたという事実のために、スペイン兵はいくらかの敬意と配慮を持って扱い続けました。ソガモソ(Sogamoso)に向かう途中、スペイン人はパイパ(Paipa)を通過して族長カシケ・トゥンダマ(cacique Tundama)の地域に入り、トゥンダマは時間内に脱出して宝物を隠すことができ、スペイン人を失望させました。午後、彼らはイラカ(Iraca)の谷に到着し、そこにはムイスカ(Muiscas)の聖地であるスアモックス(Suamox)の町が建てられました。ソガモソ(Sogamoso)のグエチャ族(Guechas)は、フンザで起こったことを警告され、戦闘の準備ができているも、スペイン軍に難なく敗北し、スペイン軍は夜遅く、住民が恐怖で逃げ出したソガモソの町に入ることができました。いくつかの家で、彼らはシートやその他の金の物体を大量に集めました。兵士の2人が松明を持って太陽の神殿に最初に入ると、そこには金と色とりどりの祭服で飾られた多くのミイラがありました。床はエスパルト草(esparto)の細かいつや消しで覆われ、壁は磨かれて織り込まれた葦で覆われていたため、手に入るすべての金を集めたい兵士が不器用に扱った松明の火は、その場所を非常に速く発火させ、焼き尽くして灰になりました。

(4)ネイヴァ(悲しみの谷)への遠征
 (Expedition to Neiva and the Valley of Sorrows)
ソガモソの略奪後にスペイン人がトゥンハに戻ったとき、彼らはクエムエンチャトーチャを解放し、そこでの莫大な富の知らせに勇気づけられてネイヴァ渓谷(Neiva Valley)の道へと出発しました。途中ボンザ(Bonza)の平原を通過したとき、スペイン人がツンダマ(Cacique Tundama, or Saimoso:サイモソ,15世紀-1539/12月下旬,ドゥイタマ(Duitama)没)と呼んだカシケ・サイモソ(cacique Saymoso)との血なまぐさい戦いに直面し、ツンダマが毒矢で武装した原住民の大軍を召喚したため、ケサーダは危うく命を落とすところでしたが、スペイン人は難攻しながらも勝利を収めました。その後、彼らはスエスカへの行進を続け、クンディナマルカ県(#14)スエスカ(Suesca, Almeidas:アルメイダス郡)はケサーダが先住民から受けた良好な待遇と温暖な気候とのためにお気に入りの場所になりました。彼はスエスカに本部を設置し、そこから行進を続け、急いでボゴタ・サバンナ(Bogota savanna, 平均高2,650m)を渡り、クンディナマルカ県(#14)パスカ町(Pasca, Sumapaz:スマパス郡)に下り、クンディナマルカ・マグダレナ(Magdalena cundinamarques)の炎熱地帯に到達しました。遠征は悲惨なものであり、困難を乗り越えてウイラ県(#17)ネイバ(Neiva)に到着した彼らのほとんどが病に倒れ、数人が命を落としました。何も発見できなかったため彼らは、アンデス山脈の東部山脈クンディボヤセンス・アルティプラノ高地(Altiplano Cundiboyacense Plateau, 平均高2,600m, Eastern Range of the Andes)ウィラ県(#17)のアルティプラーノ(Altiplano)に戻らざるを得ず、ケサーダはその谷を「悲しみの谷」(Valley of Sorrows)と名付けました。

<ムイキタの征服>
(5)ティスケスーサの殺害
 (Murder of Tisquesusa)
ケサーダがボゴタに戻ると、ジパ・プシヒクア・ティスケスーサ(Siba Psihipqua Tisquesusa)はクンディナマルカ県(#14)バカタ(Bakata,1538/8/6ケサーダが設立の新グラナダ王国首都ボゴタ市)から逃亡(セルカド(Cercado)に避難)していましたが、弟エルナン・ド・ケサーダから、ジパがバカタのクンディナマルカ県(#14)ファカタティバ(Facatativa)のジパ宮殿(Siba Palacio)にいたのを発見したと告げられました。ケサーダは部下を伴って、夜にファカタティバに向けて出発しました。1538/10/15、ケサーダ指揮のスペイン人がムイスカ連邦のジパズゴ(Zipazgo)の領土を構成していた5つのジビン(バカタのジパズゴ:Zipazgo de Bacata、フンザのザカズゴ:Zacazgo de Hunza、イラカ:Iraca)、ツンダマ:Tundama、自治領:Territorios Autonomos)の1つバカタのファカタティバに到着しました。そして彼らはジパ宮殿を見つけ、すぐに攻撃を開始しました。予期せぬ攻撃に驚いたティスケッサのギュエシャ(Guechas de Tisquesusa)は、スペイン人に炎の矢を放ち、ジパに逃げる時間を与えようとしましたが、その瞬間の混乱のために、ジパは暗闇の真ん中、茂みの中で走り出しました。スペインの兵士がそれがジパであることを知らずに、剣で彼の胸を突き刺しました。彼が身につけていた豪華な衣服や装飾品を目にしたスペイン兵は、彼からそれらを奪い取り、裸のまま死に至らしめました。翌日、ジパの家臣たちがハゲタカが飛ぶのを目撃し、その地域でジパの遺体を見つけました。彼らはジパの遺体を速やかに回収し、非常に注意深く未知の場所へと運び、そこに埋葬しました。一方で、スペイン人はジパの宝物が見つからずにいら立ちを感じていました。彼らはジパが隠していたとされる日常の衣服、典型的な宝石、手洗い用の金の器、そして多くの食器類しか発見できず、失望してフンザに戻りました。そして、ジパがその夜に亡くなったことを数日後に知ったのです。その後、ジパの兄でありクンディナマルカ県(#14)サバナセントロ郡チア(Chia(月の女神:Moon goddess), Sabana Centro, Cundinamarca, Colombia)の首長であるサギパ(Sagipa, Zaquesazipa)がバカタの統治を引き継ぎました。
※族長ジパ・ティスケスーサは叔父ネメケネ(Nemequene)の後を継いで王位に就き、1514年から1538年までの24年間統治しましたが、彼の身元を知らなかったケサーダの部下の兵士によって1538年に暗殺されました。その後は兄のサギパ(Sagipa)が後を継ぎました。

(6)サギパがムイキタの族長になる
 (Sagipa ascends to Throne of Muykita)
ティスケサの没後、正当な後継者だという甥チアイザケ(Chiayzaque)はスペイン人との和平合意に達することに賛成していたが、部族の過半数の支持は得られなかったため、ムイスカの間の緊張が高まりました。そしてキアイザケは、叔父サギパがムイスカ家慣習の母系継承を尊重していないと非難し、ケサーダに正当な後継者ではないと訴えました。一方、サギパは一族からの支持は得られなかったものの、ムイスカの人々の大多数からの支持を受けていて、スペイン人との戦いに勝利するまで戦う決意を固めていました。困難に直面しながらも、サギパは族長プシヒクアとなって、多くの軍を率いてスペイン人に対抗し、彼らに大きな打撃を与えました。しかし、サギパはムイスカの伝統的な敵で、マグダレナ川とその流域の両岸、北西のグアリ川流域から北東のネグロ川、南西のコエーリョ川流域、南東のフサガスガまでに住んでいた先住民族パンチ族(Panches)が新たな侵攻を計画していることを予期していませんでした。その結果、サギパはスペイン人との一時的な和平協定を結ぶことになりました。

(7)ボサの兵舎とサギパとの会談
 (Bosa Barracks and Meeting with Sagipa)
ジパズゴ(バカタ)の後継者が決まる間、ケサーダは緊張が高まっていることを感じ、ボゴタ川(Rio Bogota 380km)に流れ込むツンフエロ川(Rio Tunjuelo 73km)沿いのムイスカの町ボサ(Bosa:ボゴタ首都地区)の兵舎(Bosa Barracks)に宿を取ることにしました。この地は平坦で不毛であり、森もラグーンも沼地もないため、攻撃があった場合、騎兵隊がすぐに行動を起こせる環境でした。ボサに滞在している間、ケサーダは新たなプシヒクア(族長サギパ)の使者を平和の申し出と共に迎え、さらにプシヒクアがスペインのケサーダ将軍へ提供した使用人、多くの毛布、金、エメラルドを含む豊富な贈り物を受け取りました。その後間もなく、サギパがケサーダに会うためボサに到着しました。サギパは、使用人たちによって黄金の台に乗せられ、親族や兵士に囲まれながらボサに到着しました。一部の使用人は、行列が通る予定の道を石や障害物がないように掃き清めて先行しました。先住民たちは、主人の目を直接見ることが禁じられていたため、その態度に深く感動しました。また、スペイン人たちは、プシヒクアが唾を吐き出す際にも、彼の使用人がその唾液を神聖なものとして美しい綿の布で受ける様子に感銘を受けました。彼らはさらに、サギパの言語が彼の臣民の言語とはいくつかの点で異なり、おそらく彼がより洗練されていたことから、その態度にも気づきました。

(8)トカレマの戦い
 (Battle of Tocarema, 1537/8/20)
サギパは、ジパコンの町を襲撃し、多くの捕虜を連れ去り作物を破壊したムイスカの激しい敵、パンチ族との戦いにケサーダの助けを求めました。ケサーダは支援を承諾し、12,000人のムイスカ・グエチャと40人のスペイン兵を率いてアノライマのパンチ族領へと進軍し、数々の戦闘の末、トカレマの戦いでパンチ族を鎮圧しました。捕らえられたパンチ族の一部はジパに送られ、残りのパンチ族はグアマ(Guama fruta、インゲン豆?)、アボカド、金の供物を携えてケサーダのもとへと来ました。

(9)サギパの拷問と死
 (Torture and Death of Sagipa)
スペイン人とムイスカ人の連合軍が勝利してパンチ族が大敗後、族長サギパとスペイン人はボゴタから40kmのクンディナマルカ県(#14)クンディナマルカ郡ボハカ(Bojaca, Cundinamarca)に行き、勝利の大きな喜びを祝宴で祝いました。ところが、サギパが宝物を別の場所に隠していると聞いて自白させるために逮捕しました。サギパはフンザに捕虜として連れて行かれ、征服者によってボゴタの財宝の引き渡しを要求されました。彼は自由と引き換えに、小屋を金で満たす期限を与えられました。サギパは家臣たちに金塊を要求すると答え、4日後にそれを得ると述べました。期限が過ぎても小屋は金で満たされておらず、ケサーダはサギパへの敵意から金貨を渡さなかった2人の原住民の拷問を命じました。拷問後も何も渡さなかった2人の原住民は絞首刑により死刑を宣告されました。サギパはうつ状態に陥り、スペイン人の質問には一切答えず、常に沈黙を保っていました。その後、ケサーダは裁判を開始し、弟エルナンをサギパの代理人として指名しました。拷問がサギパに話をさせる手段で用いられて重傷を負い、数日後に死亡しました。

(10)サンタフェ・デ・ボゴタの建設
 (Foundation of Santa Fe de Bogota)正確な日付は不明で1538/8/7が建設日とされている
ケサーダは、グラナダ新王国奥地の新発見の場所をスペイン王国マドリードへ行って報告しょうと思いましたが、その前にスペイン人が安全に暮らせる街を建設することにしました。候補地として、田園地帯でイースタンヒルズ(現在のボゴタ東の丘)の隣で、その土壌は固く、以前の人口はなく、肥沃で、水は丘から多数の小川で流れ落ち、周囲には最初の建物の建設に着手するのに十分な森林と石があり、東部の山々は、敵の攻撃に対する自然な防御を提供している所を選定しました。基礎が築かれ、町にはサンタフェ・デ・グラナダを記念してサンタフェ・デ・ボゴタとの名前が付けられました。1538/8/6にラス・カサス神父が小さな礼拝堂のキリスト像が描かれた画布の前にてサンタ・フェ・デ・ボゴタ最初のミサを祝いました。

(11)遠征の結果
 (Economic result of Expedition)
遠征の経済的結果は成功し、病気やインディアンや動物による攻撃による人的損失とは対照的な、
歴史家が記述した経済的な成果:〜(得られた利益)
・フンザ宮殿 純金 136,500ペソ 低品質金 14,000ペソ エメラルド 280個
・スアモックス村(Sogamoso) 純金 40,000ペソ 低品質金 12,000ペソ エメラルド 118個
・合計(征服領土全体) 黄金 249,976ペソ エメラルド 1,815個
・生存兵士 174人 給料の支払
・兵士への支払後の支払金 純金 148,000ペソ 低品質金 16,964ペソ エメラルド 836個
 (内訳)
@ 外科医の給料 F
A 医薬品の費用 G
B H サンタマルタの教会への寄付
C クロスボウ用の糸 I 死者のミサの支払い
D 火縄銃 J 王室への五分の一の支出
E (T) 後の支払金に同じ。

三人の征服者
 (The three conquistadors)

参考HP:〜
コロンビア征服の地図
アロンソ・デ・オヘダ (1499-1501)
バスコ・ヌニェス・デ・バルボア (1513)
ペドロ・アリアス・ダビラ (1513-1519)
パスクアル・デ・アンダゴヤ、ディエゴ・デ・アルマグロ、フランシスコ・ピサロ (1515-1529)
ペドロ・デ・エレディア (1532-1538)
セバスティアン・デ・ベラルカサル (1533-1539)
セバスティアン・デ・ベラルカサル (1533-1539)
ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ (1536-1538)
ニコラス・デ・フェデルマン (1537-1539)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和6年 2024/12/23 追記  
スタンプ・メイツ
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