★エジプト ファラオ・ネカウU世
紀元前600年頃
アフリカ大陸一周航海をフェニキア艦隊で達成
大航海物語★

UGANDA
ネカウ2世   フェニキアの戦艦

ウガンダ 1990 発行
LIBERIA POSTAGE
アフリカの地図

リベリア 昭和3年 1928 発行

ファラオ・ネカウII世は紀元600年ごろ、フェニキア人にアフリカ周航を命じました。フェニキア人は3年がかりで、アフリカ一周を達成しました。

ファラオ・ネカウ2世
 (Nekau U、在位・紀元前610年〜前595年)

ネカウ2世はエジプト第26王朝のファラオで、古代ギリシャ読みではネコ2世(Necho U)といい、プサムテク1世の子で、最後のエジプト人ファラオでした。

エジプト新王国の王、ファラオ・ネカウ2世は紀元600年頃、フェニキア人に命じてアフリカ大陸一周を達成しました。王の命を受けたフェニキア人は船隊を組んで、紅海から東回りで出帆しました。彼らはアフリカ大陸に沿って南下し、時計廻りに航海を続けました。秋になると到達地点の沿岸部に上陸して、そこで小麦の種を蒔き、収穫を待って再び出帆するということを繰り返しました。3年目には、とうとうジブラルタル海峡に到達しましたので、地中海に入り、エジプトに帰還したと伝えられています。

この大航海に関する記録は、古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(Herodotus 紀元前485年頃〜紀元前420年頃)の「歴史・巻4」にあるものが唯一だといわれています。それで今までに、真偽について多くの議論が戦わされてきました。現在では海流や季節風の状態からみて、その可能性は十分あったと考えられています。もしそうだとすれば、1488年のバーソロミュー・ディアスや1498年のヴァスコ・ダ・ガマが苦難の航海の末に踏破した大西洋とインド洋を結ぶアフリカ回りの航路も、彼らより2000年以上も前のフェニキア人やエジプト人はすでに知っていたのですね。

なお、ネカウ2世は滅亡寸前のアッシリアの残存政権を支援する遠征の途上、ようやくアッシリアの影響を排除してユダ王国の独立に成功していたヨシヤ王をメギドで敗死させ、エジプトのシリア・パレスティナ地方への覇権を回復しました。しかし、前605年アッシリアを滅ぼしてメソポタミアに覇権を唱えた新興の新バビロニアの初代王ナボポラッサルに差し向けられた王子ネブカドネザル(後のネブカドネザル2世)の軍にカルケミシュの戦いで敗退し、シリア・パレスティナ地方の覇権を奪われました。ただしこの戦の前後にナボポラッサルが没したためネブカドネザルの軍は帰国し、エジプト本国の蹂躙は免れました。アジア地区のエジプト旧領を、ネブカドネザルが「ユーフラテスからエジプトの小川に到るまで回復したため、アジアへの軍事的覇権伸張政策を放棄することを余儀なくされました。紀元前601年アシュカロンでバビロニアに対する叛乱が起こった時、エジプトに支援の申し入れがありましたが、エジプトは援軍を送らず、バビロニアに対して東の国境を防御するにとどまりました。こののち(敗戦後)はアジアへの領土的野心を捨てて貿易に力を入れ、またギリシア人との関係を強化しました。ナイル川から紅海まで運河を引こうとしましたが完成をみませんでした。そして、フェニキア人に命じてアフリカ大陸一周を達成したと伝えられています。

フェニキアのガレー船の装備
  Phoenician Ship
、(Galley)、BC600、(推定)
船 型 古代のガレー船型 ネカウ2世   フェニキアの戦艦

フェニキアのガレー船型
帆 柱 1本マスト、横帆1枚
全 長 15.8(52 feet)
全 幅 6.1m(20 feet)
重 量 ワイン12屯以上を積載
漕ぎ手 20人
進 水 BC600年
保 存 1979年に発見、保存、展示
発 掘 シチリアのマルサラ考古学博物館に、1979年に発見されたフェニキア船の船底の一部が展示、レバノンのイト杉製で、長さ35m、漕ぎ手40人。

・参考:〜
吉村作治さんは「エジプト博物館・アッシリアのエジプト支配」の中で、ネカウ2世のことを次のように言ってます(要約)…アッシリアというのは、今のシリアとイラクの北部ぐらいのところに勢力を持っていた国なのですが、これがエジプトに攻め込んできた。この時まだ南の勢力、ヌビアの勢力はいたんですが、そこでもうひとつ、ユダ王国というのが中に入って三つ巴というか、四つ巴で戦っていたのです。アッシリアにはアッシュールバニパルという王がいまして…略…エジプトに攻め込み、まず、メンフィスを落としてテーベに行った。ここでの大虐殺というのは古代エジプト3000年の歴史の中で最もすごかったといわれています。特に神官とか王族といったものは一人残らず…厳密には一人だけ、その後、エジプト傀儡政権を作ったネカウ1世という人だけを残して、あとはほとんど殺してしまった。……このひとり残ったネカウ1世が傀儡政権を立て、アッシリア自身も平定して、南のクシュの王だったタハルカ王を追い返したら、さっさと国に戻ってエジプトを間接統治していたんですね。ネカウ1世の息子で後継者のプサムテク1世の時代に間接支配は受けているんですが、エジプトはエジプトなりにやっていけるのではないか、ということになっていきます。 そこでネカウ1世とプサムテク1世、その次のネカウ2世といった人たちはエジプトの古い時代、ピラミッド時代の復興をタハルカ王の続きとしてやり始めるんです。アッシリアはエジプトの農産品、食料だけを狙ったのかなと思うほどあっさりとした攻撃だったのです。

参考HP:〜
 ・フェニキアの場所地図(BC550頃)
 ・フェニキアの大航海地図
 ・フェニキアのアフリカ一周航海地図(レプリカの大航海:2008/8-2009/5)
 ・フェニキアの大航海地図(日本語)


・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2007/3/25







フェニキア人の大航海
 Phoenician Peaples


LIBAN
地中海の航路地図
フェニキア人の交易路

レバノン 1966/9/25 発行


フェニキア人
 Phoenician

紀元前13世紀頃に歴史の舞台に登場したフェニキア人は優れた海洋民族で、そのめざましい海上貿易活動によってわずか数世紀の間に地中海を制覇。その活動範囲はアラビア、ペルシャ、インドからアフリカ東岸、さらに地中海を西に航海してジブラルタル海峡を越えイギリスやアフリカ西岸にまでも交易範囲がおよんでいました。

参考HP:〜
フェニキア人の地中海交易地図(商業ネットワーク)
古代の地中海の地図
 (550 BC、黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       09/3/30

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