★イギリス |
エドワード・ハーグレイブス 1851 オーストラリア最初の金脈発見者となる |
大航海物語★ |
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AUSTRALIA 金の露天掘り オーストラリア 1990/5/16 発行 |
GRENADA 18〜19世紀の英国帆船 グレナダ 1998/4/26 発行 |
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オーストラリアの地図 ノーザンテリトリー(北部準州) |
オーストラリアの地図 アイルランド 1988/3/1 発行 (200%) |
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ウェストオーストラリア→ |
サウスオーストラリア |
←クィーンズランド ←ニューサウスウェールス ←ヴィクトリア ←タスマニア |
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オーストラリア100年記念 オランダ 1988/8/30 発行 |
イングランド生まれのハーグレイヴスは14才で海に出て、16才でオーストラリアに渡りましたが、アメリカのゴールド・ラッシュを聞きつけて全財産を売り払って一攫千金を夢見て、33才で新大陸アメリカへ行きました。結果はうまくゆかず、逆に「オーストラリアにも金脈があるのでは?」という”噂”が広まったのを聞いて、35才でオーストラリアのシドニーに戻ってきました。仲間と共に金脈を探していて、34才(1851)で、遂に待望の金脈を見つけて「オーストラリア最初の金発見者」となってニューサウスウウェールス政府から賞金を獲得しました。その後にイギリスに渡航して滞在し、ヴィクトリア女王を拝謁する栄誉を受け、オーストラリアに戻ってからはさらに土地調査をしながら、シドニー郊外に土地を得て、75才でシドニーで亡くなりました。 |
エドワード・ハモンド・ハーグレイヴス (1816/10/5〜1891/10/29) Edward Hammond Hargraves エドワード・ハーグレイヴスはイギリス・ハンプシャー州のゴスポート(Gosport, Hampshire, England)で、海軍大尉ジョン・ハーグレイヴス(Lieutenant John Edward Hargraves)とエリザベス(Elizabeth, nee Whitcombe)夫妻の3男として生まれ、レウィス(Lewes England)のブライトン学校(Brighton Grammar School)で学び、14才で海に出ました。 1832年にオーストラリアに渡り、シドニー(Sydney)に上陸しました。バサースト近くで土地を得たり、トレス海峡で海亀の甲羅(beche-de-mer and tortoise shell)採りなどして働きしました。1834年にウォロンゴロ(Wollongong)近くで0.4ku(100acre)の土地を取得。1836年20才の時にシドニーでエリザベス嬢(Elizabeth, nee Mackay)と結婚。1839年にイースト・ゴスフォード(East Gosford)でジェネラル蒸気船会社(General Steam Navigation Co)の代理店(agent)になりました。エリザベス夫人の持参金とヒルホテル(Hill Hotel)の後援でザ・フォックス(the Fox)を設立しましたが、1843年に資産を喪失し、妻を残して有望な土地を探し求め、ポート・マックワイアー(Port Macquarie, NSW)近くのマンニング川(Manning River)で土地を取得しました。 1849/7/17に全てを売り払ってオーストラリアを出帆し、アメリカのゴールド・ラッシュで沸くカリフォルニアに渡りましたが、金鉱は見つからず、「オーストラリアにも金脈があるのでは?」という”噂”が広まったのを聞いて、1851/1月にオーストラリアのシドニーに戻ってきました。ハーグレーヴスは「カリフォルニアに似た地形のニューサウスウェールス(NSW)のマックワイアー川渓谷(Macquarie Rever Valley)には無尽蔵に金が埋まっているだろう」と吹聴して探していたところ、シドニー北西部のマックワイアー川渓谷で、本当に砂金(Gold nugget)を発見しました。それがオーストラリアのゴールドラッシュのきっかけになったといわれています。 それは、ハーグレイヴスがNSW政府が「有望な金脈を探し当てたものには賞金を出す」と言っているということを聞きつけて、リスター(John Lister)とトム兄弟(Tom Brothers、William・James・Henry、sons of William Tom 1791-1883)と共にシドニーの西北西約260kmのバサースト近郷ルイス・ポンズ・クリークで金脈を発見しました。そこはオレンジ町(Town of Orange)の北東のマックワイアー川渓谷で、ハーグレーヴスがオゥフィァ(Ophir)と名付けた所でした。1851/2/12にリスターがウェリントン(Wellington)地区のガヨン(Guyong)で有望な金(金の塊(speck)5つ)を発見しました。ハーグレーヴスとリスターとトム兄弟は金脈探しを続行し、ハーグレイヴスは米国と同じ「木製の選別機」(wooden cradle)の使い方を教え、採算のとれる砂金(Gold nugget)を、サマーヒル・クリーク(Summer Hill Creek)とルイス・ポンズ・クリーク(Lewis Ponds Creek)が合流している所で掘り当て、そこをハーグレーヴスがオゥフィァ(Ophir)と名付けました。 ハーグレーヴスは3月にシドニーに戻り、政府要人トムソン(Sir Edward Deas Thomson, 1800-1879)に会い、ハーグレーヴスがNSW政府から「最初の金脈発見者」として、£10,500ポンド($1,125,434、2004年換算)の賞金を支給してもらい、1877年からは年£250の生涯年金(annual pension)を受給しました。トム兄弟(Tom brothers)の噂が広まり、ハーグレイヴスも地元新聞に寄稿し、それが地元のシドニーモーニングヘラルド新聞(Sydney Morning Herald)に掲載されると、それを聞きつけた人々が大挙して押し寄せ、1851/5/15から300人以上の金鉱堀りがオフィアーに殺到してきたのを切っかけに、アメリカ・カリフォルニアに次ぐゴールドラッシュがオーストラリアで起こりました。
参考:〜 ・ザ・エントランス The Entrance、NSW ザ・エントランスはNSW中東部、シドニー北99km、ニューカッスル南の海岸部にある人口:2,632人(2006)。この地域はトゥーワン、タゲラ・ビーチ(Tuggerah Beach)、カラギなどと呼ばれましたが、タゲラ湖(Tuggerah Lake)が太平洋に注ぐ細い入り口となっていることから、ザ・エントランスの名で呼ばれるようになりました。白人の入植以前はクリンガイのアボリジナルの居住地でした。最初の入植は1828年にピクニック・ポイントから始り、ゴールドラッシュ後、中国人の漁師が定着。1895年にゲスト・ハウスがオープンしてから、1920年代までは道路事情が悪かったにもかかわらず、観光地として発展。1911年に郵便局が設置され、その名がザ・エントランスとされたことから、現在の名が普及するようになりました。1914年に海岸部が政府に収用され、1915年にはパブリック・スクールが建設され、1934年にエントランス海峡にかかる橋が完成。1960年代以降、観光地やリゾートとして、また退職後の生活の場として急速に発展。観光客にとっての最大の魅力は、午後3時ころに行われるペリカンの餌付けで、100羽以上のペリカンが集まります。オーストラリアの東岸ではよくペリカンを見かけますが、これほど多くのペリカンを1度に見られる場所は多くはなく、午後3時前に着くのが良く、服が汚れるのが気になるなら、あまり餌付けの場所に近づき過ぎない方がよいようです。 参考HP:〜 ・イギリスの地域(州)区分地図(詳細) ・イングランドの区分地図(詳細) ・ハンプシャー州の場所地図 ・NSWの区分地図(黒色:シドニー、黄色:バサースト) ・バサーストの場所地図(道路地図、シドニー有) ・ゴスフォードの場所地図 ・イースト・ゴスフォードの場所地図 ・ニューカッスルの場所地図(道路地図) ・ザ・エントランスの場所地図(エントランスはニューカッスルとシドニーの中間に有) ・アデレードの場所地図(日本語) ・オゥフィァの場所地図 ・オレンジの場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/7/7 |