Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(1-7)
ルイス・ド・サンタンヘル 1492 コロンブスの第1回航海、資金面で援助 |
大航海物語 スペイン編★ |
マラベ | ラ金貨 |
SIERA LEONE ニーニャ号 |
サンタンヘル大臣 |
Maravedis Nina Santangel Luis de Santangel、Fundraser 1448-1498 コロンブスの新大陸発見 500年 記念 シェラレオーネ 1992 発行 (200%) |
イサベラ女王に対するコロンブスの提案はタラベーラ委員会が1492/1月に否決し、コロンブスはフランスへと旅立ちました。サンタンヘル大臣が女王に資金を工面するので、コロンブスの提案を受け入れてはどうかと進言し、女王はこれを聞き入れ、コロンブスを呼び戻しました。こうして、コロンブスの大航海が実現しました。 |
ルイス・ド・サンタンヘル財務大臣 Luis de antangel (1448〜1498) サンタンヘル財務大臣は1448年に生まれ、ユダヤ教の洗礼を受けました。1492年当時はアラゴン王国々王フェルナンド2世(Ferdinand II)の財務大臣(Finance Minister、Fundraser)をしていました。 コロンブスがスペイン・アンダルシア州コルドバでイサベラ女王夫妻に初めて謁見し、「西回りでアジアに行くこと」を提案したのが1486/4/28でした。アラゴン王国々王フェルナンド王の態度は冷淡なものでしたが、カスティリア王国々王イサベラ女王は興味を示し、委員会に諮問することになりました。タラベーラ神父の主宰する委員会は1486年秋と1487年春に審議しました。否定的な意見が多かったのですが、コロンブスに好意的な、タラベーラとドミニコ会士ディエゴ・デ・デサが結論を出すのを引き延ばしました。その頃のスペインは「レコンキスタ」というイスラム教徒から祖国を取り戻そうという戦争の真っ最中でした。 バルトロメ・コロンは、1488年イサベラ女王のカスティリャ王国の援助が難しくなってきたことを察知して、兄コロンブスにイギリスのヘンリー7世とフランスのシャルル8世のもとへも同様の提案(西回りでアジアに行くこと)をすることを申し出て、フランスへと旅立ちました。1490年になって、イサベラ女王の諮問委員会である「タラベーラ委員会」がコロンブスの計画を否決したので、コロンブスは1491年の夏ラ・ラビダ修道院を訪れ、フワン・ペレス神父に預けていた息子ディエゴを引き取り、フランスのシャルル8世のもとへ援助を求めに行くことを告げました。フワン・ペレス神父はコロンブスに考え直すよう説得し、女王へ再度の謁見を求めました。1491年イサベラ女王はフワン・ペレス神父にコロンブスを慰留することを求め、若干の支度金を送りました。そして同年秋にイスラム軍と対戦中のサンタ・フェの野戦陣地で再度コロンブスを謁見し、彼の計画を改めて審議に付しました。1492/1/2アンダルシア州グラナダ県(Granada, Andalusia)のグラナダ城(Granada Castle)が陥落してレコンキスタが終了したので、イサベラ女王夫妻は同日グラナダ入城式典を執り行いました。 その後、委員会が再び「コロンブスの計画」に対して否定的な結論を出したことを国王夫妻がロンブスに告げたので、コロンブスはグラナダを発ちフランスへ向いました。 ところが、アラゴン王国の財務大臣サンタンヘルがイサベラ女王にあって、「この計画の費用は、この航海で得られるであろうものに比べると少なく、費用は自分が都合できる」ことを女王に言上したので、女王は考えをかえて、夫君フェルナンド王の同意を得て、コロンブスの提案を実施する事を決定しました。イサベル女王は100万マラベティ(maravedis $70万)を援助するので、コロンブスを呼び戻すように命じました。 女王急使がコロンブスを追いかけ、グラナダ県ピノス・プエンテの村(Pinos Puente, Granada)で追いついたので、コロンブスはグラナダへと引き返してきました。1492/4/17コロンブスはグラナダ県サンタ・フェ(Santa Fe, Granada)でスペイン国王夫妻に謁見して「サンタ・フェの協約」を締結しました。それは『コロンブスを新しく発見される島々、大陸の提督とし、副王兼総督にする。これらの職・特権はその子孫に継承される。これらの地で取得する、金・銀・真珠・香料その他の産物の10分の1をコロンブスの免税所得とする。コロンブスが航海の費用の8分の1を負担するときは利益の8分の1をコロンブスに与える』との協定でした。 こうして、コロンブスはアンダルシア州バロスでピンソン三兄弟の協力を得て航海の準備を進めた後に、1492/8/3パロス港をサンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の船隊、90人で、インディアス・カタイ・ジパンゴ(インド・中国・日本)に向け出帆しました。 その後、サンタンヘル一家はスペイン異端審問(Spanish Inquisition)によって宗教裁判に呼び出されましたが、フェルナンド2世の1497/5/30の勅許で保護されました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2008/2/28、令和6年 2024/8/24 |