★ロシア |
グレゴリー・ブタコフ提督
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大航海物語★ |
ブタコフ提督 ソ連 1989/12/28 発行 |
ANTIGUA 外輪式蒸気帆船 アンチグア 1970 発行 |
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ROYADUME DU CAMBODGE 19世紀の外輪式蒸気帆船の戦艦 カンボジア 2001/4/20 発行 |
REPUBLIQUE DE GUINEE 19世紀のプロペラ式帆船の鉄甲戦艦 ギニア 2001/4/20 発行 |
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古代の戦艦アルゴノート号 | クリミヤ半島 (セバストポール) |
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ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
corner label |
イ オ ニ ア 海 |
黒 海 ←シノープ |
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ギリシャ エーゲ海 トルコ(小アジア半島) | |||||
(Jason & Argonaut) ジョージア 1998/6/23 発行 小型シートより | |||||
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ボスニア湾 バルト海、フィンランド湾、エストニア国、チュド湖 |
フィンランド | ||
スウェ|デン | ラドガ湖 |
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←サンクトペテルブルグ クロンシュタット |
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ロシア | |||
フィランド 1985/10/15 発行 (古地図の小型組合せシート) |
ブタコフ提督はクリミヤ戦争中のセヴァストポールの戦いで、ロシア帝国の最新式蒸気式戦艦の艦長となり、押し寄せる英仏土連合艦隊と海上で戦い抜き、セバストポール軍港の閉塞作戦後は陸兵となって戦いましたが、衆寡敵せず敗戦の憂き目にあいました。 戦後はフィンランド湾のバルチック艦隊に戻り、クロンスタット軍港でバルチック装甲艦隊司令官に就任、ロシア帝国艦隊の近代化を推し進め、帆船の時代は終わりを告げることとなりました。 |
グレゴリー・イワノヴィッチ・ブタコフ提督 (1820/9/27〜1882/5/31) Admiral Grigory Ivanovich Butakov ブタコフ提督はツアー・コンスタンチン号(Tsar Constantine)の艦長だった父の息子として、サンクトペテルブルグ(St. Petersburg)で生まれました。幼少の頃ラザレフ帆船学校(Lazarev’s sailing school)で学び、17才で海軍兵学校(Naval Cadet School)を卒業しました。 1817、ロシア最初の蒸気式帆船戦艦スコロイ号(steamship Skory)が就航 1823、蒸気式帆船戦艦メテオル号(14-gun steamship Meteor)が就航 1831/5、ブタコフ提督が11才でサンクトペテルブルグ海軍学校入学。 1837、17才で海軍兵学校を卒業、少尉候補生となりバルチック艦隊の 司令長官ラザレフ提督麾下の旗艦シリストリア号(Silistria)に旗艦士官(flag-officer)で乗艦 1837〜60、バルチック艦隊でクリミヤ戦争(1853-56)に従軍、蒸気式帆船戦艦ウラジミール号 (Vladimir Steam Frigate)でトルコの蒸気式帆船戦艦パーヴェスバヒリ号(Pervaz-Bakhri)を拿捕 1838/5、黒海北岸のアブハジア(Abkhazia)上陸作戦に従軍 1838/秋〜1840/8、ラストチャッカ号(schooner Lastochka “Swallow”)でエーゲ海(Aegean)航海作戦 1843/8、23才海軍大尉(lieutenant)昇進、この頃にブタコフ大尉が新式霧中信号(fog signals)と巻上機 (Butakov’s windlass)を開発、ラザレフ提督が採用して海軍大臣官房にモデル・ルームを設置 1844、ヴェストニック号(schooner Vestnik “Herald”)で地中海航海作戦 1846/秋、プロシュペシュニィ号(cutter Pospeshny “Hasty”)艦長 1847/夏〜1850、同僚のショスタコフ艦長(I.A. Shestakov)のスコリー号(cutter Skory)で ラザレフ提督の特別作戦(黒海海岸の詳細な調査)に従事、結果を1851年に「黒海航海記」発刊 1849、コルニロフ提督が黒海艦隊参謀長(chief of staff)に就任 1850、30才海軍少佐(Lieutenant-Commander)に昇進。 1851、コルニロフ提督が黒海艦隊司令官(chief commander)に就任 1851、蒸気式外輪帆船戦艦ダニューブ号(steamship Danube)艦長、 短期間アルゴノート号(brig Argonaut)艦長 1852、コルニロフ提督が海軍中将(vice-admiral)に昇進して、事実上の黒海艦隊司令長官 1852、ナヒモフ提督が黒海艦隊総司令官に就任 1852/12/3、バルチック艦隊蒸気式外輪帆船戦艦ウラジミール号(11-gun steam-frigate Vladimir)艦長 1853/10、クリミア戦争が勃発 1853/11/5、コルニロフ提督の旗艦ウラジミール号がペンデラクリ(Penderakli)で、トルコ蒸気式戦艦 ペルファズ・バハリ号(19-gun steamship Pervaz-Bakhri)に遭遇、3時間におよぶ砲撃戦の末に ブタコフ艦長のウラジミール号が勝利。 1853/11/7、世界最初の蒸気式帆船戦艦の海戦に勝利して、海軍大佐(Captain Second Rank)に昇進、 5等サンクトゲオルグ勲章(Order of St. George of IV Degree)を受勲 1853/11/30、黒海でシノープの海戦が勃発、ロシア勝利 1854/10/17、セヴァストポール包囲攻撃が勃発、ブタコフ艦長は、ナヒモフ提督に陸上の砲台に配置換え 要請をするも将来の艦隊維持のためウラジミール号に留まるように命令され、海上支援攻撃に活躍 1854/10/25、コルニロフ提督がセヴァストポールのマラコフ丘の戦闘で重傷を負い、戦死 1855/3/07、セヴァストポールのカラマチャッツカ砦が砲撃され、イストミン提督が直撃を受けて戦死 1855/7/11、ナヒモフ提督が戦死して、セヴァストポールの聖ウラジミール大聖堂に ラザレフ提督、コルニロフ提督、イストミン提督とならんで埋葬される 1855/8/31夜、ノヴォニスキー提督(Admiral Novonilsky)の蒸気式帆船戦艦が撃沈され提督が戦死、 ブタコフ艦長は海軍少将に(Rear Admiral)に昇進、 ニコラエフとセバストポール(govner of Nikolayev & Sebastopol)の海軍総督に就任 1855/9/07、”マラコフ丘の戦い”(Battle of Malakoff)でフランス軍と闘い、ロシア軍が敗退 1855/9/11、英仏土連合軍の総攻撃でセバストポールが陥落 1860、バルチック艦隊のプロペラ式戦艦々隊(Propelled Ships Squadron)司令官となる 1861/春、プロペラ式砲艦々隊(Propelled Gunboat Squadron)司令官となり、 蒸気式タクチクス号(Steamboat Tactics)に坐上〜1863 1861〜1862、スクリュー式艦隊(screw boats squadron)司令官 1863、デミドフ勲章(Demidov Prize)受勲 1866/10/28、海軍中将(Vice-Admiral)に昇進 1867〜1877、バルチック鉄甲戦列艦隊(armoured ships squadron)参謀長となる 1867/02/06、バルチック装甲艦隊司令官(Baltic armoured ships squadron)となる 1869の秋、クロンシュタット海軍兵学校(Kronstadt)の学校長 1874/10/01、鉄鋼戦艦学校(Mining School for the Lower Ranks)を開校 1877、路土戦争(Russo-Turkish War of 1877-78)勃発、装甲艦隊(armoured squadron)司令官 1878/3、フィンランド湾(Gulf of Finland)の武装化を提案 1878/10/16、海軍大将(Admiral)、 セヴィアボルグ防衛(Sveaborg coast and sea defence)司令官 1881、サンクトペテルブルグ港の司令長官(Commander-in-Chief)に就任 1881、サンクトペテルブルグ港(Petersburg port)総司令官に就任 1882/3、州議会議員(State Council)に選出される 1882年にサンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)港総司令官に就任すると、鉄鋼戦艦学校で猛訓練を実施し始めましたが、病となり、それが段々と重症に陥り、やがて5/31にペテルブルグの病院で亡くなりました。62才でした。 参考HP:〜 サンクトペテルブルグの場所地図 サンクトペテルブルグとクロンシュタットの古地図(湾内の島にクロンシュタット軍港有) フィンランド湾の奥クロンシュタット湾の地図(島がコトリン島で湾奥の街がサンクトペテルブルク) 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/8/25 |