★オランダ |
ドイツ人医師シーボルト 1828、シーボルト事件 長崎出島オランダ商館の医師 |
大航海物語★ |
シーボルト |
←ナツヅタ |
シーボルト生誕200年記念 日本 1996/2/16 発行 |
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日本郵便 NIPPON | ||
オランダ船→ |
長崎の出島 日本・オランダ交流400年記念 日本 2000/4/19 発行 |
←オランダ人 ←日本人の従者 |
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オランダ国旗→ |
JUGOSLAVIA ダッチガレオン船・19世紀の戦列艦 ハウトマン号(?) ユーゴスラヴィア 1969/7/10 発行 |
FIJI 太平洋と世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
シーボルトはドイツの医師・博物学者で、長崎の出島のオランダ商館付医師として1823年に来日しました。帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、高橋は獄死しました。これが「1828(文政11)年のシーボルト事件」で、翌年に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。 |
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト (1796/2/17〜1866/10/18) Philipp Franz Balthasar von Siebold, シーボルトは神聖ローマ帝国時代のドイツ司教領(ドイツ・バイエルン州北部の都市)ヴュルツブルクでドイツ医学界の名門だったシーボルト家に次男として生まれ、1才1ヵ月の時にヴュルツブルグ大学の内科学、生理学教授だった31才の父親が亡くなり、母方の叔父に育てられました。兄姉は夭逝しました。 シーボルトが9才の時に母とマイン川を半時間ほど遡ったハイディングフェルトに移住し13才まで過ごし、ヴォルツブルクの高校に入学、1815年にはヴュルツブルク大学に入学し、大学在学中は解剖学の教授のデリンガー家に寄寓し、医学をはじめ、動物、植物、地理などを学びました。しかし、大学在学中のシーボルトは鼻持ちならない性格の悪い人物で、自分が名門の出身ということをかさにきて、「尊大で権力好き、そして無遠慮、目的を達成するためには自分や他人に危険を及ぼすようなことがあっても平気な性格である」との酷評をうけています。そして、ことあるごとに当時流行の決闘を申し込み33回の決闘をやって顔に傷を作りました。1820年に卒業、国家試験に合格して、ハイディングスフェルトで開業しましたが、野心家の彼は東洋研究を志し、1822年にオランダのハーグへ行き、国王のヴィレム1世の侍医から斡旋を受けて同年7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐に任官できました。 1822年9月にロッテルダムから出帆、喜望峰から1823/4にジャワ島へ着き、直ぐに日本へと出帆。6月に「長崎の出島」に到着し、オランダ商館駐在の医師となりました。江戸幕府の長崎奉行にはオランダ語に怪しいところがあったのを山地オランダ人だからと偽って鎖国時代の日本へ入国しました。日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もあります。出島内において開業、1824年には鳴滝塾を開設し、医学教育を行いました。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らに西洋医学を講義し、また日本を探索しました。1823年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、商館長の一行に加わり、道中を利用して地理や植生、気候や天文などを調査しましたが、この江戸参府のときに商館長ステューレルが学術調査に非協力的だとの理由で決闘を申し入れています。江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋作左衛門景保らと交友、徳内からは北方の地図を贈られました。高橋にはロシアのクルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられましたが、これこそがスパイ活動の一環であったとする説もあります。その間に楠本滝との間に、娘「楠本イネ」が生まれました。1828年に帰国する際、収集品の中に幕府ご禁制の日本地図(伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図)があったことから問題になり、シーボルト事件で1829(文政12)年に国外追放と再渡航禁止処分になりました。 帰国後はオランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の「日本(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮 琉球諸島 記述記録集)」を随時刊行。日本学の祖として名声が高まり、故国ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してオランダ南西部南ホラント州ライデンに留まりました。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ヴィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリー提督に日本資料を提供しました。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断しました。 1845年にはドイツ貴族のヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚、3男2女が生まれました。1854年に日本は開国し、1858(安政5)年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除され、1859年にシーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日、1861年には対外交渉のための幕府顧問となり、1862(文久2)年に官職を辞してオランダへ帰国し、故郷のヴェルツブルグに戻り日本博物館を開設して日本学の啓発をしました。1866年ドイツ南部の都市でバイエルン州の州都ミュンヘンにて70才で亡くなりました。 なお、シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を日本で収集、オランダへ発送。シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰りました。この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボルトの研究継続を経済的に助けました。こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されています。また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図を多数描かせました。これらは西洋における日本学の発展に大きく貢献しました。
・鳴滝塾〜鳴滝塾(なるたきじゅく)は1824(文政7年)にシーボルトが長崎郊外に設けた私塾で、診療所も兼ねていました。木造二階建、書庫などがあり、庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培されていました。シーボルトは出島から塾まで通い、西洋医学や自然科学など科学の幅広い分野を教授しました。鳴滝塾で学んだのは高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海など50人以上に及びました。私塾の跡地は現在では長崎市鳴滝にあり、国の史跡となっています。 ・シーボルトの名前の付いた動植物(一部):〜: 学名は日本の生物研究に功績を残したシーボルトに対する献名です。 サクラソウ 桜草、学名:Primula sieboldii、サクラソウ科サクラソウ属の多年草 キセルアザミ 煙管薊、学名:Cirsium sieboldii、キク科アザミ属の多年草で、マアザミともいう アコメガイ 学名:Conus sieboldii、イモガイの一種 シーボルトミミズ 学名:Pheretima sieboldi、大型のミミズ オニヤンマ 鬼蜻蛉、学名:Anotogaster sieboldii、トンボ目・オニヤンマ科。日本最大のトンボ アオバト 青鳩 学名:Treron sieboldii ヌマムツ 沼睦 学名:Zacco sieboldii、カワムツに良く似た淡水魚 ・ナツヅタ;〜:ツタ、蔦、学名:Parthenocissus tricuspidata、英 ivy、 ブドウ科ツタ属のつる性の落葉性木本。別名、アマヅラ、ナツヅタ、モミジヅタ。 ・参考HP〜県立長崎シーボルト大学 シーボルト記念館 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/5/5 |