★アメリカ VS ソ連 |
キューバ | 第三次世界大戦の危機 | 核ミサイル | 大航海物語 参考資料★ |
---|---|---|---|---|
核ミサイル危機 1962 |
||||
ソ連がキューバに核弾道ミサイルを配備 |
キューバの地図 | ||
アメリカのケネデ ィ大統領 |
←サンチャゴデクーバ ←グアンタナモ |
|
1962 ケネディ大統領とキューバ危機44年記念 2006 シエラオーネ 2006 発行 |
世界地図 | アメリカ南部とキューバ付近の地図 ジャマイカ 1964/5/4 発行 小型シート |
||
アメリカ→ キューバ→ (カリブ海). |
USA 1983/1/7 発行 |
←ソ連(ロシア) |
・キューバ危機 (1962/10/14〜28) Cuban Missile Crisis キューバ危機は、アメリカ(U.S.A.、アメリカ合衆国:United States of America)のすぐ南にある一小国の島国キューバ(Cuba、キューバ共和国:Republica of Cuba)へのソ連(Soviet Union、ソビエト社会主義共和国連邦:Union of Soviet Socialist Republics)製の核ミサイルの持ち込みで、1962/10/14〜28の14日間にわたって米ソ間の冷戦の緊張が最高潮に達し、最悪の場合は全世界を巻き込むことになる、あわや第三次世界大戦の勃発か、を意味する核戦争寸前まで達した危機的な状況が起こった時のことです。
▼はじめに キューバは1492年にコロンブス船長がスペインの船隊で到達・発見して以来、スペイン領となっていました。20世紀初め頃には対米輸出の砂糖モノカルチャー経済になり、農民の80%が貧しい土地を持たない小作農民で、サトウキビ収穫期以外の時期は「死の季節」と呼ばれ、多くの農民や農業労働者が失業して貧困や飢餓に苦しんでいました。1902年にアメリカの保護国としてキューバ共和国が独立、親米のエストラーダ・パルマ(Tomas Estrada y Palma, 1832-1908、在任1902/5/20-1906/9/28)政権が発足すると親米傾向がより強まり、砂糖産業を中心に行われたアメリカの投資が増大し、大部分の土地はアメリカ人やキューバ人大地主に集中しました。1940/10/10の選挙でフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista y Zaldivar 1901-1973、在任1940/10/10-1944/10/10)が大統領になるも、1944年の選挙で負けて、バティスタはアメリカ合衆国のフロリダに逃亡。1952/3/10の軍事クーデターでバティスタが再び大統領に就任(在任1952/3/10-1959/1/1)して、政権が誕生すると、それ以降はバティスタ大統領の以前の亡命先アメリカ政府とアメリカ企業や、フロリダのデイトナビーチ(Daytona Beach) でカジノを経営していた時代のパートナーのマフィアなどのキューバ国内における利権の保護と引き換え(アメリカの傀儡政権)に私欲を満たすようになり、キューバの農業や工業にアメリカ資本が流れ込み、アメリカ企業による事実上の搾取が公然と行われることになりました。
革命後、首相に就任したカストロは、キューバ共産党による一党独裁体制を敷き、共産党々首の第一書記の地位と国家の最高指導者になり、1976年からは国家評議会議長として正式に国家元首の地位に就任しました。 参考HP:〜 ・グランマ号の航海地図
ピッグス湾事件の後、1961/8月にケネディ政権は空軍のエドワード・ランズデール将軍(Edward Geary Lansdale 1908-1987 Air Force Major general、少将:当時は准将)を作戦立案者に指名、政権の総力を挙げてカストロ政権打倒を目指すマングース作戦計画(Operation Mongoose Memorandum:1962/10/4-10/20)を極秘裏に開始し、軍事訓練を施した亡命キューバ人をキューバ本土に派遣して破壊活動を実施させ、またCIAを中心にカストロ暗殺計画、キューバ侵攻作戦の計画立案を進めていました。ソ連によるキューバへのミサイル配備とは無関係に進められたマングース作戦は徐々に速度を上げて進捗し、米軍によるキューバ侵攻作戦の準備は1962/10/20に完了する予定でした。それは奇しくもキューバへのミサイル配備計画とほとんど時期を同じくするものでした。 それとは別に、当時のアメリカのキューバ敵視政策は表面だってエスカレートして、1962/1月に米州機構(Organization of American States:OAS)がキューバを除名するなどキューバ封じ込めが進みました。1962/2/3にケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表。対するキューバは1962/2月に「第2ハバナ宣言」を発表してラテンアメリカでの革命の必要性を強調するなど、アメリカとの冷戦の様相が頂点に達しました。こうなるとキューバは、アメリカと冷戦下で対峙していたソ連との接触を緊密にしました。 ・ソ連の核ミサイル配備 そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロ議長はアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめるも、ソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激し過ぎると考え、1962年に兵器の提供の代わりに核ミサイルをキューバ国内に配備する、極東シベリアの寒村の名前を冠したアナディール作戦(Operation Anadyr)を計画。キューバ側のカストロ首相もこれを了承すると、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめました。アナディール作戦の背景には、当時核ミサイルの攻撃能力で大幅な劣勢に立たされていたソ連がその不均衡を挽回する狙いもあったといわれています。アメリカは本土にソ連を攻撃可能な大陸間弾道ミサイルを配備し、その上に西欧側のトルコに中距離核ミサイルを配備していました。これに対し、ソ連の大陸間弾道ミサイルは未だ開発段階で、潜水艦・爆撃機による攻撃以外にアメリカ本土を直接攻撃する手段を持たなかったともいわれています。1962年7月から8月にかけて、ソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったためアメリカ軍はキューバ近海を行き来する船舶や、キューバ国内に対する偵察飛行を強化。1962/10/14にアメリカ空軍のロッキードU-2高々度偵察機(Lockheed U-2)がキューバでアメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル(medium-range ballistic missile:MRBM、射程1,000-3,000km程度)を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル(intermediate-range ballistic missile:IRBM、射程3,000-5,500km程度)を発見しました。
また、キューバは国家を挙げて対アメリカ戦に備えていたのにもかかわらず、キューバの頭ごしで政治的な妥協が米ソで決定されたので、カストロ議長は激怒したといわれています。後のフルシチョフ首相の回想によれば、アメリカの度重なる偵察と海上封鎖に興奮したカストロ議長は、フルシチョフ首相にアメリカを核攻撃するように迫ったとされ、ソ連の方は核戦争をもいとわない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになったといっています。フルシチョフ首相としては、キューバに対するアメリカの干渉を阻止したことで満足したともいわれていますが、その2年後にフルシチョフ首相は失脚しましたし、ケネディ大統領は1963年に暗殺されました。1963/4月にはアメリカはトルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了しました。このキューバ危機を教訓として、キューバ危機後の1963/8/30にアメリカ合衆国のホワイトハウスとソビエト連邦のクレムリンとの間に、危機回避のために米ソ2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットライン(直通回線)が設けられました。 ・キューバ危機(1962/10/14〜28)の略年表:〜 1492年、(12/27)コロンブス船長がキューバ島に到着 1509年、ディエゴ・ベラスケスがキューバ総督に任命される 1868年、第一次独立戦争(10年戦争)開始 1895年、 4/10、ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始 5/19、ホセ・マルティ(Jose Julian Marti Perez, 1853-1895)戦死 1898年、米西戦争(1898/4/25-8/12) 1902年、(5/20)独立、エストラーダ・パルマ政権発足 1903年、米国、グァンタナモ湾を租借 1940年、(10/10)バティスタが大統領に就任 1944年、(10/10)バティスタが選挙で敗北し、アメリカのフロリダに逃亡 1950年、朝鮮戦争が勃発(-1953) 1952年、(3/10)バティスタ軍曹のクーデター 1953年、 3/05、ソ連のスターリン書記長が死去、 3/14、後継にニキータ・フルシチョフが就任(-1964) 7/26、モンカダ兵営襲撃事件、フィデル・カストロが捕虜となる 09月、モンカダ裁判 1954年、CIAがグァテマラでグスマン政権を転覆して親米軍事政権が成立 1955年、フィデル・カストロが恩赦で、メキシコへ亡命 1956年、(12/2)カストロが同士とグランマ号でオリエンテ州に上陸 1957年、(3月)革命幹部会による大統領官邸襲撃 1958年、反乱軍の最終攻勢始まる 1959年、 1/01、バティスタ大統領がドミニカ共和国へ亡命 2/17、フィデル・カストロが首相に就任、革命政権成立(キューバ革命) 4/15、カストロ首相がニューヨークへ米国政府に表敬訪問、米国政府は黙殺 5/17、農地改革法公布 1960年 米国政府がキューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表 2/04、ミコヤン(Anastas Ivanovich Mikoyan 1895-1978)ソ連副首相がキューバ訪問、 キューバ・ソ連通商条約調印 4/04、ユナイテッド・フルーツ社の所有地が接収される 6/29、石油会社テクサコ製油所に介入 7/01、石油会社エッソとロイヤル・ダッチ・シェルの製油所に介入 7/02、米国政府がキューバ砂糖輸入割当制度を廃止 8/06、米国企業を接収 1961年、 1/03、米国と外交関係断絶 1/20、ジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任 4/04、傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃 4/16、カストロ議長が社会主義革命宣言 4/17、反革命傭兵軍上陸事件(ピッグズ湾事件、-4/19) 4/25、米国が対キューバ全面的貿易封鎖を発表 1962年、 02月、米国がサイゴンに援助軍司令部を作り、ベトナムに軍事介入、 ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が勃発(-1975/4/30) 10/15、キューバ危機(U-2機がソ連製ミサイルを発見) 10/22、ケネディ大統領が対キューバ海上封鎖を宣言 10/27、オリエンテ州北部でU-2機が撃墜される 10/28、フルシチョフ・ソ連首相がミサイル撤去の受け入れを放送 1963年、カストロ議長が初のモスクワ訪問 1963/11/22、ケネディ大統が暗殺される 1964年、フルシチョフ首相が失脚 1965年、キューバ共産党結成 コンゴ動乱(1960-1965)にチェ・ゲバラの義勇軍が参加 1967年、カストロ議長がチェ・ゲバラのボリビアでの死亡を発表 1975年、第一回共産党大会、アンゴラ派兵が本格化 ・キューバの地図(日本語:Google) ・キューバの地図(米海軍グアンタナモ湾基地(US Naval Base Guantanamo Bay)有) ・サン・クリストバルの場所地図(San Cristobal) ・キューバの地図(日本語) ・キューバの地図 ・ピッグス湾事件 (1961/4/15〜4/19) キューバ侵攻作戦 Bay of Pigs Invasion キューバの勝利 (米国支援の侵攻部隊が惨敗) 別名:〜 ・ブルータス作戦(Operation Brutas) ・プラヤ・ヒロン侵攻事件 (Invasion de Playa Giron) ・プラヤ・ヒロンの闘い (La Batalla de Giron) 場所:キューバのピッグス湾 (Bay of Pigs)、コチーノス湾(Bahia de Cochinos, Cuba)
1961/4/15にネディ大統領の承認の下で軍事力でカストロ政権打倒のために、反革命傭兵軍は国籍を隠したアメリカ空軍のダグラスA-26爆撃機でキューバ軍基地を空襲して爆撃機を破壊し、CIAによるピッグス湾作戦(別名:プラヤ・ヒロンの闘い)が開始され、4/17にピッグス湾のヒロン海岸(Giron beach)へ上陸しました。 ・ピッグス湾の戦い (1961/4/17〜4/19) Battle of Bay of Pigs (La Batalla de Giron) ヒロン海岸に上陸した反革命傭兵軍は初戦こそキューバ軍と渡りあうも、キューバ軍が約15,000人で迎え撃ったのに、反革命傭兵軍は1,511人で、2隻の物資補給船がキューバ軍の戦闘機に撃沈されるなど補給経路が早々に破壊されたことに加え、アメリカ軍による航空支援がケネディ大統領の命令により実行されなかったこともあり、劣勢を強いられました。その後、考えを変えたケネディ大統領の命令によりアメリカ軍の戦闘機による爆撃機への援護が実施されるも、時差を計算していなかったなどの連絡ミスにより援護は成功せず、結果的に115人が戦死、1,189人が捕虜となる他、多数が逃亡するなど作戦は大失敗に終わりました。
・ビッグス湾の場所地図(スペイン語でコチーノ(Cochinos:豚)湾) ・ビッグス湾の地図(コチーノス湾:Bahia de Cochinos) CIAがキューバ軍の勢力を過小評価していたことや、「キューバ軍の一部が寝返る」という根拠がない判断をした上に、事前に作戦の実施がキューバ側に漏れていたことと、ケネディ大統領の心変わりにより命令が二転三転したことが失敗の最大の原因といわれています。また、CIAがケネディ大統領と反革命傭兵軍側に二枚舌を使っていた節があるという意見もあり、それでケネディ大統領は反革命傭兵軍が自発的に軍事行動をしたものと信じ込み、反革命傭兵軍側はアメリカ軍の正規軍による全面バックアップがあるものと信じ込んでいたといわれています。事件後にケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全ての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認め、同時にCIAに対しては軍事行動の失敗と、さらにその後始末への失敗からその責任を厳しく追及し、ダレス長官(Allen Welsh Dulles, 1893-1969、在任:Director 1953-1961/11/28)、チャールズ・カベル副長官(Charles Pearre Cabell 1903-1971、在任:Deputy Director 1953-1963/11/22)を更迭した上で、CIAの解体まで宣言していました(それが後のCIAによるケネディ暗殺に繋がったとの説有)。解体についてはその後のケネディ大統領暗殺事件で無くなり、それで暗殺を「アメリカ政府内の保守派の陰謀」が遠因だったと考えらるともいわれています。対するカストロ議長は軍備拡張の必要性を認識し、東側諸国との友好関係の確立を図りました。それまでキューバ革命は特に社会主義革命と宣言されていたわけではありませんでしたが、カストロ議長は1961/5/1のメーデー演説で「社会主義革命であった」と正式に宣言し、正式に東側ブロックに加入しました。これが、翌1962年のキューバ危機を招くことになったともいわれています。なお、この作戦後もアメリカ政府はカストロ政権の転覆を狙ってキューバ国内へのゲリラ攻撃、カストロ暗殺作戦を続けました。しかし、最終的に転覆させることは出来ず、2001/3月(40年)と2011/4月(50年)にはプラヤ・ヒロン侵攻事件記念式典がキューバで行われました。 TVで報道されました。 アメリカとは1961年1月3日に国交を断絶して以来、 実に53年ぶりですよね。 参考HP:〜 ・キューバの場所地図 ・キューバの地図 ・ビッグス湾ヒロン海岸の場所地図(コチノス湾(Bahia de Cochinos)ヒロン海岸(Giron beach) こちらで、領土の帰属をめぐる紛争地帯の ・南砂諸島 ・西砂海戦 ・北方四島 ・竹 島 ・尖閣諸島 ・ガ ザ ・パレスチナ紛争 ・フォークランド戦争 ・チャコ戦争、をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/1/24、14/12/18 |