★イギリス |
グレゴリー・ブラックスランド 1813 ブルーマウンテン初横断 |
大航海物語★ |
ローソン、ウェントワース、ブラックスランド ヨーク山エディ・ロックからブルー・マウンテンを眺望 1813 ブルーマウンテン横断150年記念 1963 オーストラリア 1963/5/28 発行 |
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GRENADA イングランドからオーストラリアへ移住 18〜19世紀の英国帆船 グレナダ 1998/4/26 発行 |
オーストラリアの地図 アイルランド 1988/3/1 発行 (200%) |
AUSTRALIA
ブルーマウンテン、NSW スリー・シスターズの奇岩 オーストラリア 発行 |
イングランド生まれのグレゴリー・ブラックスランドは27才で家族と共にオーストラリアへ大航海して移住しました。シドニーへ着いて土地を取得し、牧畜業をはじめて成功し、植民地政府の圧政に抗議して自由移民の暴動に加わり、ラム酒反乱でブライ植民地知事を逮捕する反乱軍にも加担しました。反乱収束後に、再び土地取得を許されて、ワイン栽培事業に乗出し、ロンドンへ輸出してロンドン王立協会から金メダルを受賞しました。34才でブルーマウンテンの横断ルート探検に成功し、新たな肥沃な土地の開発に貢献しましたが、事業拡張の新たな土地取得で詐欺にあって多額の借金をつくり、それに追われシドニー近郷で自殺して74才で亡くなりました。なお、オーストラリアのワイン産業は21世紀の現在、世界第4位の輸出を誇っています。 |
グレゴリー・ブラックスランド (1778/6/17〜1853/1/1) Gregory Blaxland グレゴリー・ブラックスランドはイギリス・ケント州フォードウィッチ(Fordwich, Kent, England)でジョン・ブラックスランド(John Blaxland)の4番目の息子として生まれました。1799/7月(21才)にジョン・スパードン(John Spurdon)の娘エリザベス(Elizabeth)と結婚して、5人の息子と2人の娘をもうけました。ブラックスランドはクック船長の第1回探検航海に参加した自然科学者ジョセフ・バンクス卿(Sir Joseph Banks 1743-1820)と知己を得て、長兄のジョン(John 1769-1845)と共にその影響を大いに受けました。イングランド政府が新植民地での土地所有を囚人(convict)、召使い(servants)、自由移民(free passages)に認めると約束したので、ブラックスランドは、1805/9/1に妻と子供3人と、羊(sheep)、種(seed)、蜜蜂(bees)、道具類(tools)、食料雑貨類(groceries)、衣料品類(clothing)を持って自由移民として、囚人(convicts)117人を移送するウィリアム・ピット号(William Pitt)でイギリスを出帆し、オーストラリアへと大航海しました。 1806/4/11にシドニー植民地の居住地(Sydney settlement)に着くと持ち込んだものを売って大儲けして、80頭の牛(cattle)を買い、4000エーカー(1620万ku)の土地で40人の囚人使役人を雇って、牛肉経営に乗り出しました。まもなく、ウェントワース(D'Arcy Wentworth 1762-1827)から、£1500ポンドで450エーカー(182万ku)のブラッシュ農場(Brush Farm)を買いました。1807/4月に長兄のジョンがシドニーに着きました。1807/8月にキング総督が、1806/8/6にシドニーに着任していたブライ総督にブラックスランド兄弟は危険人物だと警告しました。ブライ総督は彼らのブジネスを非難しました。 1808/1月にニューサウスウェールズ軍団がラム酒反乱と呼ばれる反乱を起こし、ジョージ・ジョンストン少佐がブライ総督を逮捕しましたが、その反乱に自由移民で牧羊業者の一人として加わりました。ニューサウスウェールズ軍団による実質的な支配は、マックワイアー総督の到着した1809年まで続きました。 1809年にパターソン副総督はブラックスランドにエヴァン(Evan)で2000エーカー(809ha)の土地取得を許し、さらに2280エーカー(923ha)を許可しました。1812年にキング総督時代の500エーカー(202ha)をクック(Cooke)で認めました(計4780、1934ha)。1810年に新しい土地を求めて、ネピアン川(Nepean River)を探検しました。
1813:〜: 5/11、サウス・クリークを出発、ウェスターン川(Western River)とグロ−ズ川(River Grose)の 間に横たわるブルー・マウンテンを越える道を求めて、フォードのネピアン川 (Nepean(Hawkesbury) River、the ford)を渡ってエミュー島(Emu Island)へと向かい、 良質の牧草地に着いて宿営 5/12、グローズヘッド(Grose Head)で良質の水を蓄える大きなラグーン(lagoon)を発見 5/16、犬達2匹の小型カンガルーを襲って殺す、夜間にディンゴ(native dogs)が出現 5/17、グローズ川南方のカトゥーンバ(Katoomba)で凸凹の峡谷地帯に入る 5/18、バンクス山(Mount Banks、現:King George)の現:リンデン(Linden station)着 5/21、ウェントワース滝(Wentworth Falls)着、夜間に犬達が現地人を追い払う 5/22、バンクス山(Mt. Banks)着 5/25、茨の棘の多い藪道で穴熊の様に穴を掘るウォーンバット(wombat)の通った跡を見つける 5/26、下の谷あいに30人位の現地人家族が火を焚いているのを見る 5/27、ヨーク山(Mt. York)山麓に到達 5/28、ヨーク山のエディ・ロック(Eddy Rock)からブルーマウンテンを見渡す 頂上に登頂、そこから西の方に広大な沃野の土地が広がっているのを発見 5/29、頂上から下山、馬が弱ったので各自に荷を背負い、草(60-90cm)原地帯に着く 現地人の煙を見る、犬達がカンガルーを獲ったので久し振りに新鮮な肉を食す 5/30、広い峡谷で遠くのカンガルーを撃つ、夜間に霧が出て気温が下がり凍りついて驚く 5/31、ヨーク山の横断道を発見し、コックス川(Cox's River)を渡り、 美しい小川が流れる肥沃な土地に着く、槍をもった現地人に遭遇 6/02、ブラックスランド山(Mt Blaxland)頂上に到達 6/03、ヨ−ク山(Mt. York)山麓を踏破 6/06、ブラックスランド農場に帰着しました。 ▼その後 探検後の1814年に起こった大干ばつで、多くの自由移民の入植者が破産するという事態に立ち至りました。ブラックスランドは州政府の援助で、後の「オーストラリア農業会社」”Australian Agricultural Co”(1824年にイギリス東インド会社の肝いりで1,000,000エーカー(4,047a)の土地で設立され、2008/8月現在:500人で24ヵ所の家畜基地と2ヵ所の育苗所を持ち565,000頭の肉牛を飼ってブリスベーンの証券取引所に上場)のような「大きい農業会社」による救済をマックワイアー総督に自由移民を代表して請願しましたが、許されず家畜を手放すことになり、1819年にはコミッショナーのビッギー(Commissioner John Thomas Bigge 1780-1843)へ政府批判の演説をぶちまけ、ついには植民地の反乱に加わりました。 1820年にブラッシュ農場(Brush Farm)を手放し、喜望峰からブドウ(vines)を移植し、枯れるのに抵抗力のある種を見つけ出しワインを生産して、ロンドに輸出するのに成功しました。1822年にロンドンにワインのサンプルを持参して、ロンドンの王立商工業芸術協会(Royal Society for the encouragement of Arts, Manufactures & Commerce)から銀メダルを受賞しました。
参考HP:〜 ・ブラックスランドの探検地図 ・ブルー・マウンテンズの場所地図(詳細) ・シドニーからカトゥーンバへの地図 ・グロ−ズ川の場所地図 ・ウェントワース滝の場所地図(Katoomba、Leuraの東にWentworth Falls有) (ブラックスランドからカトゥーンバへの詳細地図) ・NSWの鉄道地図 ・ブラックスランドの場所地図 ・ブラックスランドの地図 ・NSWブラックスランドの場所地図 ・NSWの行政区分地図(広域、Blaxland有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/4/10 |