Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガルのインド副王(6-3)
コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザ船長 1558〜1561 インド副王 |
大航海物語 ポルトガル編★ |
ESTADO da INDIA ブラガンザ副王 ポ領インド 1956/3/24 発行 |
MOZAMBIQUE ポルトガル・ナオ船、1520 ポ領モザンビーグ 1963/12/1 発行 |
SULTANATE of OMAN インド洋の地図 オマーン 1981/11/23 発行 |
ESTADO da INDIA ダマンの地図 ポ領インド 1956/3/24 発行 |
ポルトガル貴族出身のブラガンザ船長は19才で国王の慶祝大使としてフランスに渡航し、30才でインド副王となって、インドのゴアへ大航海後、現地サルタンからダマンを割譲させました。1560年にはセイロン島へ遠征軍を送り、マンナール諸島を占領しました。インドでの任期が終ると、ポルトガルに帰国し、1562年にカーボベルデ諸島の総督としてサント・アンタン島へ大航海しました。その後、ポルトガルに帰国して亡くなりました。 |
ドン・コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザ (1528〜1575) Don Constantino de Braganca (インド副王在任:1558/9/8〜1561/9) ブラガンザ船長はブラガンザ公爵ジャイム(Jaime, Duke of Braganza, 1479-1532)の後妻の子供として、ポルトガルで生まれました。19才の時にポルトガル国王ジョアン3世から、フランス国王アンリ2世(Henry II 1519-1559)の子供の洗礼式に慶祝大使として列席することを命ぜら、フランスに渡航しました。なお、ブラガンサ公フェルナンド2世(Fernando II 1430?1483、マヌエル1世の姉イザベルの夫)は、1483年にポルトガル国土の3分の1を支配し権力をほしいままにしていた上、カスティーリャ王国と内通しており、ジョアン2世の中央集権国家建設に反しているとして、フェルナンド2世を処刑して滅しぼした。ブラガンザ船長はその遠縁でした。 ブラガンザ船長の大冒険:〜 ・1547年(19才)〜慶祝大使でフランスに渡航 ・1558年(30才)〜インド副王でゴアへ大航海、ダマンの割譲 ・1560年(32才)〜マンナール諸島の占領 ・1561年(33才)〜リスボン帰国 ・1562年(34才)〜カーボベルデ諸島の総督 ・1575年(47才)〜ポルトガルで没 ジョアン3世が亡くなると、その孫のセバスティアン1世が3才で王位を継承したので、ジョアン3世の未亡人カタリナ・デ・アウストリア(Catalina de Austria, 1507-1578)が摂政に就任しました。なお、セバスティアン1世は1567年、南アメリカで、ポルトガル軍は砦を築いていたフランス軍を撃退し、リオ・デ・ジャネイロQを占領。1570年にはアンゴラの植民地化を開始。インド、アフリカ、ブラジルの植民地拡大が進み、ジョアン3世が放棄したモロッコの要塞の再征服を夢見て、1578/8/4にモロッコの(1572)アルカセル・キビールの戦い(Battle of Alcacer-Quibir、ルイス・デ・アタイデ船長が従軍)でポルトガル軍は惨敗、セバスティアン1世は21才で戦死し、ジョアン3世の弟で大叔父の大司教エンリケ枢機卿の摂政がエンリケ1世として王位を継承しました。 1558年にアウストリア摂政がブラガンザ船長をインド副王(20th Governor & 7th Viceroy)に任命したので、1558/4/7にポルトガルのテージョ河々口のリスボンを出帆。9/2にインドのゴアに到着。ブラガンザ副王はダマンとセイロン島への支配に力を注ぎました。 1558年にブラガンザ副王はゴアからダマンへ遠征軍を送り、クジャラートのサルタン(Gujarat Sultanate)からダマンが正式に割譲されました。 1560年にブラガンザ副王はセイロン島北部のジャフナ王国(Jaffna kingdom, 1215-1619)を攻撃するも、激しい抵抗にあって占領は出来ませんでしたが、インドとセイロン島の間のパーク海峡のマンナール諸島(Mannar Island)を占領して、海峡の制海権を奪取しました。 なお、ジャフナ王国は1619年にポルトガルの再度の攻撃を受け、一隊はパーク海峡から攻め込み、もう一隊5000人は陸上からジャフナ王国を攻撃し、1619/6月にカンキリ2世王(Cankili II 1619没)が降伏したので捕え、ゴアで絞首刑にして、王国が征服されました。 ブラガンザ副王のインドでの業績は、ルイス・デ・カモンイスが抒情詩”ウス・ルジ−アダス”で高らかに歌いあげました。1561年にリスボンに戻り、1562年にカーボベルデ諸島の総督になり、サント・アンタン島のリベイラ・グランデ(Ribeira Grande, Santo Antao,Cape Verde)に1562/12/22に着任しました。カーボベルデ諸島の任期が終わるとポルトガルに帰国、47才で一人寂しく亡くなりました。 参考HP:〜 ・ダマンとディウの場所地図(広域) ・ダマンとディウの場所地図 ・ダマンの地図 (DADRA、NAGAR HARVELI 有) ・インドの地図 (日本語) ・パーク海峡とマンナール諸島の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/10/16、令和6年 2024/7/24 |