世界遺産 (ポンペイ島)
ナン・マトール遺跡
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ポンペイ島の巨石構造物 | |
ナン・ドワス宮殿の外城壁 Nan Taunas outer wall |
ナン・ドワスの墳墓 Nan Taunas burial vault |
ナン・ドワス中庭の水路 Nan Taunas inner court yard |
ナン・ドワスの神聖な石組み Land of Sacred Masonry |
・ナン・マトール遺跡 Ruin of Nan Madol (場所:ミクロネシア連邦ポンペイ島のテムエン島) 世界遺産:ユネスコの文化遺産(2016) (UNESCO World Heritage Site, Type:Cultural) ユネスコの危機遺産(2016) (UNESCO World Heritage in Danger) 正式名称:ナン・マトール遺跡 英:Nan Madol:Ceremonial Centre of Eastern Micronesia 仏:Les ruines de Nan Madol(ナンマドール危機遺産) 米国指定:アメリカ合衆国国家歴史登録財 (1974/12/19, National Register of Historic Places) ナン・マトール遺跡(Nan Madol)は、ミクロネシア連邦ポンペイ島(Pohnpei Island)のテムエン島(Temwen Island)海岸部にあり、建設は500年頃から始まったと言われ、最盛期は13〜15世紀に築かれた巨石構築物群です。ナン・マトールとは「天と地の間」という意味で、またナン・マタラニウムとも呼ばれ、主に建物と建物の間、すなわち「空間」を意味しています。 遺跡はジャングルの中にあって、ささやかな都市囲壁の門跡のような場所から始まり、徐々にジャングルがマングローブの湿地になり、石組みがそこかしこに点在し、マングローブの湿地がひらけ、海の水をひいた入り江のような場所に出ると、そこは水路のようなものがひかれています。そこにはひときわ大きな 巨石構造物があり、其処は水の中の都市 ともいえる不思議な場所で、総面積40uの92の人工島か らなり、伝承によると行政、儀礼、埋葬など、それぞれの島で機能分担していたと言われています。 その中のナン・ドワス(Nan Taunas)と呼ばれる宮殿は、シヤーウテール王朝(Saudeleur Dynasty, 1100-1628)最後の王シャウティモイ(Saudemwohl)の王墓であると伝えられるも、最近の調査で王墓ではなく、祈りを捧げた祭壇の場所だったとされました。この遺跡については現在でも謎が多く、不明な点が多い所です。 島には柱状の黒褐色玄武岩を縦横交互に積み重ねた囲壁が築かれていて、玄武岩は島の北部のジョカージ島(現在のソケース島)から主に運ばれたという説があるも、実際には島のさまざまな場所から運ばれたと考えられています。玄武岩は以前ポンペイ島が火山活動をしていたころ、マグマが地下深いところでゆっくり固まって形成されたものとされ、自然に五角形または六角形に割れるため加工しやすくなっています。これらの石柱はそれぞれ磁場を持っており、一本一本研究すればその石柱が島のどこから運ばれたのかが判明する可能性もあると言われています。 ・ムー大陸説 アメリカ合衆国に在住していたイギリス人ジェームズ・チャーチワード(James Churchward, 1851-1936)が、その著作「失われた大陸 ムー大陸」(Lost continent (Moo) Mu)で、ナン・マトールをムー大陸の1つの残骸だと解釈しました。なお、イースター島のモアイ像などもムー大陸の証拠とされています。 ・ポンペイ島の歴史 他の東カロリン諸島の島々と同様に、ポンペイ島の最も古い住人は、紀元前1000年頃にメラネシアから航海して移住した人々と考えられています。島の南東部マタラニウムにあるナン・マトール遺跡周辺では紀元前後の頃の居住跡が見つかっています。その後、紀元500年頃からナン・マトールが建造され始め、1000〜1600年頃まで同地でシャウテロール王朝が栄えました。 1528年、1529年の二度にわたり、スペインのサーベドラ船長がフロリダ号を率いて太平洋を横断する時に、この海域の北緯6度〜7度で島を目撃しており、これがポンペイ島またはその周囲の島に関するヨーロッパ人の最初の記録と考えられています。確実な記録は1595年のサン・ヘロニモ号によるスペインのキロス船長来訪で、彼は上陸しなかったもののポンペイ島に多数の住民が居住していることや、西隣のアンツ環礁についても記録しました。 1668年のスペインのグアム島占有施策開始の後も、スペインの実効的支配はポンペイをはじめ他の東カロリン諸島には及びませんでした。島はそれ以後もヨーロッパの航海者に何度か記録されるも、最初の上陸の記録は不明。19世紀初めからは、島は捕鯨船や商船の補給地として用いられ、数多くのヨーロッパ、アメリカの船が訪れ始めました。1830年代前半には年間5隻程度の来訪なるも、1855年には年間100隻を超えました。これらの来航は島民との間に摩擦を生じ、船員達がもたらした病気も深刻な影響を与え、天然痘は1840年代初頭から流行が始まり、1854年の流行では半年間に2,000〜3,000人の死者を出しました。1820年代には10,000人を超えていた島の人口は、1850年代後半には約2,000人まで減少。その後もインフルエンザ、はしかなどの流行が散発しました。 参考HP:〜 ・ナン・マトール遺跡(複合体図(Nan Madol complex)遺跡の配置図) ・ナン・マトール遺跡の写真 ・ポンペイ島の地図 ・ポンペイ島の地図(地域別、Madorenihmの東に Nan Madol 有) ・ポンペイ島の場所地図 こちらで世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・アンコールワット (カンボジア) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2016/8/9 |