切手で綴る 大航海の物語 ノールウェイ編 |
大航海物語★ | |
|
NORGE スヴェルドラップ船長の北極探検 ノールウェイ 2004/3/26 発行 |
ノールウェイの事情と大航海。 ノールウェイは、9世紀から11世紀までのヴァイキング時代が国家形成の統一運動及び拡大の元となっていましたが、ペスト(黒死病)などによりノルウェー王家が1387年に途絶えたので、デンマーク支配下となり、1450年より条約で従属化され、1536年には正式に独立を失っていました。 その頃、起こったのが「大北方戦争」で、ロシア帝国(ピョートル1世)とスウェーデン(カール12世)を中心に戦われ、ノールウェイは当初スェーデン軍の中で闘ったのでした。ロシア帝国はデンマーク-ノルウェーそしてザクセン-ポーランド(1715年以降はプロイセンとハノーファーがこれに参加)との同盟諸国連合を結成しました。これに対して、スウェーデンは、後にオスマン帝国とウクライナ・コサックが参加して連合しました。 ・大北方戦争 Great Northern War、1700〜1721 ・ハンゲの海戦 Slaget vid Hango、1712/7/27 ・ポルタヴァの会戦 Battle of Poltava、1709/6/28:〜 ポルタヴァの戦いは、1709/6/28(新暦7/8)、東ウクライナのポルタヴァで戦われたロシア帝国とスウェーデン王国の大北方戦争における最大の戦い。カール・レーンスケルド伯爵(Count Carl Gustav Rehnskiold 1651-1722)率いるスウェーデン軍と、ピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、ロシア軍が勝利。この戦闘の後、スウェーデンは軍事的優位を喪失。大戦争の行方を決した会戦で、カール12世(カール12世(Karl XII, 1682-1718)は負傷のために直接指揮を執っておらず、これが敗因の一つになったとされており、スウェーデン軍にはウクライナ・コサックのイヴァーン・マゼーパ(Ivan Stepanovych Mazepa 1639-1709)も参加していた。 1700年、ロシアとその同盟国によるスウェーデン攻撃によって大北方戦争が開始された。ピョートル1世はみずから40,000人の軍を率いてスウェーデン領に侵入し、ナルヴァ要塞を包囲した。これに対しスウェーデン王カール12世は、ロシア軍の半分に満たない軍勢で解囲に向かい、ナルヴァの戦いでロシア軍を破った。大損害を出したロシアはスウェーデンから撤退することを余儀なくされた。その後、カール12世はロシアの同盟国であるポーランドへ侵攻、1706年に和平条約を結び、ポーランドを同盟から離脱させることに成功した。デンマークを撃退し、ポーランドも傀儡国家にしたカール12世の残る強敵は、ロシアただ一国であった。この間にピョートル1世は失った戦力の回復に努め、軍の近代化を図ると共に、徴兵制も導入した。その成果が表れはじめた1708年にスウェーデンはロシア本土へと侵攻した。ロシアは万全な体勢を取り、さらに焦土作戦を展開した。おりしも冬将軍がロシアを後押し、スウェーデンは補給を絶たれた上に、大寒波によって多数の凍死者を出す損害を被り、さらに同年9月にスウェーデン別働隊が、レスナーヤの戦いでロシア軍に損害を受けた。それでもカール12世は進軍を止めなかった。1709年6月にスウェーデン軍はヴォルスクラ川沿いの要衝ポルタヴァを包囲。包囲戦の最中の6月17日にカール12世は狙撃兵によって足を負傷し、カール・グスタフ・レーンスケルドに指揮権を委託。その後まもなくピョートル1世率いる42,000から45,000人前後の兵力と72門の砲を装備したロシアの援軍が到着、スウェーデン軍を逆に包囲した。圧倒的な兵力の劣勢から、カール12世は敵包囲軍を撃破して、北方へ突破することを決意。この時点で、スウェーデン軍は著しい凍死者によって20,000人余りに減少しており、さらにポルタヴァから出撃するロシア軍を牽制するために軍の一部を割かねばならず、攻撃に使用できる兵力は17,000人ほどだった。両軍が激突後、ロシア軍が勝利。 カール12世とマゼーパは敗残兵に紛れて南へ逃れ、ついにはオスマン帝国へと逃れた。直接の戦闘と一連の追撃によって生じたスウェーデン軍の損失は甚大なものであった。戦死者5,000人以上、生き残った15,000人と援軍6,000人は降伏し、シベリアへと送られた。生きてスウェーデンに帰国できた者はわずかに5,000人と伝えられている。この戦闘は、大北方戦争におけるターニングポイントとなった。この戦いの後、デンマークが戦線に復帰し、ポーランドでは、廃位されたアウグスト2世が復位する。そしてバルト地方は、1年足らずでロシアに帰した。
・ガーデブッシュの戦い Battle of Gadebusch、1712/12/9:〜 ガーデブッシュの戦いは大北方戦争の中期に、スウェーデンのマグヌス・ステンボック将軍と、ザクセン選帝侯アウグスト2世及びデンマーク王フレゼリク4世(ザクセン・デンマーク連合軍)との間で戦われた戦闘で、ドイツ(神聖ローマ帝国)、メクレンブルク公領のガーデブッシュの森で行われた戦い。スウェーデン軍が勝利した。大北方戦争で、1709年のポルタヴァの戦いにおけるスウェーデンの敗北以後、苦戦を強いられていたスウェーデンの底力を周辺諸国に見せつけ、「スウェーデン、侮り難し」の印象を植え付けた。
参考HP:〜 ・バルト帝国の地図(1650年代最盛期のバルト帝国の版図) ・スウェーデンの地図(日本語、現在) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/6/27追記、14/6/6 |