United Kingdom ![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの冒険大航海(Great Adventure Voyagee)オーストラリア(VIII-8)
ジョン・オックスレイ艦長
ラクラン河探検 マックワイアー河探検 ポートカーティス探検 |
大航海物語 オーストラリア編★ |
| AUSTRALIA ジョン・オックスレイ艦長 ![]() オーストラリア 1976/6/9 発行 |
| St.Helena 18〜19世紀の英国スループ帆船パーパス号 ![]() セントヘレナ 1998/8/25 発行 |
AUSTRALIA オーストラリアの川 ![]() 図案はマランビジー川 オーストラリア 2000 発行 |
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| EIRE オーストラリアの地図 |
NEDERLAND オーストラリアの地図 ノーザンテリトリー(北部準州) |
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ウェストオ | ストラリア州 |
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←クィーンズランド州 ←ニューサウスウェールス州 ←タスマニア島州 |
| アイルランド 1988/3/1 発行 | サウスオーストラリア州・ヴィクトリア州 オランダ 1988 発行 |
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イングランド生まれのジョン・オックスレイは15才でイギリス海軍に入隊し、18才でオーストラリアに航海して植民地の測量官となってウェスターン・ポートを探検調査した後、27才で海軍を除隊するまでオーストラリアにかかわり、ラム酒の反乱ではブライ総督のタスマニア行き乗船に艦長で乗組んでおり、その後の軍法会議ではロンドンで証言しました。除隊後はオーストラリアで、ラクラン河探検、マックワイアー河探検をなし、ポート・カーティス探検では、後のブリスベーンの建設に貢献し、オーストラリアで大牧場を獲得しましたが、43才で病に倒れて亡くなりました。 |
| ジョン・ジョセフ・ウィリアム・モールスワース・オックスレイ John Joseph William Molesworth Oxley (1784/7/6〜1828/5/26) オックスレイ艦長はイギリス・ヨークシャー州ウェストウ(Westow, #1D38)近郷のカーカム・アビー(Kirkham Abbey)でアイルランドのモールズワース子爵(Irish Viscount Molesworth)ジョン(John Oxley)とイサベラ(Isabella)夫妻の長男として誕生。1784/7/6に洗礼を受けました。1799年に15才で大英帝国海軍に入隊。少尉候補生(midshipman)でヴェネラブル号(HMS Venerable)に乗組みました。18才になると航海士(master's mate)になって補給艦バッファロー号(HMS Buffalo, 12gn storeship)に転属し、オーストラリアへと出帆。1802/10にオーストラリアに着き、植民地測量官(Surveyor-General)に指名され、海岸線の調査とメルボルン南東に有るウェスターン・ポート湾(Western Port Bay VIQ)への探検に1804〜05年の間を従事しました。1805年にキング総督がバッファロー号の先任士官中尉(acting lieutenant)に指名し、1806年には元スペイン船エストラミナ号(HMS Estramina、12gn Spanish schooner)を指揮してタスマニア(Van Diemen's Land)へ航海しました。 1807年にイギリスに帰国し、1807/1/25に海軍大尉に昇進しました。1808/11にシドニーに戻り、パーパス号の先任士官で乗組みました。囚人輸送船スペック号(convict ship Speke)に投資金額£800の商品を積んで交易して儲けました。NSW植民地政府からシドニー南約100 kmにあるネピアン川(Nepean River 178km, NSW)近郷に約243万ku(600エーカー)の土地分与を受けました。パターソン副総督は約405万ku(1000エーカー)の土地を分与してくれました。1810年にそれらの土地を放棄させられましたが、マックワイアー総督がカムデン(Camden、NSW)に約243万ku(600acres)の土地を分与したので、牧羊業を続けました。1815年には再び約405万ku(1,000acres)に増加して、そこをカーカム(Kirkham, NSW)と呼びました。パーパス号に乗組み中に艦長となり、1809/3月に、ラム酒の反乱(1808/1/26)で拘束されていたブライ総督がシドニーを去ること許されると、オックスレイ艦長が指揮したパーパス号にブライ総督が乗客として乗船し、シドニーからタスマニア島ホバートのダーウェント(Derwent、Hobart)へ航海しました。1810年にそこでタスマニアに関する長い報告書をロンドンに送り、1810/5にパーパス号でイギリスに航海しました。ロンドンではブライ総督の軍法会議で証言しました。1811年に海軍を除隊。1812/5月にミンストレル号(Minstrel)でシドニーへ戻りました。 オックスレイ艦長はマックワイアー総督政権時代(在任1810/1/1〜1821/12/1)に探検調査の要請を受けました。まずは、1815年にエヴァンス助手(George Evans)がバサーストの南西でラクラン河を発見して肥沃な土地があったと報告していたので、1817/3月にマックワイアー総督がその川が海か、それとも内陸湖に流入しているかどうかの探検調査を命じました。 ・ラクラン河探検 (Expedition of Lachlan River, 1450km, NSW) 1817年
・マックワイアー河探検 (Expedition of Macquarie River 960km, NSW) 1818年
・ポート・カーティス探検 (Expedition to Port Curtis, QLD、ブリスベーンの建設に貢献 1823) オックスレーの海軍での経験は、内陸部の探検以上に海岸線の探査に役立ちました。 1819年
1820年に「2つのNSW内陸部探検記」(Journals of Two Expeditions Into the Interior of New South Wales)を執筆、ロンドンで発刊され、後年のミッチェル少佐の探検(1831年)に貢献しました。1821/10/31にエマ(Emma Norton、1798-1885)と聖フィリップス教会(St Philip's Church)で結婚して、2人の息子ジョン(John 1824)とヘンリー(Henry 1826)が生れ、2人の娘シャーロッテ(Charlotte Thorpe)とエリザベス(Elizabeth Marnon)が生れました。一時銀行(Bank of New South Wales)の役員になりました。1824年にNSW議会(the original New South Wales Legislative Council)議員になりましたが、1825年に議会再編成されました。1828年に43才で病に倒れてカーカムで亡くなり、シドニーの墓地(Devonshire Street cemetery)に埋葬されました。 ・パーパス号の装備:〜 HMS Porpoise、1799
参考HP:〜 ・イギリスの州区分地図(Countries of Great Britain) ・ジョン・オックスレイの探検地図(1877年、1878年) ・フレンチ島の地図 (メルボルン南東のウェスターン・ポート湾の中にフレンチ島有) ・NSWの道路地図(Sidney、Newcastle、Bathurst、Dubbo、Tamworth有) ・ポート・マックワイアーの場所地図(Sydney〜Brisbane間の海岸線) ・ジャーヴィス湾の場所地図 ・モートン湾の場所地図 ・ブリスベーン川の場所地図(川とモートン湾の地図) ・マーレー・ダーリング湿地帯付近の場所地図(メルボルン〜アデレード、両河の水域図) ・エーア湖湿地帯の地図(マレーダーリング水系の地図) ・NSWシドニー盆地の地図(Cambela, Sydney, Newcastle, Buthurst有) (Botany Bay, Jervis bay, Hawkesbury River, Grose river, Hunter river, Blue Mountains-Plateau有) ・ネピアン川の流域地図(Google Map. シドニー付近の詳細有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/6/6、令和7年 2025/12/27 |
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