★ロシア |
ツシマの海戦 1861、Tsushima Crisis ロシア軍艦ポサドニック号が対馬を占領 |
大航海物語 参考資料★ |
CCCP | CCCP 19世紀蒸気スクリュー式帆船のロシア軍艦 ソ連 1998 発行 |
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ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
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REPUBQUE DE GUINEE | |||||||
UNITED NATIONS 大英帝国(イギリス)国旗 ユニオン・ジャック(Union Jack) United Kingdom |
19世紀蒸気スクリュー式コルベット帆走型軍艦 Captain England 1870 |
19世紀蒸気スクリュー式帆走軍艦 Inflexble England 1881 |
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ギニア 1997/5/20 発行
日本郵便 NIPPON |
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日本の国旗 日章旗 別名:日の丸 Japan 国連 1983 発行 |
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咸 臨 丸 日本 1977/1/20 発行 |
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対馬→ |
DDR 対馬の場所地図(1) マミヤ(タタール)海峡↓ . 北朝鮮 2001/10/23 発行 小型シートより |
←樺太(サハリン) ←北方4島(千島列島) ←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡) ←北海道 ←小笠原諸島 ←マリアナ諸島 |
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・ツシマの海戦 (1807/4/24〜4/29) Tsushima Crisis、(ポサドニック号事件) 別名:ロシア軍艦の対馬占領(不法占拠)事件 (Tsushima Incident) ポサドニック号が対馬(ツシマ)芋崎浦を占領 ツシマの海戦は一発の砲声も轟かず(銃声は有)に起こった、ロシア軍艦の対馬占領事件です。幕末の1861年(万延2)にロシア帝国のポサドニック号が浅茅湾の尾崎浦に投錨し、船体修理として芋崎沖に停泊。対抗したイギリス軍艦も測量を名目に浅茅湾の吹崎沖に停泊しました。ポサドニック号は芋崎浦を占領(不法占拠)して兵舎・工場・練兵場などを有する海軍基地を建設し、第15代藩主宗義和(1818-1890)に土地の貸与を求めて半年余り占領し続け、地元で殺害・暴行・略奪などを起こしました。対馬藩(対馬府中藩:Tsushima-Fuchu Domain)は対応に困って長崎奉行に知らせ、幕府外国奉行の小栗忠順(1827-1868:在任1860-1861)が派遣され、イギリス公使ラザフォード・オールコック卿(Sir Rutherford Alcock KCB 1809-1897)がイギリス軍艦で干渉したこともあって、半年後にロシア軍艦が去りました。
・ロシア軍艦の来襲 ロシア艦隊の太平洋司令官であったリハチョーフ大佐(commander Admiral Ivan Likhachev)は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案するも、日本との関係が悪化することを懸念したサンクトペテルブルクのロシア政府はリハチョーフ司令官の提案を拒絶。だが、海事省大臣(General Admiral)の大公コンスタンチン・ニコラエヴィチ(Grand Duke Konstantin Nikolayevich of Russia 1827-1892)が、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されることになりました。文久元/2/3(1861/3/13)にロシア帝国海軍中尉ビリリョフ艦長が軍艦ポサドニック号で対馬島に来航し、浅茅湾西の尾崎浦に投錨して測量後、浅茅湾内に進航しました。ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、対馬藩主の宗義和は重臣を急派し、非開港場に投錨の非を責め、速やかに退去するよう抗議するも、ビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航したと回答し、修理工場の設営資材や食料・遊女などを要求しました。3/14には、さらに深く芋崎まで進み、芋崎に無断強行上陸して、かねてよりの計画通り船体修理の名目で、「海軍基地」として工場や兵舎、練兵場などの建設を始めました。
ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3/23には芋崎の租借を求めて来ました。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑でした。3/27にポサドニック号はランチ(launch)を出して芋崎(Imosaki Bay)の調査をなし、4/2にポサドニック号が芋崎に到着・停泊。4/12にロシア兵がランチに乗り大船越の海峡を不法通過しようとしたのを阻止するため、村人の先頭にたった松村安五郎(1823−1861:38才没)が銃で撃たれて殺害され、郷士2人を捕虜として拉致して軍艦に連行、内1人は舌を噛み切って自殺。ロシア軍の暴挙はそれにとどまらず、番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰艦。さらに翌日には水兵100余人を出して、大船越の村で略奪を行いました。4/16にはランチで芋崎を再度調査したので、対馬藩では対応に困って、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰ぎました。藩主の義和はポサドニック号に速やかに退去することを要求しながらも米・塩・薪炭を贈り懐柔を図りました。紛争を避けるため藩内士民には軽挙を戒める一方で、密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えました。 ・幕府の対応 長崎奉行の岡部長常(1825-1867)は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送り、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させ、対策を相談するも有効な手は打てませんでした。幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行の村垣範正(1813-1880)に命じて、箱館駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチ(Iosif Antonovich Goshkevich 1814-1875)にポサドニック号の退去を要求させ、また外国奉行の小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせました。文久元/5/7(1861/6/14)に小栗奉行が目附の溝口八十五郎などを率いて対馬に到着。5/10にビリリョフ艦長と会見。この第一回の会見でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨を回答。5/14に第二回の会見で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。5/18に第三回会見で藩主謁見の実現を求めるビリリョフ艦長に対し小栗奉行は、「約束を破ることになったら私を射殺して構わない」と言い切るも、5/20には対馬を離れ江戸に向かいました。江戸に戻った小栗奉行は老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言するも、老中はこの意見を受け入れず、小栗奉行は7月に外国奉行を辞任することになりました。 5/26に交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフ艦長はポサドニック号を府内に回航し、部下を従えて藩主の宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献上して長期滞留を感謝。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の献上、警備協力などを提案。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわしました。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲慢な態度に激怒するも、辛うじて事なきを得ました。 ・イギリスの介入 7/9にイギリス公使オールコック卿とイギリス海軍中将ジェームス・ホープ卿(Vice Admiral of the Fleet Sir James Hope, GCB 1808-1881)が幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中の安藤信正(1820-1871)らと協議。7/23にホープ提督指揮のイギリス東洋艦隊の軍艦2隻、HMSエンカウンター号、HMSリンドーブ号が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ提督はロシア側に対して厳重抗議。この時にオールコック公使も対馬占領を本国政府に提案していたといわれています。 ・その後 また老中の安藤信正は再度、箱館奉行の村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせました。ロシア領事ゴシケーヴィチはイギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦オプリチニック号のアブレク艦長(Abrek)を対馬に急派し、ビリリョフ艦長を説得して、文久元/8/15(1861/9/19)にポサドニック号は対馬から退去しました。ロシア側の意図は、極東での不凍港根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、イギリスに先を超され対馬を租借されるのを恐れていたとされています。9月に外国奉行の野々山兼寛(在任:1860-1862)らは幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管しました。 ・ツシマの海戦の略年表:〜 1792/10/20、オホーツクの港から大黒屋光太夫が根室港に上陸・帰国 1807年、シャナの海戦が起る 1811年、ゴローニン事件が起る 1855年、日露和親条約 千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に国境が定められ るも、樺太は国境を定めることができず、日露混住の地とされる 1859年、ポサドニック号が太平洋に到着(オホーツクの港 ?) 1861年 3/13、ロシアの軍艦ポサドニック号艦長ビリリョフ中尉が浅茅湾の尾崎浦に投錨 3/14、ビリリョフ艦長が芋崎に無断で強行上陸し、兵舎の建設などを始める 5/13、ロシアがランチで浅茅湾の東海岸を調査中に、 佐賀藩の観光丸と天竜丸と英戦艦(British warship)1隻が来航 5/21、ロシア兵がランチで大船越海峡を不法通過しようとしたのを阻止するため、村人の先頭にたった 松村安五郎が銃で撃たれて殺害され、郷士2人を捕虜として拉致して軍艦に連行、内1人は自殺 さらにロシア軍は番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰艦 5/22、水兵100余人が大船越村で略奪をはたらく 5/23、穏便に解決しょうとしていた対馬藩が長崎奉行と江戸幕府へ知らせることになる 5/25、ロシア軍がランチで芋崎を再調査 6/14、幕府の小栗忠順外国奉行が到着 6/17、小栗奉行がビリリョフ艦長と会見 6/21、小栗奉行が第二回会見 6/25、小栗奉行が第三回会見 6/29、小栗奉行が対馬を出帆、江戸に向かう 7/03、藩主がビリリョフ艦長に謁見を許し、艦長が貢物を持って登城、藩主に謁見 租借を要求 8/13、イギリスのホープ提督が品川に来航 8/14、英国公使オールコックがホープ提督と、老中安藤信正、若年寄酒井忠ますと対馬事件を協議 (イギリス艦隊の圧力でロシア軍艦退去を提案、幕府が受け入れ) 8/16、ホープ提督が英国軍艦2隻を率いて品川を対馬に向け出帆 8/28、ホープ提督が対馬に到着、ロシア軍艦ポサドニック号ビリリョフ艦長に対馬からの退去を迫る その後、ホープ提督は沿海州オリガのロシア基地(Olga, Primorsky Krai)に出向き、交渉を行う 9/19、ロシアから戻ったホープ提督が対馬に到着 9/19、ポサドニック号が対馬を退去して、函館に向かう 9/末、オプリチニック号のアブレク艦長が対馬を退去しました。 その後、 リハチョーフ大佐はロシア艦隊の太平洋司令官から解任され、後任には、A・A・ポポフ少将が就任し、ロシア艦隊太平洋長官になりました。また、1863年にビリリョフ中尉はポサドニック号の艦長を退官するも、日本近海への航海の実績を認められて大佐に昇進しました。1875年(明治8)には特命全権大使の榎本武揚(183-1908)がサンクトペテルブルクで樺太・千島交換条約を締結して樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島(全ての千島列島)を日本が領有することになりました。 対馬に来航した各国の艦船:〜 ・ロシア帝国の軍艦 ・ポサドニック号:〜 コルベット帆走型機帆船11門艦 885屯 (Russian corvette Posadnik 11gun 885t, 1856) 艦長ビリリョフ中尉(Nicolai A Birilev)の指揮 ・オプリチニック号:〜 ロシア領事がポサドニック号艦長ビリリョフ中尉の説得に派遣で来航 (Oprichnik)アブレク艦長の指揮 ・イギリス帝国の軍艦 ・HMSエンカウンター号:〜 蒸気スクリュー式コルベット帆走型14門艦、1,934屯 (Steam-screw Corvette HMS Encounter 14gun 1,934t, 1846)225人乗組 1854年に長崎で日英和親条約が結ばれた時に来航した4隻の内の1隻 ・HMSリンドーブ号:〜 2等木造砲艦蒸気スクリュー式バーク帆走型4門艦、860屯 (HMS Ringdov 4gun 860t, 1856)80人乗組 東インド・中国艦隊配属で1860/4月に香港到着 ・日本の軍艦 ・咸臨丸:〜 12門の蒸気スクリュー式スクーナー型コルベット帆走艦、620屯 1857年にオランダから日本に到着 外国奉行の小栗忠順がポサドニック号との交渉に来島 ・観光丸:〜 1855年(安政2)長崎海軍伝習所練習艦としてオランダより江戸幕府へ贈呈された軍艦 江戸幕府初の木造蒸気外輪式帆船砲艦、旧名スームビング号(Soembing) 長さ29間(約52.7m)、幅5間(約9m)、150馬力、大砲6門、排水量400屯 当初は練習艦で、佐賀藩が譲受けた3本マストのバーク型外輪船 ・天竜丸(Denryu Maru):〜 ? 参考:〜
参考HP:〜 ・対馬の地図(芋崎は浅茅湾・吹崎の右の半島先端に有) ・浅茅湾の地図 ・対馬・浅茅湾の航空写真(大千切島付近、1977撮影) ・対馬・浅茅湾の写真(烏帽子岳展望所から撮影) ・対馬の場所地図 こちらで ・シャナの海戦(シャナ事件)、 ・ナガサキの海戦(フェートン号事件)をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/9/15 |