(10)コロンブスのそのごの記(一) ころんぶすのそのごのき | C・MENU | もどる | すすむ |
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コロンブスの全4回の航海地図 | ||
(フアナ島) キューバ島→ ジャマイカ島→ (1494年発見上陸) |
←サンサルバドル島 (ワットリング島) ←ボーイオ島 (イスパニョーラ島) ←プエルトリコ島 (1493年発見上陸) ←ジャマイカ 1992発行 |
コロンブスは、アジアの「黄金の国(おうごんのくに)」や「香料(こうりょう)」をさがしに そのご、3回の探検航海(たんけんこうかい)に、スペインから出帆(しゅっぱん)しました。 第2回(だい2かい)探検航海=1493/9/25〜1496/06/11 |
・コロンブスの第2回めの探検航海(1493/9/25〜1496/6/11) | |
←コロンブスの第2回めの航海地図(こうかいちず) 1493/09/25、17隻で1500人がカディス港を出帆、 1493/11/03、ドミニカ島につく、 1493/11/19、プエルトリコ島につく、 1496/03/10、イスパニョーラ島イサベラ市を出帆、 1496/06/11、カディス港にかえる。 ←ジャマイカ 1992 発行 |
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1493年11月に、コロンブスが第2回めの航海で発見した島々。 |
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←コロンブスのプエルトリコ島、到達 ←USA 1993 発行 コンブスのプエルトリコ島到達500年記念 |
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←コンブスのプエルトリコ島、ボートで上陸 ←スペイン領フプエルトリコ 1893 発行 コンブスのプエルトリコ島到達400年記念 |
セント・クロイ島→ を発見:11/14 . |
←サバ島、岩だらけで上陸せず ←セント・ユースタティウス島 ←セント・キッツ島 ←ネヴィス島 ←レドンダ島 ←モントセラット島 ←グアドループ島、水くみに上陸 パイナップルを発見 マリエ・ガーラント島 ←ドミニカ島を発見、上陸:11/3 ドミニカ 1992 発行・小型シート |
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←第2回めの探検航海で、1500人がイスパニョーラ島に上陸。スペインではイスラムとの戦争(せんそう)がおわったので、たくさんの兵士(へいし)が失業(しつぎょう)していました。それで、コロンブスの2回目の航海に参加(さんか)したのは、ほとんどの人が元兵士(もとへいし)だったのです。 ←ギニア 1992 コロンブス新大陸発見500年記念発行 |
コロンブスは1493/3/30ひづけの手紙(てがみ)でスペイン国王夫妻から、つぎの航海のじゅんびにはいるようにとしじをうけました。国王はコロンブスにちょくせつあうまえにつぎの航海をすることをきめていたわけです。コロンブスの第1回航海が大成功とつたえられたため、1493/9/25に17隻の船に1500人がきそってのりこみ、スペインのカディス港を出帆しました。末弟(まってい)のディエゴ・コロンもいっしょにゆきました。 第2回目の航海は、1493/9/25に17隻の船隊に1500人がのりこみ、スペインのカディス港を出帆し、総司令官のコロンブス提督(ていとく)は「サンタフェの協約」で、あたらしく見つけた”インディアス総督(そうとく)”として出発(しゅっぱつ)しました。10/13にカナリア諸島のヒエロ島を出帆し、西南西(せいなんせい)へと航海しました。20日の航海のあとの11/3(日)に、さいしょに見つけた島を日曜(にちよう)だったので”ドミニカ”島と名づけました。つぎの日に「グアドループの聖母(せいぼ)」にちなんで名づけた”サンタ・マリア・デ・グアドループ”島に上陸しました。住民は山へにげていましたが、捕虜(ほりょ)として数人(すうにん)をつかまえました。かってに上陸した9人をさがしに200人で上陸してさがしました。そして、食人種族のカリベ族(しょくじんしゅぞくのかりべぞく)にたべられそうになったことがわかりました。9人がもどってきたので11/10に出帆しました。うえの”ドミニカ発行・小型シート”の島々を発見・上陸しながら、いまのセント・クロイ島には”サンタ・クールス”島と名づけて11/14に上陸しました。11/22にイスパニョーラ島につき、11/27の夕方(ゆうがた)ナビタア砦の沖(おき)につきました。つぎの日にボートで上陸すると砦は焼払(やきはら)われていて、スペイン人は金をもっていたカオナボウ酋長の村で乱暴(らんぼう)したので、全滅(ぜんめつ)していました。コロンブスは、それまでの「臆病(おくびょう)で、武器(ぶき)もしらず、まったく危険(きけん)がない」という住民にたいする判断(はんだん)をかえました。 12/8にイスパニョーラ島で「港があり、よい水があり、”シバオ”にもちかい所」を見つけて、1493/12/8から1500人が定住(ていじゅう)するための防御(ぼうぎょ)をかためた「イサベル」市(し)の建設(けんせつ)をはじめました。しかし、まもなくその3分の1が病気(びょうき)でたおれてしまいました。市は1494年3月にできあがりました。 1494年1月にコロンブスはアロンソ・デ・オヘーダを”シバオ”へゆかせました。オヘーダは砂金(さきん)を見つけてきました。2/2にコロンブスは国王へ手紙を書き、アントニオ・デ・トーレスに持たせてスペインへ出帆させました。手紙には「食料(しょくりょう)と武器(ぶき)の不足(ふそく)」がかいてありました。とくに第一回航海で「住民は臆病で、まったく危険(きけん)がない」としていたコロンブスの判断は大きくかえてかいてありました。このとき第2回航海の17隻中12隻がスペインへもどってしまいました。3/16にはコロンブスはシバオへゆき”サント・トマス”砦を建設して、隊長ペドロ・マルガレーテと55人のスペイン人でまもらせました。3/29にコロンブスはイサベラ市に帰ってきました。 1494/4/24にコロンブスは3隻の船に50人を乗せてイスパニョーラ島を出帆し、4/30キューバ島につきました。5/5ジャマイカ島につき、5/14キューバへもどり、さらに西へと航海しましたが、6/11に船もいたみ、食料もすくなくなってきたためと、これほど海岸が長いのは「キューバが大陸だ」と判断して、コロンブスはひきかえすことにしました。6/13キューバから、ジャマイカ島の南岸(なんがん)をまわって、イスパニョーラ島の南から、9/29にイサベラ市に帰りました。 イスパニョーラ島に帰ってみると、スペイン人の横暴(おうぼう)と鉱山(こうざん)での重労働(じゅうろおうどう)にたえかねたインディオが、かくちで反乱(はんらん)をおこしていました。島の治安(ちあん)をまかせていたマルガレーテ隊長は騎士全員(きしぜんいん)20人とともに帰国(きこく)していました。1488年にイギリス、フランスへ行かせていた弟バルトロメ・コロンがイサベラ市にきていて、ぶじの再会(さいかい)をよろこびました。10月にはトーレスがスペインから国王の手紙をもって帰ってきました。この手紙でトルデシーリャス条約で航海が安全(あんぜん)になったことをしりました。トーレスがスペインへ往復(おうふく)できたことで、コロンブスがいなくても航海できることがたしかめられました。 コロンブスは1495年3月に”グアカナガリ”酋長(しゅうちょう)をみかたにつけて、武力(ぶりょく)でのイスパニョーラ島制圧作戦(せいあつさくせん)をはじめました。10ヵ月ご(1496年1月)に”カオナボウ”酋長を捕虜(ほりょ)にして、インディオの反乱はおわりました。金や香料があつまらずにあせっていたコロンブスは、反乱をおこしてとらえられたインディオを奴隷(どれい)としてスペインにおくることにし、1495/2/24に500人をスペインにおくりました。スペインでは国王はインディオを奴隷としてうることをみとめず、インディオを保護(ほご)しました。また、8月に弟ディエゴとトーレスとが、さらに500人の奴隷をつれてスペインに行きました。イサベラ女王はおどろきましたが、反乱をおこしてとらえられたことがわかると、競売(きょうばい)にかけてうりました。 おおくのスペイン人がイスパニョーラ島からきこくして、「島には金がない」ことや、「財宝や香料」をコロンブスがひとりじめにしているといいたてましたので、1495/4/10に国王は「インディアスへの渡航(とこう)および発見・交易(はっけん・こうえき)の自由化令(じゆうかれい)」を公布(こうふ)しました。これで、コロンブスの「サンタフェの協約」の権利(けんり)がしんがいされることになりました。 そのころイスパニョーラ島からディエゴとトレースがスペインにつき、トレースは「コロンブスがこまっている」ことを国王にしらせました。すると国王は、5/5にフォンセカに救援船(きゅうえんせん)の派遣(はけん)をいそぐようにめいじました。フォンセカは国王に「イスパニョーラ島の評判(ひょうばん)がわるくなって、人があつまりません」と報告(ほうこく)しました。ただちに保証措置(ほしょうそち)がとられました。それでも人があつまらなかったため5/30に、さらに特典(とくてん)がついかされました。1495/8/5にファン・デ・アグアードが4隻の救援船でスペインを出帆し、10月イスパニョーラ島に到着し、アグアードはコロンブスに国王からの指示(しじ)をつたえました。 1496/3/10にコロンブスはアグアードとともにイサベラ市を出帆して、スペインへと航海しました。イスパニョーラ島には400人ほどのスペイン人がのこりました。1496/6/8ポルトガルの沖をとおりすぎ、6/11にスペインのカディス港につき、ぶじに帰国(きこく)することができました。 |
コロンブスの第3回めの探検航海につづく |
←イサベラ女王夫妻(じょうおうふさい)に、あたらしく見つけた所をせつめいするコロンブス ←コロンブスの全4回の航海地図 ←ギニア 1992 発行 |
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.3/10/21 (2021) 追記
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