★ロシア |
シノープの海戦 Battle of Sinop 1853/11/30 |
大航海物語★ |
ロシア艦隊の攻撃で炎上するシノ | プの港と街 |
RUSSIA 黒海の”シノープの海戦”勝利150年記念 ロシア 2003/11/5 発行 |
ナヒモフ提督 |
古代の戦艦アルゴノート号 | クリミヤ半島 (セバストポール) |
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ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
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イ オ ニ ア 海 |
黒 海 ←シノープ |
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ギリシャ エーゲ海 トルコ(小アジア半島) | |||||
(Jason & Argonaut) ジョージア 1998/6/23 発行 小型シートより |
シノープの海戦 (1853/11/30) Battle of Sinop トルコ北部で黒海に北面するインジェ岬近くの軍港シノープ港が襲撃された海戦。 1853/11/30にセバストポール軍港を出撃した、ロシア帝国のパーヴェル・ナヒモフ提督騎下のロシア帝国海軍々艦11隻が、突然に黒海南岸インジェ岬近くの港湾都市シノープにあらわれ砲撃を開始しました。港に停泊中だったオスマン・トルコ帝国海軍々艦12隻が砲撃を受け、全艦が砲弾(爆裂弾、榴弾)を被弾し、11隻が爆発沈没しました。そして、流れ弾あるいは狙って打った砲弾が街を破壊しました。 その結果トルコ海軍はほぼ全滅し、海上に逃れた水兵たちも容赦なく打たれ、港湾施設や街も徹底的に破壊され、多くの住民が巻き添えを食って犠牲と成ったと言われています。これを伝え聞いたヨーロッパのマスコミは”シノープの虐殺”と報道しましたので、イギリスとフランスは海軍艦隊を黒海に派遣しました。 こうして、トルコ帝国とロシア帝国のクリミヤ戦争(1854-1856)が勃発し、英仏を巻き込んだ大戦へとなってゆきました。 また、クリミヤ戦争は極東への航海を目指していたロシア帝国エフィム・プチャーチン(Yevfimy Vasilyevich Putyatin、1803-1883)の航海にも多大な影響を与えました。当時、日露和親条約を結ぶため日本へ向かっていたプチャーチンが、イギリスのプリマス港に寄航、その時に英仏がロシアに宣戦布告していることを知り、プチャーチンはすぐに出航、セントヘレナ島、ケープタウン、セイロンなどを経て、中立国だったスペイン領マニラ港に到着。そこで運悪くフランス海軍と遭遇しましたが、急いで出港して難を逃れ、日本の長崎港に着き日露和親条約を締結して、ロシア本国に帰港しました。 なお主力艦は、トルコ艦隊は木造帆船で、ロシア艦隊は鉄製蒸気式帆船だったと伝えられています。
・オスマン・ヌリ・パシャ元帥(Field Marshal) (Osman Nuri Pasha 1832-1900) ・参考HP:〜シノープ港の場所地図 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/3/25 |