★ロシア |
シャナの海戦 1807、Battle of Shana フヴォストフ艦隊がエトロフ島を攻撃 |
大航海物語 参考資料★ |
CCCP | 18-19世紀のロシア戦艦 | ||
ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
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ソビエト連峰 1971/12/15 発行 |
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DDR マミヤ(タタール)海峡↓ |
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←樺太(サハリン) ←北方4島(千島列島) ←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡) ←北海道 ←小笠原諸島 ←マリアナ諸島 |
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北朝鮮 2001/10/23 発行 小型シートより |
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VIET NAM | ||
北方四島は北海道からカムチャッカまで連なる千島列島の南西端に有 | ||
ロシアの地図 1922 ソヴィエト連邦60年記念 1982 ヴェトナム 1982/12/30 発行 (200%) |
←チュクチ半島 |
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千島列島 | ←カムチャッカ半島 ←サハリン(樺太) ←北海道 |
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・シャナの海戦 (1807/4/24〜4/29) Battle of Kurilsk、(クリルスクの海戦)、ロシアの一方的勝利 別名:シャナ事件 (Battle of Shana) ロシア艦隊が樺太南部アニワ湾と択捉島を攻撃 寛政11(1799)年に天領となって勤番所が置かれ、弘前藩と盛岡藩の藩兵が警固をしていた択捉島北東部の紗那(シャナ)と中西部の内保(ナイホ)湾の集落に、文化4年(1807、4月説有)にロシア船が現われ、会所などをロシアが攻撃・略奪・放火するシャナの海戦(フヴォストフ事件・エトロフ(択捉)島襲撃事件)が勃発しました。 1804/9/4にクルーゼンシュテルン提督の世界一周航海の途上、ナジェージタ号が長崎に入港(文化元)して通商を求めた第2回ロシア遣日使節ニコライ・レザノフ大使(Nikolay Petrovich Rezanov 1764-1807/3/8)は日本の漂流者帰国を配慮して津太夫ら漂流者を送り届けましたが、日本の幕府に半年近くも待たされた上、通商を拒絶されました。1805/3月にレザノフ大使はナジェージタ号と共に長崎を出帆。1805/6月にナジェージタ号は再びペトロパブロフスク・カムチャツキーに入港。レザノフ大使はサンクトペテルブルグへ帰るため、ここペトロパブロフスクで下船しました。レザノフ大使は日本の門戸を開かせるためには、武力で脅かすより方法はないと考えて、武力行使で幕府に通商を認めさせようと皇帝に上奏しました。そして露米会社に配属されていたブリッグ艦ジュノー号艦長ニコライ・フヴォストフ海軍大尉(Lieutenant Nikolay Khvostov commander of the brig Juno)と、テンダー艦アヴォス号艦長ガブリィル・ダヴィドフ海軍中尉(2nd Lieutenant Gavriil Davydov commander of the tender Avos)に、そのことを話しました。その話には、南サハリン(southern Sakhalin)とウルップ島(Urup island、得撫島)、シムシル島(Simushir island、新知島)の「調査」に行くこと、「航海中に日本船に攻撃されたら迎撃して、頑健な日本人は捕虜にし、弱い者は北海道へ送り返すこと、それ以外は商業の交易をすること。サハリンに上陸して現地のアイヌ人が歓待したなら、服や布地などを与え、酋長には勲章を授与すること」などを話して、後事を彼らに託して、サンクトペテルブルグへの帰途につきました。そして、レザノフ大使は間も無くシベリアのクラスノヤルスクで病にて亡くなりました(1807/3/8)。レザノフ大使の考えを聞いていたフヴォストフ大尉がレザノフの暮報に接し、ロシア政府にクリル諸島の攻撃許可を申し出ましたが、当局は許可を出しませんでした。そこで、フヴォストフ大尉は僚艦のアヴォス号艦長ダヴィドフ中尉に相談を持ちかけ、日本に対する示威行動を樺太や千島で行いたいと、クリル諸島へ出帆することになりました。 ・ロシア艦隊の攻撃 1807/10/6、ロシア帝国海軍旗を掲げたブリッグ型フリゲート艦ジュノー号(brig frigate Junona(Juno) 20-gun 1802)がサハリン最南部のアニワ湾(Aniva Bay)東岸に投錨。10/8にカーピンスキー少尉(3rd
6/10にサハリンのアニワ湾に再び投錨。艦砲射撃で残存の建物などを再度焼打ちして焼き尽くしました。その後、南下して北海道に向かい、北海道北西の小島(Peak de Langle)付近で4隻の日本船を捕え、積荷の米と魚、塩を奪って船は焼き捨てました。
彼らの無許可の「偉業」の結果はサハリンに日本人を戻して防備を固めさせ、エトロフ島のウイエレ(Uiere)に要塞を造らせ、1808年にはクナシリ島(国後島)に兵士1000人を置いて堅固な守りを固めることになり、1811/7/11の「ゴローニン艦長の監禁」事件が起ることとなりました。そんな中で、1821/9/13にはウルップ島(Urup:得撫島)がロシア帝国最南端の島として、露米会社が領有を宣言しました。1808年に松田伝十郎(Matsuda Denjuro 1769-1842)と間宮林蔵(Mamiya Rinzo 1780-1844)がそれぞれ別々のルートで樺太のシラヌシ(Shiranushi)からサハリンを探検調査しました。そして露日の通商条約はプーチャーチン提督によって、1855年になってようやく締結されました(下田条約)。 なお、1808年にアヴォス号は露米会社の要請でアラスカ南部のコディアク(Kodiak)から北米東岸のシトカ(Sitka)へ向かう航海の途上、嵐でアイランド湾(Bay of Islands)付近で遭難して失われました。 参考:〜 ・亜庭湾(アニワ湾) Aniva Bay 樺太南端の亜庭湾(アニワ湾、Aniva Bay)、1679年松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊町楠渓)に設けられて日本の漁場としての開拓が始まった大泊町(コルサコフ:Korsakov)があり、そこからユジノサハリンスク迄42kmの鉄道が現在もあります。 参考HP:〜 ・サハリンのアニワ湾の場所地図(コルサコフ:Korsakov、有) ・北方四島(クリル諸島)の場所地図(英語) ・北方四島の場所地図(日本語) ・北方四島の場所地図(面積を表示) ・択捉島の地図(紗那、内保湾:有) ・北方四島の地図(単冠湾有) ・千島列島の場所地図 ・千島列島の地図 ・クリル諸島(千島列島)の地図(英語) こちらで ・ナガサキの海戦(フェートン号事件)、 ・ツシマの海戦(ポサドニック号事件)をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/3/12 |