★イギリス |
ナガサキの海戦 1808、フェートン号事件 長崎湾(出島)にイギリス軍艦が現れる |
大航海物語★ |
オランダ国旗→ | Saint Lucia オランダ国旗を掲げる帆船 セントルシア 2007 発行 |
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日本郵便 NIPPON 長崎出島 オランダ商館 日本 1997/6/3 発行 |
日本郵便 NIPPON 南蛮船、出島、阿蘭陀カピタン 日本・オランダ交流400年記念 日本 2000/4/19 発行 |
ナガサキの海戦 (1808/10/4〜10/17) Battle of Nagasaki 別名:フェートン号事件 Nagasaki Harbour Incident、(The Phaeton incident) 「ナガサキの海戦」は長崎湾に侵入してきた英国船が砲門を開かず、一発の砲弾も打たず、戦闘のある海戦とはなりませんでしたので、フェートン号事件(The Phaeton incident)と呼ばれています。穏便に解決したのに、日本ではそれを屈辱と受取り責任者達が自殺(切腹)に追込まれました。 ・初めに フェートン号事件は文化5年8月(1808/10)に鎖国下日本の長崎湾にイギリスのフリゲート艦フェートン号が侵入してきた事件で、それはヨーロッパのナポレオン戦争(1803-1815)の余波が極東の日本にまで及んだものでした。1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結迄の鎖国期間は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)だけが長崎の出島にオランダ東インド会社の商館を置いて、日本との貿易をしていました。イギリスも江戸時代初期には長崎の平戸に商館を置いて対日貿易を行っていましたが、経営不振のため1623年に平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶されていました。
イギリスは亡命して来たウィレム5世の要請もあってオランダの海外植民地の接収を始めていましたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(第一帝政フランス)支配下の植民地でした。しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、東インドのバタヴィア(現:ジャカルタ)では旧オランダ(第一帝政フランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていました。ヨーロッパでフランス革命戦争とナポレオン戦争(1803-1815)が勃発し、まさに戦乱で荒れ狂った時期のアジア貿易は、オランダからの自国船が戦争で日本に来なかったので、長崎の出島では、1797年にオランダ商館がアメリカ船とバタヴィアにて傭船契約を結んでから、中立国のアメリカ(米国)船は自由に航行できるので、それを利用して日米貿易を初めていました。其の時に出島に入港するアメリカ船はオランダ国旗を掲げて、オランダ船に見えるよう偽装して行われていました。それは1809年迄続きました。 ・ナガサキの海戦は回避される (フェートン号の長崎湾侵入) 1803/7月に5等フリゲート38門艦フェートン号(HMS Phaeton 38-gun fifth rate frigate)は、後の第2次アメリカ独立戦争(米英戦争 1812-1815)で米国のホワイトハウスを焼討ちしたジョージ・コックバーン(Captain George Cockburn)が艦長になって極東に派遣されていましたが、後任のジョン・ウッド艦長(Captain John Wood)のもとで、ブリッグ・スループ18門鑑ハリヤー号(HMS Harrier 18-gun brig-sloop)エドワード・ラッセイ艦長(Captain Edward Ratsey)と共に、1805/8/2にフィリピンのマスバテ島(Masbate Island)東のティカオ島(Ticao Island)サン・バシント(San Jacinto)沖合いサンベルナルジノ海峡(San Bernardino Strait)で、フランス40門艦セミランテ号(40-gun Semillante)レオナード・モタルド艦長(Leonard-Bernard Motard 1771-1852)と砲撃戦を戦い、海岸砲台からの砲撃が加わって、セミランテ号が退避逃亡しました。その後、フェートン号はイギリス航路の船舶護衛のためにフランス領モーりシャス島からの攻撃に備えてインド洋に戻りました。ウッド艦長は3年後に転属して、1808/7月にフリートウッド・ペリュー艦長(Captain (後にAdmiral Sir) Fleetwood Broughton Reynolds Pellew CB KCH 1789-1861)が後任の艦長になっていました。
長崎奉行(直参旗本)の松平康英(明和5:1768-文化5:1808)は湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にフェートン号の焼き討ち又は抑留を命じて、大村藩などにも派兵を要請しました。オランダ・カピタン(商館長)ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff(ズーフ)、1777-1835オランダ没)は長崎奉行所内に避難し、戦闘回避を勧めました。ところが長崎警備当番の鍋島藩が太平の世に慣れ、財政難もあって守備兵千人のところを、わずか150人程度に減らしていたことが判明して、長崎奉行は英国船の迎撃が出来ないことを知りました。翌日(10/5)イギリス船がオランダ人1人を釈放して、欠乏食料の供給を求め、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきました。迎撃兵力のない長崎奉行はやむなく要求を受け入れ食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を渡しました。それでフェートン号は残りのオランダ人も釈放し、10/6に出帆して湾外へと出て行き、去ってしまいました。 ・その後 その結果は日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決するも、手持ちの兵力も無く侵入船の要求に易々と応じじてしまった長崎奉行の松平康英は国威を辱めたとして自ら切腹して果てました。勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老など数人も責任を取って切腹。さらに江戸幕府は鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月に藩主の鍋島斉直(安永9:1780-(在位1805:文化2)-天保元:1830)-天保10:1839)に100日の閉門を命じました。フェートン号事件の後、オランダ商館長ズーフや後任の長崎奉行の曲淵景露(まがりぶち かげつぐ、享保10:1725-寛政12:1800)らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化されました。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発令しました。この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正(文化11:1815-(在位1830:天保元-文久元1861)-明治4:1871)の下で、1828/9/17(文政11/8/9)のシーボルト台風による大被害などの財政難を乗越えて近代化に尽力し、明治維新の時に大きな力を持つに至りました。一方、イギリスは1811年になってインドからジャワ島に遠征軍を派遣してバタヴィアを攻略。東インド全島を支配下に置きました。イギリス占領下のバタヴィアから長崎のオランダ商館には何の連絡もなく、商館長ズーフらはフランスのナポレオン帝国没落後まで長崎出島に放置されました。ズーフ達オランダ商館員は本国の支援もないまま、7年もの年月を日本で過ごしていくこととなりました。ズーフはその後も商館長としてイギリス勢力に対し出島のオランダ商館の明渡しを拒み、1811年にイギリスがオランダ領東インドを制圧してから、1815年にオランダが再独立を果たすまでの間、世界でオランダ国旗を掲げ続けた数少ない人物となりました。 ・5等フリゲート38門艦フェートン号の装備:〜 HMS Phaeton 38-gun fifth rate frigate 1782
参考HP:〜 ・出島の場所地図(現在の地図) ・長崎港と出島の絵図 こちらで ・シャナの海戦(シャナ事件)、 ・ツシマの海戦(ポサドニック号事件)をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/3/3、12/4/30 |