Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)財宝輸送と対外戦争(VII-3
マヌエル・ド・アマット総督
1761
ペルー総督

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
アマット総督

スペイン 1976/3/1 発行

チリの場所地図

チリ 1960 発行
スペインの戦列艦

Santisima Trinidad
スペイン 1964 発行
ペルーの地図

ペルー 2002 発行

アマット総督はスペイン貴族の出身で、少年時代から戦争に従軍し、若くして軍歴を上り詰め、その功により新大陸の総督を歴任しました。ペルー総督時代には豊かな富をスペイン本国へと積み出し、粋な恋の浮名を流したことでも有名になりました。

マヌエル・ド・アマット・イ・ユニェント総督
  Manuel de Amat y Junyent (1704〜1782/2/14)
 生誕地:スペイン王国カタルーニャ州(#10)バルセロナ県バカリサス
       (Vacarisses, Barcelona, Catalonia, Spain)
 没 地:スペイン王国カタルーニャ州バルセロナ県バルセロナ
       (Barcelona, Barcelona, Catalonia, Spain)
アマット総督はスペイン・バルセロナでカタロニア貴族の家に生れました。1719年(15才)でアラゴン州(#2)での対戦争に従軍しました。1721年(17才)でマルタ島ナイト騎士団に入り、4年間マルタ島に滞在しました。その後、スペインのバレンシア州(#17)バレンシア県カンポ・デ・モーヴェード郡サグント(Sagunt, Valencia, Valencia)のサグント竜騎兵連帯(Sagunto Dragoons Solidarity)に入隊して連隊長になって、北アフリカでの戦争に従軍しました。

1734年にはイタリアのシチリア総督(Viceroy of Sicily, 1734-1737)だった初代モンテマール伯爵(Jose Carrillo de Albornoz y Montiel, 1st Duke of Montemar, 1671-1747)の部隊(40,000人)にてポーランド継承戦争(War of Polish Succession, 1733-1735)でイタリアのナポリ王国(Kingdom of Naples, 1282-1806)バーリ県ビトント(Bitonto, Bari, Italy)へ出征し、傑出した活躍を見せました。1734/5/25のビトントの戦い(Battle of Bitonto)では、オーストリア軍のベルモンテ公ジュゼッペ・アントニオ(Giuseppe Antonio, Duke of Belmonte)とオーストリア副王ヴィスコンティ伯爵(Austrian viceroy, Giulio Borromeo Visconti, Count of La Pieve di Brebbia)を破り、スペイン軍がオーストリア派遣軍に勝利しました。ビトントの戦いは同盟国フランスの参加なしにスペイン軍(14,000人)が単独でオーストリア軍全体(100,000人)を全滅させた完全な勝利でした。

1734/4月にオーストリア軍が守備するイタリアのラツィオ州ラティーナ県ガエータを、パルマ公(後スペイン国王カルロス3世:Carlos III, 1716/1/20-在位1759-1788/12/14/)率いるスペインとフランス連合軍が包囲攻撃(Siege of Gaeta, 1734/4/8-1734/8/6, Gaeta, Latina, Lazio, Italy)するもオーストリア軍は4ヵ月持ちこたえました。しかし1734/8/6に連合軍がガエータ市を襲撃してオーストリア軍は敗北しました。その戦いでもアマット連隊長は優れた成績を収め大手柄を立てました。その後、陸軍元帥(Field Marshal)に昇進しました。

1755年、51才でチリの知事(37代:1755-1761)として大西洋を越えて新大陸へ渡りました。ビオビオ州(#8)サンタバーバラ(Santa Barbara)のようなマプチュ族国(mapuche)との境界や海岸に武装地帯を構築しました。ナシメント(Talcamavida, Hualqui & Nacimiento#8)などに都市を建設し、マプチュ議会を召集しました。1758年にはサルト・デル・ラジャ、1760/2月にはサンチャゴ。それはコンセプシオン(#8)とチロエ(Concepcio'n & Chiloe#10)の安全の話し合いの合意のためでした。最後には一方的な合意となりました。彼はサンティアゴでは重要な公共事業・管理業務などを引き受けました。マポチョ川の支流の延長工事とか、公設市場、1757年のサンフェリペ大学の再建、1758/10/12チリ警察の創設、レイナ竜輝兵(Dragoons of Reina)と呼ばれた警察で1812年まで続いた。チリの竜騎兵とも呼ばれましたが、それが好意を持って彼の功績と認められた最後でした。#10) Chiloe)の安全の話し合いの合意のためでした。最後には一方的な合意となりました。サンティアゴ(#RM)では重要な公共事業、および管理タスクを引き受けました。首都圏を流れるマポチョ川(Rio Mapocho, 110km)の支流の延長工事とか、公設市場、1757年のサンフェリペ大学の再建、レイナ竜騎兵(Dragoons of Reina)と呼ばれた警察で1812年まで続き、チリの竜騎兵とも呼ばれました。それが好意を持って彼の功績と認められた最後でした。

1761年、マンソ・ド・ヴェラスコ総督の後を受けて、第44代ペルー総督(1761-1776)となりました。その時代のペルーは金銀財宝をスペインへと積み出したのですが、その富の豊かさはインカ征服時代をしのいだとされています。その政権時代には、フランスとイギリスの間で七年戦争(1756-1763)が起こっていたので、アマト総督はチリとペルーの海岸、特にチロエ(#10、コンセプシオン(#8)、バルディビア(#14)、バルパライソ(#5)、フアンフェルナンデス諸島リマ、カヤオ、グアヤキルの沿岸地域と港を保護するための防護対策を講じました。要塞計画は、城の建設、壁の補強、兵舎の建設などを提供しました。彼はまた、上記のレイナ竜騎兵などのような新しい軍団を創設しました。内政では、ペルーのリマ県リマ市街の公共施設の整備を行いました。また、リマ県リマ市リマック(Rimac)地区(#7)の水散歩道や大通りの並木道などの整備は、そこに居た愛人のマリア・ペリチョリ(Maria Micaela Stolen Villegas Perricholi 1748-1819、18世紀ペルーで有名な女優)のために作ったということは、良く知られていると伝えられています。アマット総督はスペインに帰国後の1782年バルセロナにて78才で亡くなりました。

・参考:〜
<アマット総督の太平洋探検隊派遣>
1772年にイギリスのクック船長の太平洋探検の知らせを受け、イギリスの太平洋諸島の植民地化を警戒して現フランス領ポリネシア方面へ1772〜1775年の間に遠征隊を3回派遣しました。
・第一回遠征航海(1772〜1773)
 ・ソシエテ諸島付近を探検航海
 ・フリゲート艦サンタ・マリア・マグダレナ号
  ボネチェア船長(frigate Santa Maria Magdalena後アギラ改名)
 ・フリゲート艦アギラ号(Aguila)
  ガヤンゴス副長
スペインのフリゲート艦

ラ・プリンセサ号 ”La Princesa”
ソロモン 1981 発行
1772/9/26、スペインのドミンゴ・デ・ボネチェア船長(Domingo de Bonechea y Andonaegui, 1713バスク州(#5)グアダラヒア生-1775タヒチ没)とトマス・ガヤンゴス副長(Tomas Gayangos)はペルーのリマ(#7)西部カヤオ港を出帆。1772/11/7にタヒチに到着。ヴァイウル湾(Vaiuru Bay)に停泊し「プエルト・サンタ・マリア・マグダレナ」(Puerto Santa Maria Magdalena)と命名。ボネチェア船長は、自分自身と乗組員が地元の女性と関係を持つことを禁じてタヒチ人を大いに驚かせたと伝わっています。1772/12/20にタヒチを出帆。1773/2/21にバルパライソ(#5)に到着しました。
・偵察または発見した島々
 ・トゥアモツ諸島(Tuamotu Archipelago)
  ・タウエール環礁(Tauere Atoll)
  ・ハライキ環礁(Haraiki Atoll)
  ・アナア環礁(Anaa Atoll)
 ・ソシエテ諸島(Society Archipelago)
  ・メヘティア島(Mehetia Island)
  ・タヒチ島(Tahiti Island)1772/12月
  ・モーレア島(Moorea Island)1772/12月
 ・など。

・第2回遠征航海(1774-1775)
 ・ソシエテ諸島付近を探検航海
 ・フリゲート艦アギラ号
  ・ボネチェア船長
 ・ジュピター号(Jupiter)に乗船
  ・ホセ・アンディア・イ・バレラ副長(Jose Andia y Varela)
1774/9/20にカヤオ港を出帆。ソシエテ諸島とトゥアモツ諸島の間の島々を偵察または発見して命名・地図を作成しました。2隻はタヒチ南東部の短いヴァイテピハ川(Vaitepiha River, 137m)が流れ込むヴァイテピハ湾(Vaitepiha Bay, 現タウティラ湾:Tautira Bay)にある場所に伝道所を設立しましたが、それはわずか数年で無くなりました。この遠征でドミンゴ・デ・ボネチェア船長が1775/1/26にタヒチで亡くなり、伝道所の近くでスペインのタヒチ島に対する支配を示す聖十字架付近に埋葬されました。十字架には、キリストが征服しカール3世(Carlos III, 1716ー在位1759ー1788)が統治する(Christus Vincit Carolus III imperat 1774)と刻まれていましたが、1777年にイギリスによって取り壊されました。ボネチェア船長の墓は20世紀にタウティラ村(Tautira)で再発見されました。バレラ副長は1775/11/12に帰国の途についたと伝わっています。
・偵察または発見した島々
 ・トゥアモツ諸島
  ・タタコト環礁(Tatakoto Atoll)
  ・タウエレ環礁(Tauere Atoll)
  ・テココタ環礁(Tekokota Atoll)
  ・ヒクエル環礁(Hikueru Atoll)
  ・ハライキ環礁(Haraiki Atoll)
  ・アナア環礁(Anaa Atoll)
  ・タハネア環礁(Tahanea Atoll)
  ・モトゥトゥンガ環礁(Motutunga Atoll)
 ・ソシエテ諸島
  ・メヘティア島(Mehetia Island)
  ・ライアテア島(Raiatea Island)1775/10月
  ・モーレア島(Moorea Island)
  ・フアヒネ島(Huahine Island)
  ・ボラボラ島(Bora Bora Island)
  ・マウピティ環礁(Maupiti Atoll)
  ・マイアオ島(Maiao Island)
  ・マヌアエ島(Manuae Atoll)
  ・テティアロア環礁(Tetiaroa Atoll)
 ・など。

参考HP:〜
ソシエテ諸島付近の地図(タヒチ島(Tahiti)など)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和7年 2025/3/25追記

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