ミクロネシア連邦
Federated States of Micronesia

Federated States of Micronesia
植民地時代のミクロネシアの歴史を描く4枚の切手
スぺイン時代 スぺイン国旗 ドイツ国旗 ドイツ時代
宣教師



学校授業


(店)
日本時代 日本国旗 アメリカ国旗 アメリカ時代
(中央の4枚の国旗は切手では無くラベル)
ミクロネシア連邦政府 1988/7/20 発行
参考HP:〜ヤップ便り

Federated States of Micronesia
クロネシアの主要国土地図

TUVAL
“国旗” と ”地図”




30°0
東経        166°55´
Buada Lagoon
南太平洋14ヵ国フォーラム15周年記念
ツバル 1986/8/4 発行
ヤップ州
State of Yap
トラック(チューク)州
State of Truk
ポンペイ州
State of Pohnpei
1984/7/12 コスラエ州
State of Kosrae

Federated States of Micronesia
自由連合盟約(Compact Of Free Association)結成
マーシャル国旗
スティック・チャート
アメリカ国旗
コンスティチューション号
ミクロネシア国旗
帆走カヌー
Stick Chart Frigate USS Consttitution Canoe
アメリカ合衆国パラオマーシャル諸島・ミクロネシア連邦)
ミクロネシア 1990/9/28 発行

ミクロネシア連邦、Trust Territory of the Pacific Islands (TTPI)
 Federated States of Micronesia (FSM)

面積:702ku、人口:108,155人(2004)、通貨:アメリカ合衆国ドル(USD)、首都:ポンペイ島のパリキール(Palikir)。ミクロネシア連邦は太平洋のミクロネシア南部にあるカロリン諸島(Caroline Islands)のパラオ島以外の諸島で、主な島はヤップ(Yap)、チューク(Chuuk、旧トラック)、ポンペイ(Pohnpei 、旧ポナペ)、コスラエ(Kosrae、旧クサイエ)の各島。フィリピンの東に浮かぶカロリン諸島に属する607の島々からなり、3000kmに渡って広がっているミニ島国々家。

ポンペイ島では12世紀から14世紀頃にかけてシヤーウテール王朝(Saudeleur Dynasty, 1100頃-1628頃)が支配していました。コスラエでは14世紀から19世紀中頃まで王朝がありました。1527年にポルトガルのディオゴ・デ・ロチャ(Diego da Rocha)探検隊がヤップ島本島とユリシー島を発見し、この諸島をセケイラ諸島(Sequeira Islands)と命名するも、初期のスペイン人航海者達はニューフィリピンズ(New Phillippines)と呼びましだ。1528、1529年の2度にわたり、スペインのアルヴァロ・ド・サァヴェドラがフロリダ号を率いて太平洋を横断する時、この海域の北緯6度ないし7度で島を望見し、これがポンペイ島またはその周囲の島に関するヨーロッパ人の最初の記録といわれています。1595年のサン・ヘロニモ号によるスペイン探検隊のペドロ・フェルナンデス・ド・キロスの来訪が確実な記録で、彼は上陸しなかったもののポンペイ島に多数の住民が居住していることや、西隣のヤップ環礁についても記録してカロリン諸島を発見しました。大航海時代にはスペインを中心とした国々の中継点となり、1595年にマリアナ諸島とカロリン諸島をスペインが領土と宣言したものの、キリスト教の布教以外に実際の統治はありませんでした。

1100頃-1628頃、シヤーウテール王朝(ポンペイ島)
1527年、ポルトガルのディオゴ・デ・ロチャ探検隊がヤップ島本島とユリシー島を発見
      この諸島をセケイラ諸島と命名
1528年、スペインのサァヴェドラがポンペイ島またはその周囲の島を望見
1529年、再度、サァヴェドラがポンペイ島またはその周囲の島を望見
1595年、スペインのペドロ・フェルナンデス・ド・キロスがポンペイ島に来訪するも上陸せず
      スペイン領を宣言
1686年、ラジアノ提督(Admiral Francisco Lazeano)がカルロス2世(Charles II)にちなみ、
      カロリン諸島(Caroline Islands)と命名。その後スペイン領
1824年、フランス船がコスラエに入港したのがヨーロッパとの最初の接触
1826年、フランスのデュルヴィル提督が世界1周航海の途上、探検調査
1828年、ロシアのリュトケ提督が世界1周航海の途上、探検調査
1869年、ドイツが貿易の拠点をヤップ島に開設
1885年、スペインが戦艦を派遣
1886年、スペインは支配権の確立を目的とし要塞建設などを開始
1869年、ドイツが貿易の拠点をヤップ島に開設
1898年、米西戦争(1898/4/25-8/12)がアメリカとスペイン間で勃発
1899年、敗戦のスペインが25,000,000ペセタでパラオを含むカロリン諸島をドイツに売却、
      ドイツが「ドイツ領カロリン諸島」として植民地化
1914年、第一次世界大戦の勃発とともに大日本帝国が赤道以北のドイツ領ミクロネシアを無血占領。帝国はそれ以前よりドイツ領ミクロネシアとの経済関係を強化しており、ミクロネシアの経済は帝国との貿易に依存していました。1920年、国際連盟は帝国にミクロネシアの統治を委任し、帝国の「委任統治領南洋諸島」として南洋庁の下に置かれました。この期間、帝国人居住者は85,000人を超え、帝国人事業家が経済を活発化させたためミクロネシアは貿易黒字が続くという状態でした。

1918年、ドイツ敗戦
1920年、大日本帝国の委任統治領

第2次世界大戦が勃発すると、世界最大級の環礁に囲まれたトラック諸島などは天然の要塞として帝国軍の太平洋における最重要拠点のひとつとなりました。1944年2月、アメリカ軍はこの地域の帝国軍基地に対して徹底的な攻撃を開始。日米両軍の多くの血が流され、帝国軍は3万人の将兵を残したまま撤退。
1945年、8/15:大日本帝国・無条件降伏(9/2:第2次世界大戦終結
1945年、第2次世界大戦後アメリカの信託統治領
1947年、国際連合はミクロネシア地域を6つの地区に分け、
      アメリカ合衆国を受任国とする国連信託統治領
1965年、アメリカはミクロネシア議会の発足に合意
1970年代後半より自治独立の交渉開始
1978/7月、ミクロネシア憲法が起草されるも、6つの地域のうちマーシャル諸島とパラオ島では住民投票で否決されたので、その結果残りのポンペイ、チューク、ヤップ、コスラエの4地区が
”ミクロネシア連邦”を構成する州となり、
1979/5月、この憲法が発効
1986/11/3、ミクロネシア連邦は米国との自由連合盟約国として、事実上独立
1990/12月、国際連合安全保障理事会は正式に信託統治の終了を宣言、正式独立

ミクロネシア連邦は4つの州からなる。
・ヤップ州 (Yap)、州都はヤップ島のコロニア(Colonia)、石の貨幣
・チューク州 (Chuuk)、州都:チューク環礁(ウエノ島、又はモエン島、Moen, Weno or Wono)
 ワーロ島のワーロ(13,802人)、1989年にトラック州から改称、人口:53,595人(2000)
・ポンペイ州 (Pohnpei)、州都:ポンペイ島のパリキール(Palikir)
・コスラエ州 (Kosrae)、コスラエ島のみで1つの州、州都:トフォール村

漁業とココナッツとキャッサバが主産業で魚を日本中心に輸出し生活必需品をアメリカ中心に輸入しているが貿易額は赤字を記録。

ポンペイ島
 Pohnpei Island

ナン・マトール遺跡(Nan Madol)はミクロネシア連邦のポンペイ島にある13世紀〜15世紀の巨石構築物群。「天と地の間」という意味。19世紀初めからは、島は捕鯨船や商船の補給地として用いられ、数多くのヨーロッパ、アメリカの船が訪れ始め、1830年代前半には年間5隻程度の来訪でしたが、1855年には年間100隻を超過。これらの来航は島民との間に摩擦を生じることもあり、特に1836年のファルコン号事件
ポンペイ島
ではマタラニウムの首長をはじめ、多数の住民の死者を出しました。船員達からもたらされた病気も深刻な影響を与え、天然痘は1840年代初頭から流行が始まり、1854年の流行では半年間に2,000〜3,000人の死者を出しました。1820年代には10,000人を超えていた島の人口は、1850年代後半には約2,000人まで減少。この後もインフルエンザ、はしか等の流行が散発。人口は32,178人(2000)。6つの地区、コロニア (Kolonia) 、ネット (Nett) 、ウー (U) 、マタラニウム (Madolenihmw) 、キティ (Kitti) 、ソケース(ショケーシュ、 Sokehs) が有。首都パリキールはコロニアから南西に約8km離れたソケース地区に有。

参考HP:〜
ミクロネシアの地図
ミクロネシアの場所地図
ポンペイ島
チューク諸島、旧トラック環礁(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      08/11/13、12/12/5

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