Russia 国連 2013/5/2 発行 |
切手で綴る ロシア
スターリングラードの戦い Battle of Stalingrad, 1942 |
大航海物語 参考資料 地図編★ |
RUSSIJA スターリングラードの戦い |
マザーランド像(Sculpture "Motherland") スターリングラード防衛勲章(Stalingrad Defence Medal) 1942 スターリングラードの戦い60周年記念 2002 ロシア 2002 発行 |
MARSHALL ISLANDS スターリングラードの戦い Battle of Stalingrad |
ナチス・ドイツのポーランド侵略 ドイツ機甲隊とポーランド騎兵隊の戦い Invation of Poland |
ナチス・ドイツのベネルックス諸国侵略 Invation of Belgium |
|
クルスク大戦車戦 ドイツ・タイガー戦車とソ連T型戦車の戦い Battle of Kursk 1942 第二次世界大戦50年記念 1992 マーシャル諸島 1992 発行 |
スターリングラードの戦い (Battle of Stalingrad, 1942/6/28-1943/2/2) スターリングラードは現在、ロシア連邦のヴォルゴグラード州の州都ヴォルゴグラード(Volgograd, Volgograd Oblast, Russia)。その戦い時はソビエト連邦(Soviet Union, 1922-1991)首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin, 1878/12/18-在任1924/1/22-1953/3/5)に因んで、スターリングラード(Stalingrad, 1925-1961)と呼ばれていました。スターリングラードはロシア南部のドン川(Don River. 1,950km)とヴォルガ川(Volga River, 3,531km)が最も接近する地点にある工業都市で、当時は戦車・火砲などの大型武器の生産拠点でした。この地で第二次世界大戦(World War II, 1939/9/1-1945/9/2)での独ソ戦(German-Soviet War, 1941/6/22-1945/5/8)で、最大の、そして戦局を大きく左右する戦闘が行われました。 (1)序章
当初はポーランドを共に占領していたドイツとソ連でしたが、1941/6/22に突如、独軍がソ連に攻め入って戦争状態となり、1941〜1945年の間、ドイツを中心とする枢軸国とソ連との間で独ソ戦が戦われました。独軍はヒットラー総統の命を受けて、将兵300万人を動員したバルバロッサ作戦(Operation Barbarossa, 1941/6/22-12/5)というソ連奇襲攻撃で、冬の到来前にソ連を侵略する予定でした。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオンに勝利した祖国戦争(French invasion of Russia, 1812/6/24-12/14)に因んで大祖国戦争(Great Patriotic War, 1941/6/22-1945/5/9)と呼び、一方の独側では主に東部戦線(Eastern Front, 1941/6/22-1945/5/8)と呼びました。こうしてナチス・ドイツはヨーロッパの西と東の両方面での二正面戦争を開始。日本の「平家物語」の冒頭には、「祇園精舎の鐘の声、奢れるもの久しからず、勝者必滅の理を表す」とありますが、1939年にポーランド侵略を果たしたドイツは、1940年に国境を越えて西方のフランス侵略の第1歩を踏み出し、1941年には東方のソ連侵略へと、そしてこの2正面作戦は、当初は奇襲作戦で勝利したものの、奇襲は大日本帝国の真珠湾攻撃と同じく「騙し討ち」で勝ち誇っていましたが、ついには1945年に勝者必滅の理を表すこととなり、敗北して滅びました。 ドイツのソ連侵攻計画、バルバロッサ作戦では4ヵ月以内にモスクワを陥落させる計画でした。ところが、予定内のモスクワ奪取はならず、バルバロッサ作戦も不首尾に終わる(1941/12/5)と、1942年の夏季攻勢でロシア南部カスピ海西岸のバクー油田地帯とスターリングラードの奪取としてブラウ作戦(Operation Blau, 1942/6/28-1942/11/24)「青作戦」(Case Blue, 1942/6/28-1942/11/24, 独:(Fall Blau)ファル・ブラウ)を開始。ところが、ドイツ軍は1942年夏にはカフカス山脈の中央部まで進出するも、補給難から撤退し、ブラウ作戦もスターリングラード攻防戦の敗北で失敗となり、バクー油田は一貫してソ連の石油供給の中心を担い、ソ連勝利への大きな貢献を果たしました。 (2)スターリングラードの戦い (Battle of Stalingrad, 1942/6/28-1943/2/2) スターリングラードの戦いは、独ソ戦でソ連領内のヴォルガ河西岸に広がる工業都市スターリングラードを巡り繰り広げられた、ドイツ・ルーマニア・イタリア・ハンガリー・クロアチアからなる枢軸軍とソビエト軍の戦いでしたが、独軍のブラウ作戦実施の一局面として計画されていました。ところが、戦略上の要衝の地であった上に、時のソ連最高指導者スターリンの名を冠した都市でもあったことからソ連の頑強な抵抗で、熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、拡大しました。 戦いの最初は枢軸軍側の優位に進み、市街地のほとんど90%以上を占領したものの、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍がソ連軍の逆襲・包囲で、補給が断たれたドイツ軍は厳寒の中、多数の犠牲と捕虜をだして、最終的には降伏しました。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなりました。この戦いは「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であるといわれています。死傷者数は、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられました。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万人を数えた住民が終結時点で約9,800人にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦であったといわれています。ここから独ソ戦における独軍の後退が始まり、第二次世界大戦でのドイツ敗北への転機ともなりました。 (3)スターリングラード攻防戦(市街戦) 1942年8月末、ヒトラーの命令下、独軍はスターリングラードを圧倒的な火砲と戦車で完全に包囲、9月中旬から市内への突入を開始。それに対してソ連軍・工場労働者・市民は工場や団地の建物に潜み、抵抗を続けました。市街戦では戦車は行動の自由がきかず、狙撃兵が廃墟に隠れてドイツ兵を狙い、その行動を攪乱。凄惨な市街戦が続く中、10月には独軍はレニングラード市街地のほぼ9割を制圧したものの、完全に占領することはできず、ヴォルガ川を越えることもできませんでした。11月になると、独軍(枢軸側のルーマニア軍も)の外側にソ連軍が現れ、独軍は逆に包囲されました。ドイツの現地指揮官は脱出をはかるも、ヒトラーは「撤退不可、現地を死守せよ」と命令、雪の中で独軍は孤立しました。ヒトラーは救援軍を派遣するも、それも厳冬に阻まれて行動の自由がきかず、行動は停滞しました。 (4)ドイツ軍の降伏 翌1943年1月、食料と弾薬が底をつき、独軍司令官はヒトラーの命令に反して降伏を決意。2/2にソ連軍側に通告。ここでスターリングラードの戦いは独軍の全面的敗北で終わりました。30万の独兵は、20万が死傷し、10万が捕虜となり、ソ連の収容所に連行された独兵捕虜は15年間抑留され、祖国に帰ったのはわずか6,000人と言われています。このドイツの敗北は、第二次世界大戦の帰趨を決することとなり、以後ドイツ軍は後退を開始することになりました。1943/7/5にモスクワの南方のクルスクで、独軍は最新鋭の戦車を投入して大機甲部隊約2,800輌をソ連軍約3,000輌に向かわせて起死回生をはかるも、地雷や対戦車砲で阻まれたうえ、ソ連の反撃で失敗しました。このクルスク戦車戦(Battle of Kursk, 1943/7/5-1943/8/23)は史上最大の戦車戦といわれています。※日付・数には諸説有。 参考:〜 ▼バルバロッサ作戦 (Operation Barbarossa, 1941/6/22〜1941/12/5) バルバロッサ作戦は、1941/6/22に開始されたドイツによるソ連奇襲攻撃作戦の秘匿名称で、枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北になりました。バルバロッサ作戦でのドイツのソ連侵攻計画は、4ヵ月以内にモスクワを陥落させようとしていました。独軍はソ連国境に3個軍集団300万の兵力を集結。北方軍集団は、バルト海沿岸に沿い旧バルト三国を経由して北ロシアへ侵入し、レーニングラード(現サンクトペテルブルク)の占領もしくは破壊を目標。中央軍集団は、現在のベラルーシを通りロシアの中西部を進軍し、モスクワへの直接攻撃が目標。南方軍集団はソ連最大の穀倉地帯であり、一大工業地帯でもある人口密度の高いウクライナ地域を攻撃、キエフを攻略し、南ロシアの草原を抜け東方のヴォルガ川まで進軍する計画で、 ・北方軍集団はレーニングラードへ ・南方軍集団はウクライナからヴォルガ川へ ・中央軍集団はモスクワへ、と進軍しました。 ・第一段階(1941/6/22〜7/10) ・北西(北方)方面 ・レニングラードの戦い(Siege of Leningrad, 1941/9/8〜1944/1/27)が有、ソ連の勝利 ・独北方軍集団とソ連バルト方面防衛担当の北西正面軍が対峙 ・西部(中央)方面 ・ミンスクの戦い(Battle of Biarystok-Minsk、1941/6/22〜1941/6/29)が有、独軍の勝利 独中央軍集団がミンスクでソ連軍を包囲・攻撃して勝利 ・南西(南方)方面 ・ウクライナの戦い(Battle of Ukraine, 1941/6/22〜1941/7/10)が有 ソ連軍が独軍侵攻を察知し、独の奇襲は功を奏さず難航を極めるも独軍の勝利 ・結果は、 国境線での戦いは独軍の圧倒的勝利になりました。ソ連軍は全ての戦線で制空権を失い、虎の子の機械化戦力も含め地上部隊は大きな被害を受けました。開戦後三週間で独軍はバルト・白ロシア・ウクライナの過半を占領、500Km進撃。ソ連軍の被害は甚大で、7/30までに兵士65万人、航空機3,468機、砲12,000門、物資集積所200ヵ所を喪失。軍需物資を前線に集中していた影響で国内に蓄えられた物資のうち52%が失われ、前線の将兵は弾薬や燃料の欠乏に苦しむことになりました。一方で独軍の被害も甚大で、7月中旬までに兵士10万人、航空機1,000機、戦車1,500両を失いました。侵攻の主力である機甲部隊も車両の損失や故障が相次ぎ稼働率は大幅に低下。7月中旬の時点で第2装甲軍の稼働率は29%に、第3装甲軍の稼働率は42%に低下。 ・第二段階(1941/7/10〜9/30) ・西部(中央)方面 ・スモレンスクの戦い(Battle of Smolensk、1941/7/8〜1941/7/31)が有、独軍の勝利 ・北西(北方)方面 ・レニングラードの戦い(Siege of Leningrad、1941/9/8〜1944/1/18)が有、ソ連の勝利 ・南西(南部)方面 ・ウーマニの戦い(Battle of Uman、1941/7/15〜1941/8/8)が有、独軍の勝利 ・キエフの戦い(Battle of Kiev、1941/8/23〜1941/9/26)が有、独軍の勝利 ・オデッサの戦い(Siege of Odessa、1941/8/5〜1941/10/16)が有、独軍の辛勝 ・結果は、 ソ連軍は第一次攻勢を凌ぐ大損害を受け、広範な領土を喪失しヨーロッパロシアの大半を奪われました。戦術的成功にも関わらず独軍のもくろみは外れ、ソ連軍は強固な戦闘力を持続。夏の第二次攻勢でソ連体制を崩壊させるというドイツの戦略は完全に瓦解。ソ連軍の抵抗は予想外に頑強でスモレンスクをめぐる攻防戦で独軍は2ヵ月間足止めされました。死闘の末スモレンスクを落としドニエプル〜西ドヴィナ間の第2次防衛ラインを制するも、第3次防衛ラインへの攻撃には休息と補給が必要になりました。 ・第三段階(1941/9/30〜12/5) ・西部(中央)方面 ・モスクワの戦い(Battle of Moscow、1941/10/2〜1942/1/7)が有、ソ連の勝利 別名:タイフーン作戦(Operation Typhoon) ソ連の戦略的勝利、ドイツの作戦・戦術の失敗でバルバロッサ作戦の失敗となる ・南西(南方)方面 ・セヴァストポリの戦い(Siege of Sevastopol、1941/10/30〜1942/7/4)が有、独軍の勝利 ・結果は、 最後の望みだったモスクワ攻略によるソビエト体制の打倒は完全に潰え去り、当初から誤算続きだったバルバロッサ作戦は最期まで修正されず失敗に終わりました。中央軍集団だけで18万7千の将兵を失い東部軍全体の損害は87万人に達しました。ドイツにはこれらの損失を埋め合わせる人力も生産力も無く、1941年12月に軍需工場から28万2300人が召集されて陸軍に編入されるも訓練不足の新兵の増加は兵士の質を大幅に低下させました。また一度に労働力を失った軍需産業も大きな打撃を受けドイツ経済は停滞しました。ドイツの東部前線では兵站への過度な負担から輸送用トラックが欠乏、陸軍はドイツ国内と西欧の占領地帯で数千台のトラックをかき集めるも、東部への移動中にほとんどが故障し、兵站の負担は改善されませんでした。 一方ソ連が受けた損失ははるかに甚大で、300万を超える兵士を喪失し、6月には570万に達した動員力が冬には230万人に低下。人口の45%にあたる9,000万人と国内の三分の二の工場がドイツ軍占領地帯に取り残され、軍需生産能力の8割がウラルへ移動中で稼働せず、武器弾薬の欠乏は極めて深刻でした。機械化部隊の損失も深刻で、1941年8月にソ連軍は73個戦車師団を保持していたが、12月までに44個師団が全滅し、21個師団は定員割れで旅団や独立大隊に格下げされ、師団の壊滅と重装備の喪失により最大の戦術単位である軍団司令部は次々と解体されました。1942年にようやくソ連の軍団が復活。 ・独北方軍集団(バルバロッサ作戦) (German Army Group North, 1939/9/2-1945/5/8) (独第16軍, 16th Army, 将兵約100,000人) (独第18軍, 18th Army, 将兵約100,000人) (独第4装甲集軍, 4th Panzer Army, 戦車631両) (1945/5/8, ソ連への降伏時の捕虜:将兵約180,000人、そのほとんどが未帰還) 1941/6/22のソ連侵攻に向けて新設された3つの軍集団の1つで、開戦後はレニングラードを目標に進撃するも、中央軍集団のモスクワ攻略を優先するため指揮下の第4装甲集団が転属し、ソ連軍がレニングラード前面部に強固な防御陣地を構築したため、強襲による攻略戦から包囲戦(レニングラード包囲戦)に変更。作戦の変更後はレニングラードへの砲撃や爆撃、物資の補給線の遮断を行うもソ連の抵抗が弱まることは無く、2年以上にも及ぶ長期戦後、1944/1月のソ連攻勢で撤退、後退戦となり、中央部でソ連のバグラチオン作戦(Operation Bagration, 19/6/23-8/19)とバルト海攻勢(Baltic Offensive, 1944/9/14-11/24)で、中央軍集団と分断されクールラント半島(Courland Peninsula, Latvia)で孤立化。1945/1/25に第16軍、第18軍がクールラント軍集団(Army Group Courland, 1945/1/25-5/23、将兵約200,000人)を編成、中央軍集団は北方軍集団へと名称を変更。その後も後退戦を戦い、1945/4/2に解散。 ・独中央軍集団(バルバロッサ作戦) (German Army Group Centre, 1941/6/22-1945/5/3) (独第4軍, 16th Army, 将兵約100,000人) (独第9軍, 18th Army, 将兵約100,000人) (独第2装甲集軍, 2th Panzer Army, 戦車 ? 両) (独第3装甲集軍, 3th Panzer Army, 戦車 ? 両) (1945/5/3, 連合軍への降伏時の捕虜:将兵約 ? 人) 1941/6/22のソ連侵攻に向けて新設された3つの軍集団の1つで、3個軍集団の内で唯一、第2・第3の2個装甲集団を割り当てられたドイツ軍の主力として最大の戦力を保持。第1次スモレンスクの戦い(1943/8/7-10/2)勝利後、モスクワへの進撃を停止、キエフ包囲戦に参加。9/30にモスクワ攻略を目標としたタイフーン作戦を開始しモスクワ進撃を再開。ブリャンスクで3個軍、ヴャジマで4個軍を包囲するもソ連軍に致命的な打撃を与えられず、11月末にはモスクワへの攻勢が頓挫。12月にはソ連軍の攻勢によりモスクワ正面から退却、突出部が形成されたルジェフとヴャジマに陣地を築き戦線を立て直しました。1942年1月からはじまったソ連軍のヴャジマ=ルジェフ攻勢(第一次ルジェフ会戦)を撃退、ブラウ作戦がはじまるとドイツ軍の攻勢主体はコーカサス方面に進む南方軍集団となり、中央軍集団はもっぱら防衛戦を戦いました。第二次ルジェフ会戦(1942/11/25-12/20)で防衛戦に成功した後、クルスクの戦い(1943/7/4-8/27)ではクルスク突出部の北正面へ攻勢をかけるも成果無。9/25にスモレンスクを失い、南方軍集団がドニエプル川西岸に駆逐された後も、ミンスクやヴィチェプスクなどベラルーシを維持。クルスクの戦い以後南方軍集団がソ連軍の猛攻にさらされて後退を続ける一方で、中央軍集団の戦線は比較的安定するも、1944/6/22のソ連軍敢行のバグラチオン作戦で大打撃を受け、残余の部隊をまとめつつ東プロシアやラトビア方面へ過酷な撤退戦を戦う。北方軍集団主力が1944年10月よりラトビア西部のクールラント半島で包囲されると、翌年1/25に北方軍集団に改称され、A軍集団が中央軍集団の名称を引き継ぎ終戦まで戦う。 ・独南方軍集団(バルバロッサ作戦) (German Army Group South, 1939/9/2-1945/5/8) (独第6軍, 6th Army, 将兵約100,000人) (独第11軍, 11th Army, 将兵約100,000人) (独第17軍, 17th Army, 将兵約100,000人) (独第1装甲軍, 4th Panzer Army, 戦車 ? 両) (ルーマニア2個軍, Romania 3th & 4th Army) 南方軍集団はバルバロッサ作戦のために編成されたドイツ軍の3つの軍集団のうちの一つで、ブラウ作戦の第2段階で、コーカサスを目指すA軍集団と、ボルガ河を目指すB軍集団に分割。主要目的はウクライナとその首都キエフの奪取でした。ウクライナはソ連の工業と鉱業の主要な中心で、ヒトラーの唱える生存圏計画に必要な良質な農地を有りました。南方軍集団はボルガ河まで進出し、その後ソ連軍の一部を排除し北方軍集団と中央軍集団のレニングラードとモスクワそれぞれへの進路を確保する予定でした。モスクワ前面での敗戦でバルバロッサ作戦は失敗に終わるも、ドイツ軍の1942年の戦略は、南部戦線で夏季攻勢ブラウ作戦を行うことでした。ブラウ作戦は第一段階で、ドン河西岸のソ連軍を撃破し、第2段階では攻勢軸を2つにわけ、一群はボルガ河を目指し、一群はバクー油田の占領をめざすものでした。1942年7月にはブラウ作戦の第2段階に入り、南方軍集団は、コーカサスを目指すA軍集団と、ボルガ河を目指すB軍集団に分割され、消滅。1943/2/14にドン軍集団と既存のB軍集団は統合され、南方軍集団と改称。1944/4/4に南方軍集団は北ウクライナ軍集団と改称。北ウクライナ軍集団は4月28まで存在。1944年9月に南ウクライナ軍集団が南方軍集団と改称。 <バルバロッサ作戦の戦い> (Operation Barbarossa, 1941/6/22〜1941/12/5)、独軍の戦術的勝利・戦略的敗北 ・ミンスク・ビアウィストクの戦い (Battle of Bialystok-Minsk、1941/6/22-6/29)、独軍の勝利 バルバロッサ作戦発動後、ソ連国境侵入時に独中央軍集団がミンスクでソ連軍を包囲 ・ウーマニの戦い (Battle of Uman、1941/7/15-8/8)、独軍の勝利 バルバロッサ作戦中ウクライナ都市ウーマニ近くブーフ川東岸で独軍がソ連軍を包囲 ・第一次スモレンスクの戦い (First Battle of Smolensk, 1941/7/6-8/5)、独軍の勝利 独中央軍集団第2・第3装甲集団らがソ連軍4個軍を包囲した戦いで ソ連第16・19・20軍がスモレンスク南方で包囲され、第19軍の大部分のみ包囲から脱出 ・第二次スモレンスクの戦い (Second Battle of Smolensk, 1943/8/7-10/2)、ソ連の勝利 第1次スモレンスク戦で占領されたスモレンスクとブリャンスク地方をソ連が奪還 ・第一次キエフの戦い (First Battle of Kiev、1941/8/23-1941/9/26)、独軍の勝利 独バルバロッサ奇襲作戦でソ連南西方面軍の将兵約665,000人が包囲されてそのうち 616,304人をキエフの戦いの1ヵ月で戦死するか捕虜となるかで喪失 ・オデッサの戦い (Siege of Odessa 、1941/8/5-10/16)、独軍の勝利 黒海沿岸の軍港都市攻略はルーマニア軍担当、約2ヵ月後、オデッサは陥落 ・黒海の戦い (Black Sea campaigns, 1941-1944) 独バルバロッサ奇襲作戦でウクライナやクリミアの主要なソ連造船所を占領 ソ連黒海艦隊のほとんどはオデッサやセヴァストポリの防衛を支援後、撤退 ・第一次ハリコフ攻防戦 (First Battle of Kharkov, 1941/10/20-10/24)、独軍の勝利 バルバロッサ作戦最終段階でウクライナの工場を東に移転する間、ソ連がハリコフを防衛 ・第二次ハリコフ攻防戦 (Second Battle of Kharkov, 1942/5/12-5/28)、独軍の勝利 ウクライナの大都市ハリコフ奪還を目指すソ連軍が独軍の反撃で一方的に敗走 ・第三次ハリコフ攻防戦(Third Battle of Kharkov, 1943/2/19-3/15)、独軍の勝利 独軍ドン軍集団第6軍がスターリングラードで壊滅後、ハリコフに迫る ソ連軍先鋒を撃破、独は反撃でハリコフとベルグラードを再奪還 ・セヴァストポリの戦い (Siege of Sevastopol, 1941/9-1942/7)、独軍の勝利 クリミア半島とセヴァストポリ要塞をめぐる戦闘 ・モスクワの戦い(タイフーン作戦) (Battle of Moscow, (Operation Typhoon), 1941/10/2-1942/1/7)、ソ連の勝利 ・ロストフの戦い (Battle of Rostov, 1941/11/17-1941/12/2)、ソ連の勝利 ・アゾフ海攻勢作戦(1941/9/12開始)、ソ連の勝利 ・ロストフ防勢作戦(1941/11/5-16)、ソ連の南方面軍、ソ連の勝利 ・ロストフ攻勢作戦(1941/11/27-12/2)、ソ連の南方面軍、ソ連の勝利 ・デミャンスク包囲戦 (Demyansk Pocket, 1942/2/8-4/21)、独軍の勝利 レニングラード近郊デミャンスク周辺で、独軍がソ連に包囲された戦い。 ▼ブラウ作戦 (Case Blue, Eastern Front, 1942/6/28-1942/11/24)、ソ連の戦略的勝利 ブラウ作戦は1942年のドイツ夏季攻勢計画の名前で、作戦地域はロシア南部で、スターリングラードからヴォルガ河西岸への到達と、コーカサス地方のカスピ海西岸の石油資源獲得を目的とした作戦計画でした。ブラウ作戦の第一段階ではドン川西岸でソ連軍を撃破し、第二段階では、攻勢軸を2つに分け、ひとつはスターリングラード近郊でヴォルガ河に到達し、一つはロストフを通過して、コーカサス地方を南下して、マイコープ、グローズヌイ付近の油田を占領し、最終的には当時世界最大のバクー油田を占領するものでした。 1942/6/28、南部戦線でブラウ作戦が発動され、作戦開始当初は快進撃が続き、7/28コーカサスの油田地帯に向かった独A軍集団は油田のあるマイコプを占領するも、油田はすでに焼損。次にA軍集団は油田のある東のグロズヌイに向かうも、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗で進軍は停止。 ・独A軍集団(Army Group A, Army Group South)の戦闘〜コーカサス方面 ・第11軍(German 11th Army) ・第17軍(German 17th Army) ・第1装甲軍(German 1st Panzer Army) ・ルーマニア第4軍(Romanian 4th Army)など兵力100万 ロストフの戦い(Battle of Rostov, 1941/11/17-1941/12/2)が有、ソ連の勝利 イストラの戦い(Battle of Istra, Great Patriotic War, 1941/11/25-12/11)が有、ソ連の勝利 ・独B軍集団の戦闘〜スターリングラード方面 ・第2軍(German 2nd Army) ・第6軍(German 6th Army) ・第29軍団(German XXIX Army Corps) ・第4装甲軍(German 4th Panzer Army) ・イタリア第8軍(Italian 8th Army) ・ハンガリー第2軍(Hungarian 2nd Army) ・ルーマニア第3軍(Romanian 3rd Army)など兵力30万。 <ブラウ作戦の戦い> (Case Blue, 1942/6/28-1942/11/24)、ソ連の戦略的勝利 ・スターリングラードの戦い (Battle of Stalingrad, 1942/6/28-1943/2/2)、ソ連の勝利 ・ウラヌス作戦 (Operation Uranus、天王星作戦とも, 1942/11/19-11/23)、ソ連の勝利 ソ連軍がスターリングラード攻囲中の独軍の南北側面を攻撃・包囲した反攻作戦 ・冬の嵐作戦 (Operation Winter Storm, 1942/12/12-12/23)、ソ連の勝利 スターリングラードに包囲された独軍救出作戦、ソ連軍が阻止 ・第二次ルジェフ会戦 (Operation Mars(火星作戦), 1942/11/25-12/20)、独軍の勝利 ソ連軍がモスクワに近いルジェフ付近の独軍突出部に対する戦略的攻勢で、 ソ連軍は独軍戦線を突破できず大敗北、兵33万5千人と1,600両の戦車を喪失 ・イスクラ作戦 (Operation Iskra, 1943/1/12-1/30)、ソ連の勝利 ラドガ湖南岸での独北方軍集団第18軍とソ連軍レニングラード戦線・ヴォルホフ戦線との戦い ・クルスクの戦い (Battle of Kursk, 1943/7/4- 8/27)、ソ連の勝利 ドイツ側約2,800輌、ソ連約3,000輌の戦車が戦闘に参加、史上最大の戦車戦 ・プロホロフカの戦い (Battle of Prokhorovka, 1943/7/12)、独軍の勝利 クルスクの戦い(独ツィタデレ作戦(Operation Citadel, 北部:1943/7/5-7/12、南部:1943/7/12-7/17) 中の、クルスク南東87kmのプロホロフカの大戦車戦 なお、ブロディ戦車戦(Battle of Brody, 1941/6/26-6/30)が第二次大戦中最大の戦車戦。 ▼タイフーン作戦 (Operation Typhoon, 1941/10/2-1942/1/7) 別名:モスクワの戦い(Battle of Moscow) 1941年10月初頭にナチス・ドイツ軍が首都モスクワ攻略タイフーン作戦を開始。ドイツのソ連侵攻計画のバルバロッサ作戦では4ヵ月以内にモスクワを陥落させる予定で、1941/6/22に独軍はソ連に侵攻してソ連の航空戦力の大半を地上で撃破。電撃戦でソ連の領土に深く進軍して多くのソ連軍を撃滅。北方軍集団はレーニングラードへと向かい、南方軍集団はウクライナへ、中央軍集団はモスクワへと進軍。1941/7月までに中央軍集団はモスクワの通り道のドニエプル川を渡河。1941/8/5に独軍はスモレンスクを陥落させた。スモレンスクはモスクワへの進軍路としては、攻勢発起点よりちょうど中間点。ところが、ウクライナの穀物と鉱物資源を確保するために、ヒトラーは北方と南方へと転進し、レニングラードとキエフのソ連軍を殲滅するように命令。こうして独軍のモスクワへの前進は遅延。1941/9/30にモスクワへの進軍は再開されるも、独軍は弱体化しており、一方のソ連軍は新たに徴兵された部隊がモスクワを防御。
・冬将軍の到来 (Winter General) 西方正面では独第4装甲集団がクレムリンから25kmの地点のモスクワ郊外にまで達し、独前衛部隊はクレムリンの尖塔を眺めました(前線の独工兵部隊はモスクワまで8kmの地点まで前進)。例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃は完全に停止。気温が零下20度以下にまで下がり、独軍の戦闘車両や火器は寒冷のため使用不能になりました。独軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも無く、車両や航空機も満足に動かせない状態になりました。医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続出。特に独軍靴は長距離進軍に耐えるため底に鋲が打ってあり、足に冷気を伝え凍傷の原因になりました。対してソ連軍は靴底に鋲を打たないブーツを使い、兵士には一回り大きいサイズのブーツを支給し、隙間に新聞紙や藁を敷き詰めるなど、防寒装備は充実。独軍はソ連のモスクワ防衛の要衝イストラを占領するも、翌日からソ連空軍の猛爆撃が始まり、制空権はソ連側に移動。なお、10/25のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能になりました。
・結果 ソ連軍の冬季の反攻でドイツ軍はモスクワから追い出されました。独軍がモスクワを占領できなかったため、ヒトラーは1941/12/19に陸軍総司令官を更迭し、自ら陸軍総司令官に就任して、全ての軍事的な判断に関する権限を握りました。モスクワの防衛は独軍の進攻に対するソ連の抵抗の象徴となって、この戦いを記念してモスクワは1965年の20回目の対独戦勝記念日に英雄都市を授与され、1995年にはモスクワ防衛博物館が創立されました。 ・死傷者数 ソ連の損害:1941/10月〜1942/1月にかけてのモスクワ防衛で658,279人の損害 独軍の損害(中央軍集団) 1941/10/1〜1942/1/10、戦死35,757人、戦傷128,716人、行方不明9,721人。 ・人工洪水 (Artificial floods, 1941) 一部の歴史家は人工洪水がモスクワ防衛において重要な役割を果たしたと提唱している。ソ連がは独軍の重装備がヴォルガ川とイワンコフ貯水池(Ivankovo Reservoir)を渡れないようにするために氷を破壊。1941/11/24、ソ連軍はイストラ(Istra, Istrinsky District, Moscow Oblast)の貯水ダムを爆破。1941/11/28、ドゥブナ()近くのダムを使ったイワンコフ貯水湖(Ivankovo Reservoir)と同様に6つの貯水湖(ヒムキ(Khimki)、イクシャ(Iksha)、ピャロフスコエ(Pyalovskoye)、ペストフスコエ(Pestovskoye)、ピロゴフスコエ(Pirogovskoye)、クリャージマ(Klyazma)貯水湖)を爆破してヤフロマ川(Yakhroma River, Moscow Oblast, 54km)とセストラ川(Sestra River, 138km)に排水。その結果、厳しい冬の気候にも関わらず、30〜40の村が浸水。人口洪水はしばしば型にはまらない武器として使われました。 ・独軍の重戦車 タイガー戦車 の装備:〜タイガーI型の生産開始:1942/8/8 (German heavy tank、独軍の重戦車、55トン級、VI号戦車タイガーE型) 運用開始:タイガーI型が東部戦線に初登場したのは1942年12月
※IV号戦車生産台数、各型合計約8,200両 ※パンサー戦車の生産台数、約6,000両 ※タイガーII型は1942/8/29に初めてレニングラード近郊のムガにおける戦闘で試使用。
参考HP:〜 ・バルバロッサ作戦の地図(1、Leningrad & Moscow 有) ・バルバロッサ作戦の地図(2、Leningrad & Moscow & Starlingrad 有) ・バルバロッサ作戦の地図(3、Leningrad & Moscow & Starlingrad 有) ・ブラウ作戦の地図(1、Don river & Starlingrad 有) ・ブラウ作戦の地図(2、Leningrad & Moscow & Don river & Starlingrad & Volga River 有) こちらで ・シベリア鉄道 (ロシア) 世界遺産の ・クレムリン (ロシア) ・ヘンダーソン島 (ピトケーン諸島) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.2/9/22 (2020) |