★フランス |
テオドール・ジェリコー 1819 ”メドーサ号の筏”を発表 |
大航海物語★ |
ジェリコーは19世紀初期にフランスで活動した画家で、1816/7/2にアフリカ西海岸モーリタニア沖で座礁したフランスのフリゲート艦メドーサ号から脱出した筏の様子を描きました。その作品”メドーサ号の筏”は生と死を余りにも生々しく描き切っていたので、賛否の意見が姦しく物議をかもし、パリのルーブル美術館に秘蔵されてしまったのを取戻したジェリコーが、ロンドンでも発表して好評を得たという曰くつきの作品となり、現在はルーブル美術館に所蔵されています。 画家ウジェーヌ・ドラクロワがその作品のモデルになっており、ジェリコーはロマン派絵画の先駆者と見なされていますが、32才の若さで亡くなりました。 |
テオドール・ジェリコー (1791/9/26〜1824/1/26) Theodore Gericault フランス・ロマン主義派の画家・版画家 ルーアン生、パリ:32才没 ジェリコーは北仏ルーアン(Rouen Normandy)の資産家で弁護士だった父親の裕福な家庭に生まれ、1796年頃に家族とともにパリに移住しました。父親は息子が画家以外の安定した仕事に就くことを望みましたが、絵画への情熱をあきらめず、1808年(17才)に画家カルル・ヴェルネ(Carle Vernet 1758-1835)のもとに弟子入りしました。ジェリコーは古代の神話や聖書の物語よりも身の回りの現実を描くことに関心を示し、特に馬に対する関心は並々ならぬものがあり、生涯にわたって馬を題材にした作品を多く残していて、現存している素描やスケッチから、馬が走るときの脚の動きを正確に知っていたことが伺えるといわれています。画家ヴェルネは馬や騎馬人物像の画家として当時の第一人者と言われた人物でしたが、ジェリコーは師の描く馬にあきたらなくなって、1810年(19才)に画家ピエール・ゲラン(Pierre-Narcisse Guerin 1774-1833)のもとに師事しました。ゲランはナポレオンの肖像画で有名な新古典主義の巨匠ダヴィッドの流れを汲む大家でしたが、ジェリコーはこの師にも満足せず、1811年(21才)からルーヴル
フランスへ帰国して、1818年にフランス政府当局がひた隠しにしていたにもかかわらず評判になっていた、「メドーサ号の遭難」の悲惨な話を聞いて創作意欲を描きたてられ、筏で漂流した生存者に会って詳しい話を聞いたと伝えられています。そして病院へ行って瀕死の病人の肌をスケッチしたり、刑場で処刑された犯罪者の首をスケッチするなどして、作品を完成させました。1819年のサロン・ド・パリに、その代表作「メドーサ号の筏」を出品すると賛否両論が巻き起こりました。ルーヴル美術館がこの作品を買い取りましたが、実際には作品の封印を意図したもので、購入後にジェリコーに買取代金を支払わず、作品も展示することなく倉庫の隠しました。ジェリコーは翌1820年に作品をルーヴル美術館から取り返して、同年イギリスに渡って展示を行いました。メドーサ号の事件と政治的かかわりのないイギリスでは、おおむね好評をもって迎えられたといわれています。1821年には1つ「エプソムの競馬」(The Derby of Epsom)を描き、1822年迄イギリスに滞在。フランスへ帰国後、1822〜1823年に精神障害者をモデルとした人物画連作を描きました。1823年には落馬や馬車の事故などがもとで持病の脊椎結核が悪化し、32才で亡くなりました。最後の言葉は「まだ、何もしていない」だったと伝えられています。 ・「メドーサ号の筏」 The Raft of the Medusa、 仏:Le Radeau de la Meduse 1818-1819 ジェリコーの代表作(Theodore Gericault) 油彩画の大きさは:491cm×716cmの大作で、製作は1818〜1819年の間。その絵は1816/7/2にモーリタニア沖アルギン湾で座礁・沈没したフリゲート艦メドーサ号から脱出した「筏」(Raft)が漂流している様子を25才の画家ジェリコーが描いたものです。 1816年にフランスの新植民地となったアフリカ西海岸のセネガルに向って航行していたフリゲート艦メドーサ号がモーリタニア沖で座礁するという事件が起こりました。離礁することが出来なかったため、乗客は備え付けの救命ボートで避難しようとしましたが、乗れる人数が限られており、乗客全員を乗せることは不可能でしたので、破損したメドーサ号の廃材をロープでつなぎ合わせて臨時の筏を造り、ボートに乗りきれなかった149人が乗り移りました。
後輩の画家で、1830年に起きたフランス7月革命を主題とする「民衆を導く自由の女神」を描いたドラクロワは、この作品で漂流者の1人の「筏の帆の真下でうつぶせになっている男」のモデルを務めており、ドラクロワ自身によるこの部分の模写が残されています。ジェリコーが若くして亡くなると嘆き悲しみましたが、この絵画作品に込められたジェリコーの創作意欲に感銘して、代表作の一つである「キオス島の虐殺」を完成させたといわれています。この油彩画の作品「メドーサ号の筏」(仏:Le Radeau de la Meduse 1818-1819)は、サロンに発表するわずか3年前に実際に起きた事件を題材にしたもので、依頼で描いたものではなくジェリコー自身が創作意欲を描きたてられて描いた作品でルーヴル美術館に所蔵されています。後の画家に少なからぬ影響を与えた作品とも言われています。
09/02、スラバヤ(Surabaya)着、 イギリス艦バスファルアス号(32-gun frigate HMS Bucephalus)に追尾される 09/04、バスファルアス号ともう1隻のイギリス艦と遭遇 09/08、見失う 09/12、メドーサ号とニンフ号がバスファルアス号を追跡 09/13、バスファルアス号が追跡を振り切って逃げ去る 12/22、ブレスト軍港(Brest)に帰港 1814年、グアドループ(Guadeloupe)の奪還戦に従軍 ブルボン王政復古(1814-1815)後の1816年に大砲40門の武装輸送船に改修されたメドーサ号が、植民地の返還を受けにセネガルのサンルイに赴くセネガル総督(Colonel Julien-Desire Schmaltz 1771-1826)夫妻やフランス官僚を輸送することになり、政治的理由でフランス国王ルイ18世に任命された亡命貴族シャウマレイス子爵(Viscount Hugues Duroy de Chaumereys)がメドーサ号艦長に就任しました。この子爵は艦長として不適任(英の例)で、メドーサ号の指揮を誤ってアルギン湾の海岸から50km沖の暗礁に乗り上げ座礁、離礁できずに動けなくなり、やがて沈没しました。艦長の子爵は3屯もある大砲40門の海中投棄を拒否したと伝えられています。難破の後、乗員乗客400人は6隻の救命ボートには乗り切れず、急造の筏に149人が乗り移りました。間もなく嵐でボートが牽引ロープを切ったため、筏は漂流することとなりました。食料も飲料水も無く漂流すること13日後に生存者15人が救助されました。 1816/6/17、セネガルのサンルイ港(Saint-Louis)へとロシュフォール港(Rochefort)を 補給船ロワール号(storeship Loire)、ブリッグ艦アルギュス号(brig Argus)、 コルヴェット艦エコー号(corvette Echo)が随伴して4隻の艦隊に セネガル総督シュマルツ大佐夫妻他の乗客240人が乗船して出帆 06/27、マデイラ島着 07/02、ブランコ岬を回航してアルギン湾に進入 船は暗礁に乗り上げ座礁、動けなくなり沈没 全ての乗員(400人)が救命ボートに乗れないので、 船の廃材で筏(Raft)の製作を始める 07/05、士官と乗客が争い、乗組員と兵士も争いとなる、17人が難破船に残り、 救命ボート6隻に250人、乗れなかった男女147人が筏に乗ってボートで曳航 嵐でロープを切って曳航を中止、筏は食料も飲料水も無く漂流を始める 07/05夜、自殺や殺害で犠牲者が20人(最初の夜)となる 07/09、生存者67人(4日後)となり、食人で犠牲者が出る 07/13、適者生存で負傷者や弱っている人を海中へ捨てる 07/17、アルギュス号に生存者15人が救助される ・メドーサ号の装備:〜 French Frigate Meduse、1816
なお、メドーサ(Medousa)はギリシャ神話に登場するゴーゴン(Gorgon)の3姉妹の一人で、髪の毛が毒蛇の怪物女王で「見たものを石に変える能力を持つ魔物」として、また海神ポセイドン(Poseidn)の愛人で、英雄ペルセウス(Perseus)が首を切り落として退治した時に、身ごもっていたメドーサの「首の切り口」から、天馬ペガサス(Pegasus)と息子クリュサオール(Chrysaor)が生れたとされています。 ・難破船(1):〜 ノーフォーク島で、1835/5/17に難破した イギリスのフレンドシップ号(HMS Friendship) ・難破船(2):〜 サピエールミケロン島で、1908年に難破した フランスのル・マリー・テレーズ号(Le Marie Therese) 参考HP:〜 ・ノルマンディの地図(ルーアンがセーヌ川(Seine 780km)沿いに有) ・フランスの地図(日本語、ルーアンの場所地図) ・フランスの地図(ロシュフォールの場所はシャラント・マリティーム県で"La Rochelle"の所) ・セネガルの地図(サンルイの場所地図) ・アルギン湾の地図 ・モーリタニアの地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/5/11 |