大航海物語 |
ジェームス・リンド博士 1753 壊血病の予防と治療を奨励 |
参考資料 |
リンド博士と、ライムをかじる船員 | ||
リンド博士 | ライムをかじる水兵 | |
トランスカイ 1993 発行 |
SOUHRN ROHDESIA 柑橘類(オレンジ・ミカン) 南ローデシア 1964 発行 |
ISRAEL オレンジ(ミカン) イスラエル 1964 発行 |
Gibraltar 18世紀の英国戦艦 ジブラルタル 2007 発行 |
英国スコットランド生まれのリンド博士はイギリス海軍の軍医で、1747年に乗艦したサルスベリー号で臨床実験を行い、オレンジやライムなどの柑橘類が壊血病の治療と予防になることを突き止めその結果を、1753年に論文で発表し、後年に臨床実験の父と呼ばれるようになりました。 |
・ジェームズ・リンド (1716/10/4〜1794/7/13) Dr. James Lind 生地:エジンバラ(Edinburgh, Scotland) 没地:ゴスポート(Gosport, Hampshire)、77才没 経歴:〜専門:海軍の保健衛生(naval hygiene) ・イギリス海軍々医(Surgeon, Royal Navy, 1739-48) ・エディンバラ医師(Physician, Edinburgh, 1748-58) ・ハスラー海軍病院上級医師(Senior Physician, Haslar Naval Hospital, 1758-83) 子供:〜 ・長男:ジョン・リンド(John Lind 1751-1794) ハスラー海軍病院主任医師 (Chief Physician, Haslar Hospital 1783) ・次男:勅任艦長サー・ジェームス・リンド大佐、バス勲章受賞者 (Post-Captain Sir James Lind RN KCB 1765-1823) アメリカ独立戦争(1775-83)、フランス革命戦争(1792-1802)、ナポレオン戦争(1803-15)、 1804/9/15ベンガル湾ヴィザガパタンの海戦(Battle of Vizagapatam)敗戦に従軍。 リンド博士はイギリス海軍の衛生学の創始者で、柑橘類と新鮮な野菜を用いることで壊血病の予防と治療を奨励した人物です。リンド博士は英国スコットランドのエジンバラで商家に生まれ、姉がいました。1731年にエジンバラ王立外科医師会(Royal College of Surgeons of Edinburgh 1505)の医師ジョージ・ラングランズ(George Langlands)に弟子入りし、見習いで働きながら医学を学びました。1739年大英帝国海軍に軍医兵曹(Surgeon's Mate)で入隊し、地中海(Mediterranean)、西アフリカ(West Africa)沿岸、西インド(West Indies)方面で働きました。1747年イギリス海峡艦隊(Channel Fleet)軍艦、50門4等戦列艦サリスベリー号(HMS Salisbury, 50-gun, 4th rate Ship of the line, 976tn, 1746)に乗り組み、壊血病を臨床治験しながら治療した経験を、1753年に「壊血病の研究」(A treatise of the scurvy)という論文を出版して発表しました。 ・リンド博士の大航海(1747〜1748) 17世紀になると英国では柑橘類が壊血病の予防になることが知られてきました。イギリス東インド会社(British East India Company, 1600)の軍医ジョン・ウッダル(John Woodall, 1570-1643)などが柑橘類を推奨していましたが、リンド博士は1747年に戦艦サリスベリー号に正式軍医(ship's surgeon)として乗組んで、世界で始めて臨床試験による疫学の手法を用いて臨床実験(Lind's experiments)と治療をなし、壊血病と新鮮な野菜や果物(柑橘類:Citrus fruit)の不足の因果関係を実証的手段によって突きとめました。 1747年、(サリスベリー号での臨床実験大航海) 03/29、戦艦サリスベリー号がポーツマス港(Portsmouth, England)を出帆 リンド博士は壊血病の対策に柑橘類を積込む 03/31、フランスの私掠船(French privateer)を捕獲し プリマス港(Plymouth)へ連行 04/02、プリマス港を出帆 04/11、フランスの小型漁船(small French fishing vessel)を捕獲 プリマス港(Plymouth)へ連行後、 ビスケー湾(Bay of Biscay)をパトロール 05/20、ロワール(Loire-Atlantique, France)沖付近で壊血病治療の実験開始 12人の壊血病患者を6グループに分けて臨床治験を実施 第1グループ:〜ポータブルスープ(a quart of cider) 第2グループ:〜25ツブのエリキシル(twenty-five drops of elixir of vitriol:硫酸塩) 第3グループ:〜コサジ6杯の酢(six spoonfuls of vinegar) 第4グループ:〜1パイントの海水(a pint of sea water) 第5グループ:〜オレンジ(Orange)2個とレモン(Lemon)1個 第3グループ:〜麦汁(ばくじゅう、wort、barley water)と辛い糊(spicy paste) 下剤混合薬(purgative mixture)説有 を毎日与える 05/31、プリマス港に帰港 オレンジなどの柑橘類投与グループは回復、 リンド博士は”臨床実験の父”(father of clinical trials)と呼ばれる。 なお、戦艦サリスベリー号の最期は、1761/4/24にインドのボンベイ(Bombay)で致命的な破損を喫して終焉を迎えました。 1748年にイギリス海軍を退役して、性行為感染症(VD:venereal diseases、STD:sexually transmitted diseases)で医学博士(MD:Doctor of Medicine)の論文をエジンバラ医科大学(University of Edinburgh Medical School, 1726)に提出して、医学博士号を付与され、故郷エディンバラで開業する免許を取得しました。1758年にハスラー海軍病院上級医師(Senior Physician, Haslar Naval Hospital, 1758-83)となり、1783年まで働きました。リンド博士は水兵だけでなく、陸軍兵士にも予防医学と栄養学の実践に影響を与えました。1794年にイングランドのハンプシャー州ポーツマス港西岸近くの町ゴスポート(Gosport, Hampshire)で亡くなりました。 なお、1753年にリンド博士が発表した壊血病の治療と予防に関する論文は、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特にミカンやレモンを摂ることによってこの病気の予防が出来ることを見出したものでしたが、その成果をイギリス海軍省は、当時の航海では新鮮な柑橘類を常に入手することが困難だったことから、直ぐには実施しませんでした。 クック船長(1728〜1779)の南太平洋探検第一回航海(1768-1771)で、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられたのは、ザワークラウト(sauerkraut キャベツの漬物)のおかげだったことは、長くわかりませんでした。当時のイギリス海軍省傷病委員会は、抗壊血病薬として麦汁、ポータブルスープ、濃縮オレンジジュースなどをクック船長に支給していました。しかし、これらは加熱によってビタミンCが失われているため、今日ではまったく効果がないことが明らかになっています。そして主にザワークラウトのおかげだったことが当時は分かっておらず、さらにクック船長は帰還後に麦汁を推薦したため、長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進みませんでした。ビタミンCと壊血病の関係が明らかになったのは、1932年のことでした。
・1ポンドのチーズが支給されました。 (単位:1ポンド=16オンス=453グラム 1ガロン=4クオート=16パイント=4545cc) 南方航路では、ビールの代わりに、保存が利くワインかブランデー、またはラム酒が積み込まれました。オートミールやバターの代用として、米やオリーブ・オイルの時もありました。入港中は生肉が支給されるも、新鮮な野菜が支給されるようになったのは、18世紀も終わりになってからでした。また、量としてはほぼ十分なものでした。ただし質の面では、防腐剤は塩に限られていたため、腐敗を止めるのには限度がありました。現代の感覚からすれば、食欲が起こらないような薄い粥やシチュー、オートミールまたは豆のスープなどで、砂糖や酢で味付けされたものもありました。その上に、食事の質の悪さもさることながら、食料補給に関する不正もありました。第2次英蘭戦争(1665-67)で、兵士は支給証明書の片券を、毎週、または5日ごとに食料供給業者の元に持って行って、手に入るものを食べているも、実は、検査官と業者は、本艦の事務長と示し合わせて、支給分をごまかしていました。また食事そのものが、発育不良の小麦の黒パンと、水のようなビールを少しという有様で、余りのひどさに、乗員の間では不満がつのっていました。 ・18世紀の事情 18世紀半ば以降、食事や衛生に関しては、様々な改革が行われるようになりました。船医の提案で、特に病人用に新しい味覚が追加されました。砂糖、干しブドウ、ニンニク、その他スパイス、そして、ランの球根で作ったサロップがありました。これは、壊血病に効き目があると言われていました。壊血病の治療には、ライムのジュースも用いられ、そのためイギリス海軍の乗員はライミーズというあだ名をつけられました。ジョージ3世やリンド博士が推薦した塩漬けや酢漬けキャベツも、新鮮な野菜の役目を果たしました。クック船長もこの塩漬けキャベツを航海に持ち込んでいました。また、肉や野菜の缶詰の出現は画期的でした。缶詰は1815年の海峡艦隊において初めて採用されました。その後、軍艦には酒保が設けられるようになり、バター、ジャム、ケーキなどの嗜好品が扱われました。 それまで確保が難しかった真水に関しても、19世紀になって、タンクに雨水を貯え、過マンガン酸カルシウム(カルキ)を入れて持ちを良くしました。また、ブリストルの水は、生石灰が少量含まれていたため長持ちした上に、船員は便秘にならず、赤痢も防げて一石三鳥でした。18世紀以後の食料表を比較すると、時代が下るごとに、野菜や嗜好品が増えているのが分かります。 1729年の軍艦の食料表 ・パン 1日当たり1ポンド ・ビール 1日当たり1ガロン ・牛肉 火・土曜日に2ポンドずつ ・豚肉 日・木曜日に1ポンドずつ ・えんどう豆 日・水・木・金曜日に1/2パイントずつ ・オートミール 月・水・金曜日に1パイントずつ ・バター 日・水・土曜日に2オンスずつ ・チーズ 月・水・金曜日に4オンスずつ 1867年の軍艦の食料表 ・1日当たり ・ビスケット 1-1/4ポンドまたは柔らかいパン 1-1/2ポンド ・酒 1/8パイント ・砂糖 2オンス ・チョコレート 1オンス ・紅茶 1/4オンス ・1週当たリ ・オートミール 3オンス ・からし 1/2オンス ・こしェう 1/4オンス ・酢 1/4パイント ・1日当たり(それが入手出来るかぎり) ・生肉 1ポンド ・野菜 1/2ポンド 1907年の軍艦の食料表 1日当たり ・ビスケットまたは柔らかいパン1-1/4ポンド ・ジャム 2オンス ・酒 1/8パイント ・コーヒー 1/2オンス ・砂糖 3オンス ・コーンビーフ 4オンス ・普通のチョコレート 3/8オンス、そのうち溶解チョコレート 3/4オンス ・濃縮ミルク 3/4オンス ・紅茶 3/8オンス ・塩 1/4オンス ・1週当たり ・からし 1/2オンス ・こしょう 1/4オンス ・酢 1/4オンス ・生肉 3/4ポンド ・野菜 1ポンド
・酒類の支給 イギリス海軍の軍艦では驚くべきことに、早朝、昼食、午後、そして夕食時に、ビールが1クオート(1.136リットル)ずつ供給されていました。当時は飲酒が広く蔓延しており、要員確保のために、酒類の支給はやむを得ないことでした。また、強制徴募で得た乗員が逃げないように、上陸許可を与えないことが多かったため、憂さ晴らしには酒しかありませんでした。その結果、乗員はしばしば泥酔し、鞭打ちの刑を受ける羽目になりました。イギリスでは、18世紀には、ビールよりも安い
・イギリスの地図 ・ゴスポートの場所地図(Google Map, 日本語) ・ロワールの場所地図(フランスの地図) ・ケアラケクア湾の場所地図(ハワイ島、Google Map, 日本語) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2015/3/15 |