キューバ危機
★アメリカ
   VS ソ連
キューバ 第三次世界大戦の危機 核ミサイル 大航海物語
参考資料★
核ミサイル危機
1962
ソ連がキューバに核弾道ミサイルを配備
               キューバの地図
アメリカのケネデ
ィ大統領









←サンチャゴデクーバ
←グアンタナモ


1962 ケネディ大統領とキューバ危機44年記念 2006
シエラオーネ 2006 発行
世界地図 アメリカ南部とキューバ付近の地図

ジャマイカ 1964/5/4 発行 小型シート
アメリカ→

キューバ→
(カリブ海).










USA 1983/1/7 発行


←ソ連(ロシア)

キューバ危機 (1962/10/14〜28)
  Cuban Missile Crisis

キューバ危機は、アメリカ(U.S.A.、アメリカ合衆国:United States of America)のすぐ南にある一小国の島国キューバ(Cuba、キューバ共和国:Republica of Cuba)へのソ連(Soviet Union、ソビエト社会主義共和国連邦:Union of Soviet Socialist Republics)製の核ミサイルの持ち込みで、1962/10/14〜28の14日間にわたって米ソ間の冷戦の緊張が最高潮に達し、最悪の場合は全世界を巻き込むことになる、あわや第三次世界大戦の勃発か、を意味する核戦争寸前まで達した危機的な状況が起こった時のことです。

その時、このHP製作者の自分は紅顔の美青年(イケメン)なるも、平和な日本で何の恐怖も感じずに幸せに暮らしていて、何の記憶もありません。今から思うと「井の中の蛙大海を知らず」状態だったんですね(島国根性で遠くの海外事情には無関心だったこと)。

▼はじめに
キューバは1492年にコロンブス船長がスペインの船隊で到達・発見して以来、スペイン領となっていました。20世紀初め頃には対米輸出の砂糖モノカルチャー経済になり、農民の80%が貧しい土地を持たない小作農民で、サトウキビ収穫期以外の時期は「死の季節」と呼ばれ、多くの農民や農業労働者が失業して貧困や飢餓に苦しんでいました。1902年にアメリカの保護国としてキューバ共和国が独立、親米のエストラーダ・パルマ(Tomas Estrada y Palma, 1832-1908、在任1902/5/20-1906/9/28)政権が発足すると親米傾向がより強まり、砂糖産業を中心に行われたアメリカの投資が増大し、大部分の土地はアメリカ人やキューバ人大地主に集中しました。1940/10/10の選挙でフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista y Zaldivar 1901-1973、在任1940/10/10-1944/10/10)が大統領になるも、1944年の選挙で負けて、バティスタはアメリカ合衆国のフロリダに逃亡。1952/3/10の軍事クーデターでバティスタが再び大統領に就任(在任1952/3/10-1959/1/1)して、政権が誕生すると、それ以降はバティスタ大統領の以前の亡命先アメリカ政府とアメリカ企業や、フロリダのデイトナビーチ(Daytona Beach) でカジノを経営していた時代のパートナーのマフィアなどのキューバ国内における利権の保護と引き換え(アメリカの傀儡政権)に私欲を満たすようになり、キューバの農業や工業にアメリカ資本が流れ込み、アメリカ企業による事実上の搾取が公然と行われることになりました。

1953/7/26にフィデル・カストロ(Fidel Alejandro Castro Ruz, 1926-)弁護士が130人の同士で蜂起して、サンティアーゴ・デ・クーバ州々都サンティアーゴ・デ・クーバ(Santiago de Cuba)の兵舎「モンカダ兵営」(Moncada Barracks)を襲撃するも、失敗して捕らえられました。1955年に恩赦で釈放されてメキシコでチェ・ゲバラ(エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ:Ernesto Rafael Guevara de la Serna、1928-1967)他の同士と革命組織を結成。1956/12/2にカストロがグランマ号(Granma、10人乗りのプレジャーボートに82人乗り)でメキシコのトゥスパンからキューバのグランマ州マンサニヨ(Manzanillo Granma Province)プラヤ・   キューバのカストロ議長
ラス・コロレダス(Pleya Las Coloredas)に上陸すると、事前に再上陸することを発表していたので、上陸後すぐにバティスタ政府軍に包囲され、カストロを含む12人にまで減って捕えられました。その後、カストロの革命運動は民衆の支援を獲得して、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を戦い抜き、バティスタ軍の軍務放棄などもあって、1959年の元日未明に、アメリカ政府から見放されたバティスタ大統領が国外逃亡。反共的な独裁者ラファエル・トルヒーヨ(Rafael Leonidas Trujillo Molina 1891-1961、在任1930 -1938:1942-1952)大統領のドミニカ共和国へ亡命し、キューバ革命が達成されました。

革命後、首相に就任したカストロは、キューバ共産党による一党独裁体制を敷き、共産党々首の第一書記の地位と国家の最高指導者になり、1976年からは国家評議会議長として正式に国家元首の地位に就任しました。
参考HP:〜
グランマ号の航海地図

▼キューバ危機
・アメリカとキューバの対立
カストロ首相が1959/1月のキューバ革命で親米のバティスタ政権を打倒して全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認したので、カストロ首相は、1959/4月にアメリカを訪問して経済援助要請を申し入れるため、ドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower、1890-1969)第34代大統領(在任1953-1961)に会談を申入れました。ところがアイゼンハワー大統領が冷戦下でカストロ首相の革命政権を社会主義的、容共的と警戒し、ワシントンDCを訪れたカストロ首相との
キューバの地図

キューバ 1973/10/29 発行
会談を欠席。代わりにリチャード・ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913-1994)副大統領(後の第37代大統領:在任1969-1974)と短時間の会見をさせて、距離を置く態度を取りました。大統領が公式会談に欠席した理由はゴルフともいわれています。カストロ首相はアイゼンハワー大統領の非礼に憤慨し、その上にアメリカがカストロ首相をあからさまに敵視し始めたので、これに対しキューバ革命政権側も、敵視するだけでなく革命後もキューバ経済を牛耳ろうとしていたアメリカ合衆国に対立姿勢を示して、フルシチョフ首相(Nikita Sergeyevich Khrushchev, 1894-1971、在任1953-1964)のソ連との接近を深めました。そして、ユナイテッド・フルーツ(United Fruit Company, UFCO, 1871-1984) などのアメリカ資本の支配下にあった農業の改革を目的に農地改革法(1959/5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革)を制定した他、アメリカ合衆国及び西側を中心とした諸外国の所有するキューバ国内における財産を、1960/8/6に国有化するなど、結果的に社会主義的な政策を矢継ぎ早に導入しました。また、革命政権の粛清や、資本主義経済の放棄を嫌った人々はアメリカ合衆国に10万人以上が逃れるも、キューバ国内ではバティスタ政権下の警官及び兵士が、殺人と拷問を含む人権侵害及び戦争犯罪で裁判にかけられました。殺人で有罪判決を受けた人達500人以上のほとんどが銃殺され、残りは長い懲役刑を宣告され収監されたといわれています。

こうした動きに対して、アメリカ合衆国は厳しい態度で臨み、アメリカは対抗策としてキューバとの通商停止(事実上の経済制裁)を行いました。なお、この措置は多くの財産を失った大企業やマフィア、そしてアメリカ国内の亡命キューバ人ロビーなどのアメリカ政府に対する圧力もあり、この措置は50年近く経った現在も継続されています。さらにアイゼンハワー大統領は、亡命キューバ人を組織・訓練して、この革命政権を打倒しようとして、1960/3月にCIA(アメリカ中央情報局:Central Intelligence Agency)に、将来のキューバ侵攻に備えてグァテマラで亡命キューバ人を訓練するように指示しました。グアテマラでは1954年にCIAが行ったハコボ・アルベンス・グスマン(Jacobo Arbenz Guzman, アイゼンハワー大統領

USA 1971 発行
1913-1971)政権に対する転覆作戦のピービーサクセス作戦(Operation PBSUCCESS)の成功で、親米軍事政権が成立していました。

1961/1/3にアメリカ政府がキューバとの国交関係を断絶と発表し、米・キューバ関係は革命以来の最悪状態になりました。1961/1/20大統領に就任したジョン・F・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy, 1917/5/29-1963/11/22、在任1961-1963)の決断で、CIAによるキューバ侵攻作戦を継承してピッグス湾作戦(Operation Brutas)が実施されました。

1961/3月に米の亡命キューバ人がホセ・カルドナ(Jose Miro Cardona 1902-1974)をキューバ革命評議会議長に選出。1961/4月初めにカルドナ議長が「カストロは革命を裏切り独裁者になっている」と非難して、
ケネディ大統領

USA 1967 発行
キューバ国民がカストロ打倒に立上がるよう」に呼びかけました。1961/4/15にキューバ侵攻が開始され、4/17に侵攻部隊がコチノス湾(Bahia de Cochinos)ヒロン海岸(Giron beach)に上陸。ニカラガからの降下部隊もそれに加わりました。総勢約1500人の侵攻部隊に対し、キューバ革命軍は迅速に対応し、4/20までに全ての侵攻軍を撃退。約1200人を捕虜にしました。キューバでは侵攻軍が期待していた国民の蜂起は起こらないばかりか、民衆の団結が一層強まり、アメリカ帝国主義に対する自信を深める結果となり、その前日にカストロ首相が「キューバ革命は社会主義革命」との宣言を初めて表明し、革命政権は1961/5月に社会主義宣言を発しました。これ以降、ソ連や東ドイツ、ポーランドなどの東側諸国との関係は強化されることとなりました。

ピッグス湾事件の後、1961/8月にケネディ政権は空軍のエドワード・ランズデール将軍(Edward Geary Lansdale 1908-1987 Air Force Major general、少将:当時は准将)を作戦立案者に指名、政権の総力を挙げてカストロ政権打倒を目指すマングース作戦計画(Operation Mongoose Memorandum:1962/10/4-10/20)を極秘裏に開始し、軍事訓練を施した亡命キューバ人をキューバ本土に派遣して破壊活動を実施させ、またCIAを中心にカストロ暗殺計画、キューバ侵攻作戦の計画立案を進めていました。ソ連によるキューバへのミサイル配備とは無関係に進められたマングース作戦は徐々に速度を上げて進捗し、米軍によるキューバ侵攻作戦の準備は1962/10/20に完了する予定でした。それは奇しくもキューバへのミサイル配備計画とほとんど時期を同じくするものでした。

それとは別に、当時のアメリカのキューバ敵視政策は表面だってエスカレートして、1962/1月に米州機構(Organization of American States:OAS)がキューバを除名するなどキューバ封じ込めが進みました。1962/2/3にケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表。対するキューバは1962/2月に「第2ハバナ宣言」を発表してラテンアメリカでの革命の必要性を強調するなど、アメリカとの冷戦の様相が頂点に達しました。こうなるとキューバは、アメリカと冷戦下で対峙していたソ連との接触を緊密にしました。

・ソ連の核ミサイル配備
そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロ議長はアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめるも、ソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激し過ぎると考え、1962年に兵器の提供の代わりに核ミサイルをキューバ国内に配備する、極東シベリアの寒村の名前を冠したアナディール作戦(Operation Anadyr)を計画。キューバ側のカストロ首相もこれを了承すると、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめました。アナディール作戦の背景には、当時核ミサイルの攻撃能力で大幅な劣勢に立たされていたソ連がその不均衡を挽回する狙いもあったといわれています。アメリカは本土にソ連を攻撃可能な大陸間弾道ミサイルを配備し、その上に西欧側のトルコに中距離核ミサイルを配備していました。これに対し、ソ連の大陸間弾道ミサイルは未だ開発段階で、潜水艦・爆撃機による攻撃以外にアメリカ本土を直接攻撃する手段を持たなかったともいわれています。1962年7月から8月にかけて、ソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったためアメリカ軍はキューバ近海を行き来する船舶や、キューバ国内に対する偵察飛行を強化。1962/10/14にアメリカ空軍のロッキードU-2高々度偵察機(Lockheed U-2)がキューバでアメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル(medium-range ballistic missile:MRBM、射程1,000-3,000km程度)を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル(intermediate-range ballistic missile:IRBM、射程3,000-5,500km程度)を発見しました。

これに対してアメリカ政府は激烈な反応を示し、ケネディ大統領はエクスコム(ExComm、国家安全保障会議執行委員会:Executive Committee of the National Security Council)を設置し、ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第1段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検を行うことでソ連船の入港を阻止しようとしました。これに対してソ連船は海上封鎖を突破することはせず、また臨検を受けることをよしとせず引き返しました。そしてアメリカ政府はNATO(北大西洋条約機構:North Atlantic Treaty Organization)や米州機構の指導者たちに状況を説明して支持を得ました。また、ケネディ大統領は NATO 3周年記念

USA 1952 発行
1962/10/18にアナトリー・ドブルイニン(Anatoly Fyodorovich Dobrynin, 1919-2010)駐米ソ連
特命全権大使をホワイトハウスに呼びつけ懸念を表明し、ソ連政府の対応を迫ると同時に、1962/10/22テレビ演説で、国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表して、ソ連を非難しました。さらにその後にアメリカ軍部隊へデフコン2(DEFCON2:準戦時体制、Defense Readiness Condition、5段階有)を発令。ソ連との全面戦争に備えてアメリカ国内のICBM(intercontinental ballistic missile)のアトラス(M/HGM-16 Atlas)、タイタン(HGM-25A Titan)や、IRBMのソー(PGM-17 Thor)、ジュピター(PGM-19 Jupiter)などの核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置いた他、日本・トルコ・イギリスなどに駐留する基地を臨戦態勢に置きました。一方のソ連も国内のR-7(Semyorka R-7、世界初の大陸間弾道ミサイル、ICBM)やキューバのR-12(Dvina R-12:IRBM)を発射準備態勢にしました。また、デフコン2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたので、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買い占める ICBM ロケット

ドミニカ 1973 発行
騒ぎが起こりました。

・米ソの駆け引き(交渉)
1962/10/25の緊急国連安全保障会議で米国のアドレー・スティーブンソン(Adlai Ewing Stevenson II, 1900-1965)国連大使がミサイル基地を撮影した写真を示して、核ミサイルの存在を認めるよう迫るも、ソ連のワレリアン・ゾリン(Valerian Aleksandrovich Zorin、1902-1986)国連大使にはぐらかされる有名なやり取りがあって、米ソ間の緊迫感が世界を震撼させました。10/26にソ連からアメリカへ妥協案が示されました。その内容はアメリカがキューバに対する軍事行動をしないなら、キューバの核ミサイルを撤退させるというものなるも、10/27に内容が変更され、トルコに配備されているジュピター・ミサイルの撤退を要求。これは
ソ連グロムイコ外相、 ケネディ大統領
アメリカにとって受け入れがたいものでした。さらに1962/10/27にキューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍のロッキードU-2高々度偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜されパイロットは死亡しました。その日は「暗黒の土曜日」と呼ばれ、誰もが第三次世界大戦の勃発を現実のものとして考えたといわれています。

ところが、ワシントン時間1962/10/28午前9時にニキータ・フルシチョフ首相がモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表しました。そして、フルシチョフ首相はケネディ大統領の条件を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、ケネディ大統領もキューバへの武力侵攻(Operation Mongoos)はしないことを約束しました。

こうして、第三次世界大戦の危機は回避されました。その経過については、種々取り沙汰されていますが、ケネディ大統領の側近だったセオドア・C・ソレンセン(Theodore Chaikin "Ted" Sorensen、1928-2010)の著
ソ連のフルシチョフ首相
書「ケネディ」(Kennedy, 1965)では、キューバ危機の米ソ対決が沈静化したのは、ロバート・ケネディ司法長官(Robert Francis "Bobby" Kennedy, RFK, 1925-1968)とアナトリー・ドブルイニン駐米大使が、ABCネットワークの記者ジョン・スカリー(John Sculley ?)の仲介で深夜のワシントン市内の公園で密かに会って話し合った時だったことが記されているとか、また、ケネディ大統領が通例通り戦争突入前に教会で祈りを捧げるため教会に礼拝に訪れ、TV演説でアメリカによる戦争開始声明が読み上げられると同時にキューバへの空爆が実行に移されるという情報で、狼狽したソ連首脳部が、その放送予定に間に合うよう、外交ルートを通さずにモスクワ放送を通じてロシア語でミサイル撤去声明を読み上げるという形で急遽行われたともいわれています。当時の両国の核戦力は、ソ連の核爆弾保有数300発に対してアメリカは5000発と、ソ連は圧倒的に不利な状況で、仮に両国の全面戦争という事態になれば、ソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの敗北するのは決定的でした。第二次世界大戦時にドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフ首相はこのことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが国際政治の現実であったといわれています。

また、キューバは国家を挙げて対アメリカ戦に備えていたのにもかかわらず、キューバの頭ごしで政治的な妥協が米ソで決定されたので、カストロ議長は激怒したといわれています。後のフルシチョフ首相の回想によれば、アメリカの度重なる偵察と海上封鎖に興奮したカストロ議長は、フルシチョフ首相にアメリカを核攻撃するように迫ったとされ、ソ連の方は核戦争をもいとわない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになったといっています。フルシチョフ首相としては、キューバに対するアメリカの干渉を阻止したことで満足したともいわれていますが、その2年後にフルシチョフ首相は失脚しましたし、ケネディ大統領は1963年に暗殺されました。1963/4月にはアメリカはトルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了しました。このキューバ危機を教訓として、キューバ危機後の1963/8/30にアメリカ合衆国のホワイトハウスとソビエト連邦のクレムリンとの間に、危機回避のために米ソ2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットライン(直通回線)が設けられました。

・キューバ危機(1962/10/14〜28)の略年表:〜
1492年、(12/27)コロンブス船長がキューバ島に到着
1509年、ディエゴ・ベラスケスがキューバ総督に任命される
1868年、第一次独立戦争(10年戦争)開始
1895年、
 4/10、ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始
 5/19、ホセ・マルティ(Jose Julian Marti Perez, 1853-1895)戦死
1898年、米西戦争(1898/4/25-8/12)
1902年、(5/20)独立、エストラーダ・パルマ政権発足
1903年、米国、グァンタナモ湾を租借
1940年、(10/10)バティスタが大統領に就任
1944年、(10/10)バティスタが選挙で敗北し、アメリカのフロリダに逃亡
1950年、朝鮮戦争が勃発(-1953)
1952年、(3/10)バティスタ軍曹のクーデター
1953年、
 3/05、ソ連のスターリン書記長が死去、
 3/14、後継にニキータ・フルシチョフが就任(-1964)
 7/26、モンカダ兵営襲撃事件、フィデル・カストロが捕虜となる
 09月、モンカダ裁判
1954年、CIAがグァテマラでグスマン政権を転覆して親米軍事政権が成立
1955年、フィデル・カストロが恩赦で、メキシコへ亡命
1956年、(12/2)カストロが同士とグランマ号でオリエンテ州に上陸
1957年、(3月)革命幹部会による大統領官邸襲撃
1958年、反乱軍の最終攻勢始まる
1959年、
 1/01、バティスタ大統領がドミニカ共和国へ亡命
 2/17、フィデル・カストロが首相に就任、革命政権成立(キューバ革命)
 4/15、カストロ首相がニューヨークへ米国政府に表敬訪問、米国政府は黙殺
 5/17、農地改革法公布
1960年 米国政府がキューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表
 2/04、ミコヤン(Anastas Ivanovich Mikoyan 1895-1978)ソ連副首相がキューバ訪問、
     キューバ・ソ連通商条約調印
 4/04、ユナイテッド・フルーツ社の所有地が接収される
 6/29、石油会社テクサコ製油所に介入
 7/01、石油会社エッソとロイヤル・ダッチ・シェルの製油所に介入
 7/02、米国政府がキューバ砂糖輸入割当制度を廃止
 8/06、米国企業を接収
1961年、
 1/03、米国と外交関係断絶
 1/20、ジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任
 4/04、傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃
 4/16、カストロ議長が社会主義革命宣言
 4/17、反革命傭兵軍上陸事件(ピッグズ湾事件、-4/19)
 4/25、米国が対キューバ全面的貿易封鎖を発表
1962年、
 02月、米国がサイゴンに援助軍司令部を作り、ベトナムに軍事介入、
     ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が勃発(-1975/4/30)
 10/15、キューバ危機(U-2機がソ連製ミサイルを発見)
 10/22、ケネディ大統領が対キューバ海上封鎖を宣言
 10/27、オリエンテ州北部でU-2機が撃墜される
 10/28、フルシチョフ・ソ連首相がミサイル撤去の受け入れを放送
1963年、カストロ議長が初のモスクワ訪問
1963/11/22、ケネディ大統が暗殺される
1964年、フルシチョフ首相が失脚
1965年、キューバ共産党結成
      コンゴ動乱(1960-1965)にチェ・ゲバラの義勇軍が参加
1967年、カストロ議長がチェ・ゲバラのボリビアでの死亡を発表
1975年、第一回共産党大会、アンゴラ派兵が本格化

キューバの地図(日本語:Google)
キューバの地図(米海軍グアンタナモ湾基地(US Naval Base Guantanamo Bay)有)
サン・クリストバルの場所地図(San Cristobal)
キューバの地図(日本語)
キューバの地図

ピッグス湾事件 (1961/4/15〜4/19) キューバ侵攻作戦
  Bay of Pigs Invasion

   キューバの勝利 (米国支援の侵攻部隊が惨敗)
   別名:〜
   ・ブルータス作戦(Operation Brutas)
   ・プラヤ・ヒロン侵攻事件 (Invasion de Playa Giron)
   ・プラヤ・ヒロンの闘い (La Batalla de Giron)
   場所:キューバのピッグス湾 (Bay of Pigs)、コチーノス湾(Bahia de Cochinos, Cuba)
ピッグス湾事件は、1961年に在米の亡命キューバ人部隊「反革命傭兵軍」がアメリカの支援の下で、フィデル・カストロ議長による革命政権の再転覆を試みた事件です。ジョン・F・ケネディ大統領の承認の下に、1961/4/15に侵攻が開始されるも、東側諸国の援助を受けたキューバ軍は3日間の戦いで撃退に成功しました。この事件の直後、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言。ソ連への接近を強めた結果、翌1962年にはキューバ危機が起きました。 ピッグス湾とは侵攻が行われた地名のコチーノ(ス語:豚)湾の英訳ですが、キューバをはじめとする中南米諸国てはプラヤ・ヒロン侵攻事件と呼ばれています。
 チェ・ゲバラ
コンゴ共和国
ゲバラのコンゴ訪問35年記念
キューバ 2000 発行

1961/4/15にネディ大統領の承認の下で軍事力でカストロ政権打倒のために、反革命傭兵軍は国籍を隠したアメリカ空軍のダグラスA-26爆撃機でキューバ軍基地を空襲して爆撃機を破壊し、CIAによるピッグス湾作戦(別名:プラヤ・ヒロンの闘い)が開始され、4/17にピッグス湾のヒロン海岸(Giron beach)へ上陸しました。

・ピッグス湾の戦い (1961/4/17〜4/19)
  Battle of Bay of Pigs
  (La Batalla de Giron)
ヒロン海岸に上陸した反革命傭兵軍は初戦こそキューバ軍と渡りあうも、キューバ軍が約15,000人で迎え撃ったのに、反革命傭兵軍は1,511人で、2隻の物資補給船がキューバ軍の戦闘機に撃沈されるなど補給経路が早々に破壊されたことに加え、アメリカ軍による航空支援がケネディ大統領の命令により実行されなかったこともあり、劣勢を強いられました。その後、考えを変えたケネディ大統領の命令によりアメリカ軍の戦闘機による爆撃機への援護が実施されるも、時差を計算していなかったなどの連絡ミスにより援護は成功せず、結果的に115人が戦死、1,189人が捕虜となる他、多数が逃亡するなど作戦は大失敗に終わりました。
ピッグス湾事件:〜キューバの勝利
諸説有(人) キューバ 侵攻部隊
戦  力 15,000人 1,511人
損害 戦 死 176人 115人
捕 虜 --- 1,189人
参考HP:〜
ビッグス湾の場所地図(スペイン語でコチーノ(Cochinos:豚)湾)
ビッグス湾の地図(コチーノス湾:Bahia de Cochinos)

CIAがキューバ軍の勢力を過小評価していたことや、「キューバ軍の一部が寝返る」という根拠がない判断をした上に、事前に作戦の実施がキューバ側に漏れていたことと、ケネディ大統領の心変わりにより命令が二転三転したことが失敗の最大の原因といわれています。また、CIAがケネディ大統領と反革命傭兵軍側に二枚舌を使っていた節があるという意見もあり、それでケネディ大統領は反革命傭兵軍が自発的に軍事行動をしたものと信じ込み、反革命傭兵軍側はアメリカ軍の正規軍による全面バックアップがあるものと信じ込んでいたといわれています。事件後にケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全ての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認め、同時にCIAに対しては軍事行動の失敗と、さらにその後始末への失敗からその責任を厳しく追及し、ダレス長官(Allen Welsh Dulles, 1893-1969、在任:Director 1953-1961/11/28)、チャールズ・カベル副長官(Charles Pearre Cabell 1903-1971、在任:Deputy Director 1953-1963/11/22)を更迭した上で、CIAの解体まで宣言していました(それが後のCIAによるケネディ暗殺に繋がったとの説有)。解体についてはその後のケネディ大統領暗殺事件で無くなり、それで暗殺を「アメリカ政府内の保守派の陰謀」が遠因だったと考えらるともいわれています。対するカストロ議長は軍備拡張の必要性を認識し、東側諸国との友好関係の確立を図りました。それまでキューバ革命は特に社会主義革命と宣言されていたわけではありませんでしたが、カストロ議長は1961/5/1のメーデー演説で「社会主義革命であった」と正式に宣言し、正式に東側ブロックに加入しました。これが、翌1962年のキューバ危機を招くことになったともいわれています。なお、この作戦後もアメリカ政府はカストロ政権の転覆を狙ってキューバ国内へのゲリラ攻撃、カストロ暗殺作戦を続けました。しかし、最終的に転覆させることは出来ず、2001/3月(40年)と2011/4月(50年)にはプラヤ・ヒロン侵攻事件記念式典がキューバで行われました。

なお、ケネディ大統暗殺事件(1963/11/22)のその時、このHP製作者の自分は、まさにその日行われた、初の日本とアメリカ間の衛星通信テレビ中継実験を通じ、日本にも即座に報じられたのを、世界初の人工衛星TV放送ということで、TV視聴したのを昨日のことのように思い出されます(井の中の蛙も人工衛星テレビ中継には興味津津だったんですね)。

特記:〜
2014/12/18、アメリカのオバマ大統領が
ケネディ大統領の追悼記念

USA 1964/5/29 発行
         「キューバと国交回復交渉を始めた」との発表が
         TVで報道されました。
         アメリカとは1961年1月3日に国交を断絶して以来、
         実に53年ぶりですよね。

参考HP:〜
キューバの場所地図
キューバの地図
ビッグス湾ヒロン海岸の場所地図(コチノス湾(Bahia de Cochinos)ヒロン海岸(Giron beach)

こちらで、領土の帰属をめぐる紛争地帯の
南砂諸島
西砂海戦
北方四島
竹 島
尖閣諸島
ガ ザ
パレスチナ紛争
フォークランド戦争

チャコ戦争、をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/1/24、14/12/18

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