★スウェーデン | 博物学探検(Natural history Expedition) カール・フォン・ツンベルグ博士 1775 長崎の出島オランダ商館に着任 |
大航海物語★ |
SVERIGE カール・ツンベルグ博士 スウェーデン 1973/9/22 発行 |
日本郵便 NIPPON | SUID AFRIKA SOUTH AFRICA 南アの地図 中国 1939/7/4 発行 |
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オランダ船→ |
長崎の出島 日本 2000/4/19 発行 |
←オランダ商館員 ←日本人の従者 |
SVERIGE ツンベルグ博士の調査旅行先の地図、黒い所がスウェーデン ↓ |
←日本 ←セイロン島 ←南アフリカ ←Thunberg |
切手帳カバーの図 スウェーデン 1973/9/22 発行 |
スウェーデンの場所地図 ベーリング↓海峡 スウェーデン↑(黒い所) スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより |
スカンジナビア半島の古地図、1662 スウェーデン 1991/1/30 発行 |
スウェーデン生まれのツンベルク博士はウプサラ大学でリンネ博士に師事して植物学、医学を修めました。1771年にオランダ東インド会社の船に船医で乗船してオランダを出帆。ケープタウンからジャワ島バタビアを経て、1775年に長崎の出島に到着しました。日本には1年間滞在し、江戸城で徳川将軍に謁見し、出島の三学者の1人に数えられ、日本植物学の基礎を創りました。 |
カール・ペ−ター・フォン・ツンベルグ博士 (1743/11/11〜1828/8/8) Dr. Karl Peter von Thunberg 別名:日本のリンネ(Japanese Linnaeus) スウェーデンの博物学者(Swedish Naturalist)、植物学者(Botanist)、医師(Surgeon) リンネ博士の高弟(Apostle of Linnaeus)、リンネ使徒 南アフリカ植物学の父(Father of South African botany) 生地:スウェーデン南部イェータランド地域スモーランド地方ヨンショーピング生 没地:スウェーデン中部スヴェアランド地域ウップランド地方ウプサラ近郷、84才没 カール・ツンベルク博士は、スウェーデンの博物学者・植物学者・動物学者・外科医(Surgeon)で、1743年にスウェーデン南部イェータランドのスモーランド地方ヨンショーピング県ヨンショーピング(Jonkoping, Jonkoping Municipality, Jonkoping County, Smaland Province, Gotaland, Sweden)で生まれ、スウェーデン中部ウプサラ大学(Uppsala University,Uppsala city, Uppsala municipality,Uppsala county, Uppland province,Svealand, Sweden)のカール・フォン・リンネ博士のもとで植物学、医学を修め、1767年に卒業しました。1770年にフランスのパリに留学して、さらに医学と博物学を修めました。 ツンベルク博士の調査大航海旅行:〜 ・1772、南アフリカ探検(ケープ植民地) ・1775、ジャワ島バタビア寄港(滞在) ・1775、日本探検(出島〜江戸) ・1777、セイロン島探検(コロンボ〜ゴール) ・1778、ロンドン訪問
・大航海へ出帆 1771/12月にライデン大学植物園やアムステルダム植物園などのオランダ植物園(Dutch botanical gardens)への植物標本を採取のため、VOCの船に船医で乗船してオランダを出帆しました。翌年に、1652年にヤン・ファン・リーベック(Jan van Riebeeck 1619-1677)が建設したオランダのケープ植民地(Dutch Cape Colony)のケープタウンに到着すると、3年間滞在しました。1772/9月にはケープタウンの北西方約105kmにあるサルダンハ湾(Saldanha Bay)の植物調査に出かけ、ガムトッス川(Gamtoos River, 645km)から160kmも遥か遠くに続くラングルーフ渓谷(Langkloof)を経て、ブリード渓谷(Breede Valley)を回って、南アフリカ共和国の南部からナミビアに広がる半砂漠気候の土地カルー盆地(Karoo)のリトル・カルー(Little Karoo)へと戻り、多くの植物標本を採集しました。1775/3月にジャワ(インドネシア)へとケープタウンを出帆。ジャワ島バタビア(Batavia)に着くと、2ヵ月滞在しました。
1776年に年番通詞としてオランダ商館長の江戸参府に随行した53才の吉雄耕牛(25才でオランダ語の大通詞となる)に出会い、オランダ語訳の外科書から外科医術を教え、当時日本で流行していた梅毒の治療法として水銀水療法を伝授したとも伝えられています。 また、江戸番通詞として江戸城に随行した25才の桂川甫周(21才でオランダ語の解体新書(ターヘル・アナトミア:Anatomische Tabellen)の翻訳に杉田玄白(享保18(1733-1817)文化14)らと共に参加)に外科術を教えました。 そして江戸の逗留先だった長崎屋をたびたび訪問した37才の中川淳庵(解体新書の翻訳に参加)とは親しく会話して、外科術の他に植物標本作成法を教えたと伝えられています。帰国後に出版した「ツンベルクの日本紀行」に吉雄耕牛と中川淳庵の名が記されて、この2人の名が海外にも知られることとなりました。
ケープタウンで2週間滞在した後、1778/10月にアムステルダムに帰港しました。その後、イギリスに渡ってロンドンを訪問し、男爵ジョセフ・バンクス卿(Sir Joseph Banks)と知り合いました。そして彼の所でツンベルグの長崎出島の先輩(出島在勤:1690-1692)でもある、ドイツの医師・博物学者エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651-1716)の日本収集品(Japanese collection)を見せてもらいました。また、クック船長の第2回太平洋探検航海に息子のゲオルク・フォルスター(Johann Georg Adam Forster 1754-794、英名:ジョージ・フォスター)と参加したドイツの博物学者ヨハン・ラインホルト・フォルスター(Johann Reinhold Forster、1729-1798、英名:ジョン・フォスター)にも出会い、クック船長太平洋探検での収集品を見せてもらいました。
1784年に日本植物誌(Flora japonica 1784)を出版した他、多くの著作を残しました。 ・ツンベルクの日本紀行(1778):山田珠樹訳註、雄松堂書店(異國叢書)改訂復刻版、1966年 ・日本植物誌(Flora japonica 1784) ・ヨーロッパ、アフリカ、アジア紀行 ・ツュンベリー江戸参府随行記、高橋文訳、平凡社東洋文庫、1994年、原典訳本 ・喜望峰植物誌 ・Prodromus plantarum 1800 ・Icones plantarum japonicarum 1805 ・Flora capensis 1813
(2)カール・ツンベルク、上記の通り ツンベルクは、スウェーデン人医師・植物学者。リンネの弟子。安永4年(1775)から安永5年(1776)まで出島に滞在。長崎商館医を務めました。多数の植物標本を持ち帰り学名を付けました。日本の通詞や蘭学者に医学・薬学・植物学を教えました。著書「日本紀行」など。 (3)エンゲルベルト・ケンペル Engelbert Kaempfer, 1651-1716 ケンペルは、ドイツ人医師・博物学者。元禄3年(1690)から元禄5年(1692)まで出島に滞在。長崎商館医を務めました。植物学を中心に博物学研究を行い、出島に薬草園を作りました。著書「日本誌」は、彼の没後英訳版で発行されました。 これら出島の三学者の著書はマシュー・ペリー提督の日本来航にも影響を与えました。 こちらで、 ・リンネ博士 ・リンネ使徒 ・カーム博士(リンネ使徒) ・フォルスカル博士(リンネ使徒) をお楽しみください。 参考HP:〜 ・南ア・カルーの植物分布地図(Map of Karoo, South Africa) ・ツンベルグの日本植物誌の表紙写真(Flora japonica 1784) ・ケンペルの日本語アルファベット図 ・スウェーデンの地図(Uppsala、Umea, Lulea有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 14/1/16、2017/2/24 |