★イギリス
シドニー・パーキンソン
1770
ボタニー湾に上陸

大航海物語★
AUSTRALIA
シドニー・パーキンソン(植物画家)

New Holland・Cook's Voyage

オーストラリア200年記念
オーストラリア 1986/3/12 発行

AUSTRALIA
バイビスカス

オーストラリア 1986/3/12 発行
NEW ZEALAND
クック船長の第1回探検
エンデバー号に乗船 1768-1771


HMBark Endeavour
ニュージランド 1995/2/9 発行

イギリスのエジンバラ生まれのパーキンソンは酒造家の家に生まれましたが、幼くして服地屋へ年季奉公に出され、植物の絵を描くことの好きな少年は、やがて成人するとロンドンに出て、博物学者バンクス男爵の所へ行き雇われました。その直後に男爵がクック船長のエンデヴァー号での太平洋探検に参加することになり、同行しました。エンデヴァー号がバタヴィアで修理中に伝染病に感染し、バタヴィア出帆間もない帰路の船上にて、26才の若さで亡くなりました。彼の残した探検中に描いた1300以上の植物スケッチや原住民の絵が植物学や民俗学の図書に掲載され、西欧社会に珍しい風物を紹介し、その業績は高く評価されました。
シドニー・パーキンソン (1745〜1771/1/26)
 Sydney Parkinson

パーキンソンは酒造家(brewer)でクェーカー教徒(Quaker)の父ジョエル・パーキンソン(Joel Parkinson)の次男として、エジンバラ(Edinburgh)で生れました。ウール服地屋(wool draper)に年季奉公に出されましたが、彼の興味は植物の絵(botanical drawing)を描くことで、その才能を発揮しました。1767年頃にロンドンに出て、バンクス男爵に雇われました。1768年にバンクス男爵がエンデバー号による南太平洋探検航海に参加することになり、パーキンソンも植物画家(botanical draughtsman)として随行することになりしました。

クック船長の第一回航海(1768〜1771)にバンクス男爵と共に同行し、エンデバー号にはジョン・レイノルズ(John Reynolds)とアレクサンダー・ブッチャン(Alexander Buchan)の2人の画家が乗船していました。バンクス男爵が南太平洋地域に関する多くの博物学的知見を西欧に紹介することになり、パーキンソンは航海で収集され た膨大な新種の絵を描きました。

1769/4/17に画家(地形学製図者 topographical draughtsman)ブッチャンがタヒチ島で亡くなると、余分の仕事の重荷がのしかかりましたが、パーキンソンはそれを立派に成し遂げました。航海中に1300枚以上の絵(drawings)やスケッチ (sketches)を描き上げました。そしてタヒチ原住民(ポリネシアン)とニュージランド原住民(マオリ)とニューホランド原住民(アボリジニ)の違いを正確に表現しました。

▼画家パーキンソンのエンデヴァー号大航海
1768年:〜:
08/26、イギリスのプリマスをエンデバー号で出帆、ホーン岬から太平洋へ航海
09/14、マデイラ諸島フンシャルに到着
12/25、ホーン岬(Cape Horn)を回航、ドレーク海峡を西へ航海して
     太平洋を西へ横断航海
▼1769年:〜:
04/09、ポリネシアのトゥアモツ諸島に到達
04/13、タヒチ島到着、エンデバー号はマタヴァイ湾(Matavai Bay)に投錨
04/17、画家ブッチャンが亡くなる
06/03、金星の太陽面通過(Transit of Venus)を観測
06/05、国王誕生日(6/4)を祝って現地の王を招いて祝賀会が開催される
07/13、タヒチのマタヴァイ湾を出帆、ソシエテ諸島の海図を作製の探検航海のため、
     フランス領ポリネシアのソシエテ諸島へ向かう
08/10、ソシエテ諸島を出帆、
     「未知の南方大陸」を求めて南方へと航海
10/06、マスト先西北の夕陽のかなたに島影(ニュージーランド北島)を発見、
10/08、陸地(ニュージーランド北島)に接近、断崖絶壁と緑におおわれた山を見る
10/09、小さい川の川口の穏やかな湾に投錨、
     ニュージーランド北島の東岸ポヴァティー湾(Poverty Bay)に到着
10/11、多くのカヌーが近寄ってくる、ポヴァティー湾を出帆
10/14、大きな湾でトウパイアの従者ティアタ(Tiata)をカヌーが連れ去るも取戻し、
     そこをキッズナッパー岬(子さらい岬:Cape Kidnapper)と命名、そしてホーク卿
     (Sir Edward Hawkes)に因んでホーク湾(Hawkes Bay)と命名、3日間を過ごす
10/17、ターナゲイン岬(Cape Turnagain)を命名、
     北へ転舵して戻る
10/20、岬を回った湾に停泊、カヌーが来て本船に上がってきた者に甘くて美味しい
     イギリスのトライフル(Trifles)ケーキをやって追い返す
10/31、北島の最東端をイースト岬(East Cape)と命名、ランナウェイ岬(Cape Runaway)と
     呼んだ所を回りこんだ湾をヒックス(Lieutenant Hicks)が最初に見つけたので
     ヒックス湾(Hicks's bay)と命名
▼1770年:〜:
02/13、ニュージーランドを探検航海中に南島の西南に有る湾(入江)への開口部を
     調査し、ダスキー湾(Dusky Bay)と命名
04/01、南島の北西端を航行して、ニュージーランド最後の岬をフェアウェル岬(Cape
     Farewell、お別れ岬)と命名、オーストラリア(New Holland)へと、西方へ航行
04/18、今朝もピンタード鳥(Pintado bird)やアホウドリ(Albetrosses)などを見かける
     これは陸地が近い証拠で、タスマンの地図に有るファン・ディーメンス・ランド
     (Van Diemen's Land、タスマニア)の東岸が西方にあることを天体観測からも確信
04/19、オーストラリア東岸の陸地を望見、ヨーロッパ人で最初の発見者となる
     最初に見つけたのがヒックスだったのでポイント・ヒックス(Point Hicks)と命名
04/20、ニューサウスウェールス州とヴィクトリア州の境にあるオーストラリア最南東端の
     ハウ岬(Cape Howe)を回航してリチャード・ハウ提督(Richard Howe、1726-1799)
     にちなんで「ハウ岬」と命名
04/26、現在のジャーヴィス湾(Jervis Bay)沖を航行
04/27、海岸に現地人とカヌーを見つけてボートで接近するも、接触せずに戻る
     カプリコーン岬(Cape Capricorn)、
     ケッペル湾(Keppel Bay)を命名、投錨
     日中は海岸や島に煙を、夜間には火を見て、飲料水汲みをせず
     マニフォールド岬(Cape Manifold)命名
04/28、タウンズヘッド岬(Cape Townshend)を回って風除けに都合のよい湾を見つける
04/29、ボタニー湾に上陸
ボタニ−湾カーネル半島クロヌラ砂丘(Cronulla sand dunes, Kurnell Peninsula)の現:シドニー付近(シドニー・コーヴ、Sydney Cove)で上陸して「ニュー・サウス・ウェールズ」(New South Wales)と名付け、イギリスの領有を宣言しました。アカエイが捕れたので”スティングレイ・ベイ”(Stingray Bay)と呼びました。ジョセフ・バンクス男爵ダニエル・ソランダー博士ヘルマン・スペーリング氏らは大量の植物標本の収集を行ない、この湾は植物が豊かな土地であることが発見され、バンクス男爵らが採集したこれら
バンクシア
珍しい植物標本の採集を記念して、ボタニー湾(Botany Bay、植物学の湾)と命名されました。
05/06、ボタニー湾を出帆、北方へ3リーグ(leagues=3miles=約4.83km、14.25km)航行し
     安全な投錨場所を発見、停泊してポート・ジャックソン(Port Jackson)と命名
05/07、北方へ航海、ブロークン湾(Broken bay)を発見・命名
05/15、現在のソリタリー諸島(Solitary Islands)沖で島々を発見
     南緯28°37′の所の岬をバイロン艦長に因んでバイロン岬(Cape Byron)と命名
05/25、南回帰線(Tropic of Capricorn)を越える、カプリコーン岬(Cape Capricorn)と命名
05/28、タウンシェンド岬(Cape Townshend)命名
06/08、ポイント・ハイロック(Point Hillock)、ハリファックス湾(Hallifax bay)、命名
06/09、グラフトン岬(Cape Grafton)命名
06/10、トリニティ湾(Trinity Bay)、トリビュレーション岬(Cape Tribulation)命名

06/11、オーストラリア東岸のグレート・バリア・リーフ(Great Barrier Reef)を北上しながら探検航海している時に、現在のピッカースギル珊瑚礁(Pickersgill Reef)で珊瑚礁(Coral Reef)の浅瀬(Coral Rocks)に乗り上げて座礁して動けなくなりました。船底を大破して進水してきたので、
全ての帆を降ろし、船を軽くするために、目印の浮標を付けた大砲、鉄や石のバラスト用の重り(Ballast)、樽(Casks)の飲料水も汲みだし、樽も捨て、桶用の金輪(Hoop Staves)、オイル用壺(Oil Jarrs)その他傷んだ船舶用貯蔵品(decay'd Stores)などなどの重量物を全て放棄、海上へ投棄しました。そこをエンデバーリーフ(Endeavour Reef)と名付けて、後で回収できるようにしておきましたが大砲は回収できませんでした。翌日の満潮時に船体が浮いたので、合計5つの錨に船をボートに繋いで引いて珊瑚礁から離脱しょうと何度か試みて エンデヴァー号が珊瑚礁で座礁

トーゴ 1979/2/12 発行
夕刻にやっと砂浜まで引き出して修理にとりかかりました。修理が行われている間は、エンデバー号乗り組みの者達は上陸しました。そこはクイーンズランドのエンデバー川(Endeavour Rivwe)と名付けた川の河口で、現在のクックタウン(Cooktown)の船着き場の近くでした。修理は約7週間(6/12〜8/4)行われましたので、バンクス卿、ソランダー博士、スペーリング氏らは植物標本の収集を行ない、画家パキンソンは植物のスケッチに専念ました。オーストラリア東岸の探検航海は通算して4ヵ月(4/19〜8/20)に達しました。(注):〜青色の地名は現在も使用されていることが確認できる所。

08/05、エンデヴァー川から、タートル・リーフ(Turtle Reef)に移動、投錨、停泊に成功
08/06、エンデバー号が修理完了し、ピンネス船で探りながら離礁に成功、
     出帆して季節風(6-10月)の順風に乗って北上を開始、
     「北東々(North-East by East)に進路を取れ!」
08/10、フラッタリー岬(Cape Flattery)に投錨
08/20、ヨーク岬半島(Cape York Peninsula)北端に到着
     ヨーク半島の間のエンデヴァー海峡からトレス海峡へ
08/22、トレス諸島南端のエンデヴァー海峡の
     ポゼッション島(Possession Island)に上陸
08/23、ブービー島(Booby Island, Queensland)に上陸
08/24、ブービー島出帆、トレス海峡を通過
08/28、ニューギニア南岸を望見
08/29、サブ島(Savu or Sawu)を望見
その後、西方へ航海後、
北上してトレス海峡を通過して、ニューギニア南岸方面を探検航海。
▼1770年:〜:
08/31、ニューギニア南岸ワルシェ岬(Cape Walsche, New Guinea)を西へ航海
     ニューギニア付近の海図を作成しながら航海
09/07、ウェセルス島(Wessels Isle)を望見
09/10、チモール島(Timor)を望見
09/16、ダンピールがアナボア島と呼んだチモール南端のセマン島(Seman)に達し望見
09/17、その西のサウ島(Savu、Sawu)に投錨
     牛、豚、羊(Buffaloes, Hogs, Sheep)などの食料を購入調達
09/19、オランダ総督とサルタンとで船上会食
09/20、サルタンの王宮を訪問
09/21、サウ島を出帆、西方へ航海
10/01、スンダ海峡(Sunda Strait)に南から進入
10/10、ジャワ島のオランダ東インドの首都バタビア(現:ジャカルタ)に入港して、
     クリスマス迄滞在し、傷んだ船体を修理、海図を作成

1770/10/10にエンデバー号が修理のためにバタヴィア(Batavia)に入港すると、多くの乗組員が同地で流行していた赤痢(dysentery)とマラリアにに感染しました。パーキンソンもその例外ではありませんでした。

12/18、画家レイノルズが亡くなる
12/26、バタビアを出帆、
     「北西(North by West)へ進路を取れ!」
12/31、バンタン(Bantam Point)沖を航海
▼1771年:〜:
01/01、スンダ海峡の向うにスマトラ島を望見
01/02、スンダ海峡のクラカタオ島(Cracatoa)とジャワ島の間を南へ航海
01/06、プリンセス島(Princes Island, Sunda Strait)に投錨、飲料水を補給後に出帆
01/23、スンダ海峡を抜ける
01/24、植物学のスペーリングが亡くなる
01/26、画家パーキンソンが赤痢で亡くなる
01/29、天文学のグリーンが亡くなる

その後のエンデヴァー号は
07/12、イギリス海峡からビーティ・ヘッド(Beachy Head)通過
     サセックス州のダウンズ(Downs、Sussex)に到着、
07/15、エンデヴァー号はマラリアと赤痢で23人の犠牲者を出す苦しい航海の後に
     英仏海峡ドーバー港(Dover、Kent)に入港、イギリスに帰国しました。

1771年にパーキンソンは赤痢で26才の若さにてエンデバー号船上で亡くなりました。エンデバー号がイギリス帰国後にパーキンソンの兄とバンクス男爵との間で紛争が起り、バンクス男爵は慰労弔慰金と絵の代価として£500ポンドを支払いました。バンクス男爵は植物標本を整理し、バンクス植物図譜を製作して、その挿絵としてパーキンソンの労作を掲載し発表しました。

参考:〜
パーキンソン・ペトレル
  Parkinson's Petrel

パーキンソンの名は、ニュージランド北島のグレートバリア島(Great Barrier Island)とリトルバリア島(Little Barrier Island)だけに生息する「黒い水鳥」のパーキンソン・ペトレル(Parkinson's Petrel)にその名を残しています。
ペトレルは水薙鳥でミズナギドリ目ミズナギドリ科(Procellaridae)の海鳥の総称。またウミツバメ科(Hydrobatidae)、モグリウミツバメ科(Pelecanoididae)の海鳥で、尾の長い小型の海鳥類の総称。

ハイビスカス
  Hibiscus

ハイビスカスはアオイ目アオイ科の下位分類のフヨウ属に含まれる植物の総称。日本で普通「ハイビスカス」といわれるのは、フヨウ属のなかでも、熱帯〜亜熱帯性の種に限られ、その代表的なものはブッソウゲ(Hibiscus rosa-sinensis)となっています。名前の由来はエジプトの美を司る“ヒビス”の名前にちなんで付けられています。「ヒビスのように美しい花」という意味で、エキスを抽出して作られたハイビスカスティーは、かの有名なクレオパトラも好んで飲んでいたといわれています。
バイビスカス
オーストラリアのハイビスカスはバンクス男爵が、初めてヨーロッパに紹介したとされています。

参考HP:〜
 ・エジンバラの場所地図
 ・グレートバリア島の場所地図
 ・ニュージランド北島の地図
 ・グレートバリア島とリトルバリア島の地図
 ・ニュージランドのマオリ族のスケッチ

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    10/7/27
スタンプ・メイツ
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