★パラグアイ VS ボリビア |
領土紛争 | 戦争 | 領土紛争 | 大航海物語 参考資料★ |
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チャコ戦争 1932〜1935 |
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領土の帰属をめぐる紛争が戦争となる |
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CORREOS DE BOLIVIA | ||||||||||
チャコ地方を含むボリビアの地図
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チャコ地方を含まない現在のボリビア地図
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チャコ戦争 (1932/6/15〜1935/6/12) Chaco War ス:Guerra del Chaco 場所:両国々境のグラン・チャコ地方 結果:パラグアイの勝利 休戦条約:1935 講和条約:1938 チャコ戦争はボリビア(面積:1,098,580ku)とパラグアイ(406,750ku)の間で行なわれた戦争で、両国の未確定国境地帯だったグラン・チャコ地方(Gran Chaco region)に石油の埋蔵があることを信じて、その地域の国境を確定させ、また国土拡大のためにボリビアの先制攻撃で始まりました。戦端が開かれると、戦闘はパラグアイが優勢となり、周辺国とアメリカの仲介によるブエノスアイレス講和条約で戦争は終りました。パラグアイはグラン・チャコ全域(約5万ku)の支配権を得て領土を拡張し、一方のボリビアはパラグアイ川への河川交通アクセス権を得て、太平洋戦争以来の水運を確保するも、その戦争で両国は疲弊し、軍部のクーデターなどに繋がることになりました。 ▼パラグアイの事情 パラグアイは三国同盟戦争(War of the Triple Alliance、別名:パラグアイ戦争、Paraguayan War、1864-1870、同盟国:ウルグアイ・アルゼンチン・ブラジル)に惨敗して、開戦前の国民約525,000人の人口の半数以上を失い(生存211,009人説有)、領土は戦前の四分の三になった後、長らく低迷してブラジル・アルゼンチンの政治的経済的影響下に置かれた上に、領土内にはアルゼンチン軍の駐留を許していました。1879年にアメリカ合衆国大統領の裁定でアルゼンチン駐留軍が撤収、1880年代にはブラジルが国内問題でパラグアイに対する影響力を低下させました。パラグアイは外国移民を積極的に受け入れて先の戦争で激減した人口の回復をはかり、資本の誘致にも努力しました。二十世紀に入る頃に代表的な政党の自由党(真正急進自由党:PLRA:Authentic Radical Liberal Party 1887)とコロラド党(Colorado Party 1887)があるも不正選挙が横行し政情は不安定ながらも、1904-1936年の間は自由党が政権を担当しました。それは長期安定政権ではなく任期を全うした大統領は2人だけでしたが、農地改革や教育の普及などが行われ、経済も少しは改善されました。また、第一次世界大戦(1914-1918)後のヨーロッパの中古兵器が購入されて軍が増強され、未曾有の敗戦から立ち直ってきていた時で、領土拡張と資源を求めてチャコ地方に大いに関心を持っていました。 ・大統領:エウセビオ・アヤラ (Eusebio Ayala, 1875-1942、在任:1921-1923、1932-1936) 総司令官:ホセ・フェリックス・エスティガリビア・インサウラルデ中佐、後の元帥で大統領 (Marshal Jose Felix Estigarribia Insaurralde, 1888-1940、在任:1939-1940) 指揮官:ウイス・イラザバル・バルボザ中佐、第1次・2次ナナワの戦い (Lieutenant colonel Luis Irrazabal Barboza, 189-1958) 指揮官:ラファエル・フランコ・オヘーダ中佐、後の大統領、ゴンドラの戦い (Lieutenant colonel Rafael Franco Ojeda 1896-1973、在任:1936-1937) パラグアイのアヤラ大統領とエスティガリビア総司令官は、政治家と軍のトップのどちらも優秀で、しかも互いに理解のあるコンビだったといわれています。 ・陸軍戦力:〜 パラグアイ軍はロシア帝国の軍人に参謀を依頼し、兵員数は15万人で、戦い方はゲリラ戦のような前近代的な戦術を多用。 ・航空戦力:〜 ・ポテーズ 25(Potez 25) Potez XXV型〜7機、複葉複座戦闘爆撃機 ・ウィーボールト(1920s French monoplane fighter) Wibault 7型〜2機、単葉戦闘機 ・その他 ポテーズ 25は1920年代に設計されたフランスの複座複葉機(単発)。第一線で多種の用途に使用されることを目的として作られた多目的戦闘爆撃機で、戦闘、護衛、戦術爆撃、偵察などの任務に使用。 ・海軍(河川艦隊)戦力:〜 ・砲艦ウマイテ号、乗組員86人、 856屯 ARP Humaita (C2) gunboat、 ・砲艦パラグアイ号、乗組員86人、 856屯 ARP Paraguay (C1) ・その他 砲艦はウマイテ級(Humaita class)2隻を、1931/4/19にイタリア・ジェノヴァから@1隻£300,000で購入、1931/5/5にアスンシオン到着後、パラグアイ河(2,621km)に配備。 ▼ボリビアの事情 ボリビアは1879年に勃発した太平洋戦争(War of the Pacific 1879-1884、別名:硝石戦争、ボリビア・ペルー同盟とチリとの戦争)でチリに敗れ、その打撃から抜け出す努力を続けていました。ボリビアは太平洋戦争の結果それまで太平洋岸に持っていた領土を奪われて内陸国になっており、そこでパラグアイ国境のチャコ地方を押さえて、そこからパラグアイ河(パラグアイ領の真ん中を通る河)を下って大西洋に出るルートを確保したいと考えていました。チャコ地方は古くからボリビア・パラグアイ両国の係争地帯であり、1907年には戦争になりかけました。その時はアルゼンチンの調停による「ブエノスアイレス議定書」で衝突を回避して暫定国境線を画定するも、1931年にボリビア大統領に就任したダニエル・サラマンカは積極的な対外政策を掲げることによる人気とりを狙い、またボリビア国内に利権を持つアメリカの石油会社(スタンダード・オイル社(Standard Oil Co.)がパラグアイ河に沿うパイプラインを建設したいと考えてサラマンカ大統領を後押しました。ボリビア領内では1928年に油田が発見されており、それがチャコ地方まで広がっていると考えられていました。なお、現在のボリビアの石油はパイプラインで大西洋から出荷されています。 ・大統領:ダニエル・ドミンゴ・サラマンカ (Daniel Domingo Salamanca Urey, 1863-1935、在任:1931-1934) 総司令官:ハンス・クント大将(在任:1932-1933/12、独では中将) (Hans Kundt、1869‐1939、ドイツの軍人でチャコ戦争を指導) 総指揮官:エンリケ・ペニャランダ将軍、後の大統領 (Enrique Penaranda del Castillo, 1892-1969、大統領在任:1940-1943) ・陸軍戦力:〜 ボリビアは戦争の参謀として第一次世界大戦で活躍したドイツ人将校を起用して、兵員数では25万人、戦車を導入するなど、外国製の最新兵器を持つ近代的な軍でしたが、気候風土がそれぞれ全く異なるボリビア中から兵士が徴兵されていました。アンデス山脈地方の高地出身者は暑さに弱かっといわれていす。 ・航空戦力:〜 ・ビッカース・ヴェスパ(Vickers Vespa Combat-aircraft)高高度記録:13,407m:1932/9/16 Vespa III型〜6機、複葉の複座戦闘機(運用時重量:1,986kg)、1928 ・ビッカース 143(Vickers Type 143) Type 143型〜3機、複葉の単座偵察機(Bolivian Scout) ・ブレゲー 19(Breguet 19 Bomber) Breguet XIX型〜3機、複葉の複座爆撃機(最大離陸重量:2,500kg) ・CW-14 Osprey ・Travel Air 2000型〜20機、複葉練習機 ・その他 ビッカース・ヴェスパは1920年代に英ビッカース社が製造したイギリス陸軍のための地上協同機なるも、イギリス空軍には採用されず、ボリビアとアイルランドに少数が採用されました。ボリビア軍機はチャコ戦争に参加するも、低高度での戦闘ではあまり活躍できませんでした。ブレゲー19は仏ブレゲー社で製造された軽爆撃機(偵察機)で、下翼が上翼よりも短い複葉機。1923/9月にフランス空軍に採用され、ジュラルミンを多用し、当時の爆撃機の速度を凌駕し、一部の戦闘機よりも高速であったため、多くの国から注目され、競技機、記録飛行の成功でさらに評判が高まり、フランス空軍向けに多数が生産され、また多くの国に輸出されました。 ▼チャコ戦争の総括表(数字は諸説有)
戦争はボリビア軍のグラン・チャコへの焼き討ちという奇襲攻撃で開戦。不意を突かれた国境付近のパラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス要塞はボリビア軍の戦車など、第1次世界大戦後のヨーロッパから購入した最新兵器と数を頼みにする兵力の前に、瞬く間に攻略されました。ところがその後の戦いでは、ボリビア軍はチャコ地方とは気候風土が全く違う高地のアンデス地域の人たちが多くいたので、戦車兵は暑さに耐えきれず開閉部のドアを開けたまま走行したため、そこを手榴弾で攻撃されるといった事態が続出して、最新兵器も威力を発揮できなかったといわれています。 ▼チャコ戦争の略史:〜 チャコ戦争の開戦前に、ボリビアはチャコ地方に植民地政策を進め、ピルコマヨ川沿いのバビリアン(Ballivian)と グアチャリャ(Guachalla)に要塞を建設。これに対して1931年にパラグアイも各所に要塞を建設。 1927年、ソルプレッサ(Sorpreso)要塞が ボリビア軍に攻撃され、パラグアイ兵数人が死亡 1929年、世界大恐慌(The Great Depression)が起る。 ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落「暗黒の木曜日」(10/24:Black Thursday) 1931/3、パラグアイがチャコ地方でピチァンツタ湖の近郷に カラレス(Corrales) トレド(Toledo) ボスケン(Boqueron)の要塞を造る 1931/7、ボリビアがパラグアイの砲艦配備に抗議してパラグアイとの国交を断絶 1932/4、ボリビアの高知部隊(High Command)が地理不案内で、空軍機が上記3要塞を爆撃 1932/5/10、パラグアイ政府は正式にボリビアに宣戦を布告 1932/6/15、ボリビアがパラグアイ側チャコ地方に武力侵攻を開始、チャコ戦争が勃発 ピチァンツタ湖事件(Pitiantuta Lake Incident) 1932/7/15、第2次カルロス・アントニオ・ロペス要塞の攻防戦 1932/7/16、パラグアイ軍がボリビア軍を追い払って、C.A.ロペス要塞を奪取 1932/8/30、停戦協定が締結されるも、 ボリビアは6,000人の部隊を密かに4,000人の精鋭部隊で強化 パラグアイは10,000人の軍に動員を掛ける 1932/9/09、パラグアイ軍がボケロンのポイ島 (ISLA POI)に軍隊を集結 ボリビアとボケロンの戦いが始まる 1932/09/29、ボケロン要塞の攻防戦が終結、パラグアイの勝利 1932/11/07、キロメトロ7の戦いが始まる 1933/11/11、ボリビア軍2個師団がカンポ・ビアの戦いで破れて降伏 パラグアイ軍が敵兵士8000人を捕虜にし、 大砲20門、トラック60台、他多くの武器を手中にする ボリビアのクンズ指揮官は指揮権を剥奪されて失意のうちにドイツに帰国 1933/1/26、第1次ナナワの戦いが終結、パラグアイの勝利 1933/2、キロメトロ7の戦いが終結、ボリビアの勝利 1933/2、カンポ・ホルダンの戦いが終結、ボリビアの勝利 1933/7-8月、ボリビア軍が総攻撃に出たがパラグアイ軍に打撃を与えるには至らず 1933/7/09、第2次ナナワの戦いが終る、パラグアイの勝利 1933/7/15、ゴンドラの戦いが終結、決着つかず 1933/09月、再度パラグアイ軍が反撃に転ずる 1933/9/15、カンポ・グランデの戦いが終る、パラグアイの勝利 1933/12月、カンポ・ヴィア・ポケットの戦いが終る、パラグアイの勝利。この時点で開戦から 1年半が過ぎ、パラグアイ軍の機械化が遅れて進撃速度が遅く、ゆるゆると進撃 1934/5/25、カニャーダ・ストロンゲストの戦いが終る、ボリビアの勝利 1934/12月、パラグアイ軍がイレンダグエの戦いに大勝 さらにパラピティ川にまで到達 1935/4/05、パラグアイ軍がパラピティ川を渡りサンタクルスからチャラグアに至って ボリビアの都市チャラグアの戦いに勝利、占領 その後、戦線は膠着状態となる 1935/6/12、アルゼンチンの仲介で休戦条約が結ばれ、実質的な戦闘が終了 休戦協定に不満のパラグアイ軍部の将校達は公然と政府に攻撃を加えたので 先手を打ってアヤラ大統領が将校の指導者だったラファエル・フランコ大佐を追放 1936年、この休戦に力を尽くしたアルゼンチンの政治家カルロス・サアベドラ・ラマス (Carlos Saavedra Lamas、1878-1959)がラテンアメリカ初のノーベル平和賞を受賞 1936/2/17、パラグアイのクーデターでアヤラ政権が崩壊し、亡命先のアルゼンチンから帰国 したフランコ(在任1936/2/17-1937/8/13)が新たな大統領に就任。文民政府の批判 1954年、パラグアイの軍人アルフレド・ストロエスネル(Alfredo Stroessner、1912-2006)が 大統領(-1989)となり、8期35年間に渡り独裁者として君臨。 1935/6月に長引く戦争のため財政的に苦しくなっていたパラグアイはアルゼンチンの仲介でボリビアとの休戦協定に調印。1938/7月にブエノスアイレス講和条約でチャコ戦争が集結して、パラグアイは植民地時代からチャルカスとアスンシオンの間で争われていた約5万kuの広大なグラン・チャコ地方の領有権を獲得し、国境線はほぼパラグアイの主張通りに決定されました。ボリビアはパラグアイ川につながる小さな領土のプエルト・ブッシュ(Puerto Busch、ボリビアの地図で東側に小さく飛び出した部分)と、パラグアイ河の一定の自由通行権をを獲得しました。チャコ地方は高温で水の乏しい地域であり、戦闘は過酷なものでした。両軍は敵との戦いとともに、マラリア等の病気とも闘わなければならず、ボリビア側には5万人から6万人、パラグアイ側には4万人の死者が出たとも言われています。当時のボリビアの人口は約300万人で、国民50人に1人がこの戦争で命を失いました。また、この戦争による損害はパラグアイ軍の捕虜のボリビア兵30万人が、その大部分は養いきれないため殺されたともいわれています。パラグアイ側は戦死者が多い割には得たものが期待通りにはならなかった上に、当時の世界恐慌の影響もあって経済的にも疲弊しました。両国ともにその後の政変に繋がったとされています。 ▼チャコ戦争の攻防戦:〜 ・第1次カルロス・アントニオ・ロペス要塞の攻防戦 (1932/6/15)、ボリビアが攻略 Fort Carlos Antonio Lopez 別名:ピチァンツタ湖事件(Pitiantuta Lake Incident) 場所:チャコ地方(Chaco region)のピチァンツタ湖(Pitiantuta Lake)近郷 ボリビアが外国製の最新兵器でピチァンツタ湖近郷を焼払ってC.A.ロペス要塞を奪う ボリビア軍は戦車、火炎放射器、戦闘機でパラグアイ軍を襲い、瞬く間に要衝を攻略 ボリビア軍はアスンシオンから僅か200km付近の地域まで迫る ・第2次カルロス・アントニオ・ロペス要塞の攻防戦 (1932/7/15)、パラグアイが奪取 Fort Carlos Antonio Lopez 場所:チャコ地方(Chaco region)のピチァンツタ湖(Pitiantuta Lake)近郷 パラグアイ軍がC.A.ロペス要塞を奪取 参考HP:〜 ・C.A.ロペス要塞の戦いの地図 ・ボケロン要塞の攻防戦 (1932/9/7〜9/29) Battle of Boqueron パラグアイ軍がボケロン要塞を奪取 ボケロンの戦いで、パラグアイ軍はボケロンのポイ島(Isla Poi)に軍を終結してボリビア軍との激戦を制覇。チャコ戦争最大の激戦地ボケロン戦場はアスンシオンの西北方約360kmに有。
・キロメトロ 7 の戦い (1932/11/7〜1933/2) Battle of Kilometer 7 (Fort Saavedra)
参考HP:〜 ・キロメトロ7の戦いの地図 ・第1次ナナワの戦い (1933/1/20〜26) First Battle of Nanawa
・第1次ナナワの戦いの地図 ・カンポ・ホルダンの戦い (1933/2) Battle of Campo Jordan
・第2次ナナワの戦い (1933/7/4〜9) Second Battle of Nanawa
・第2次ナナワの戦いの地図 ・ゴンドラの戦い (1933/7/11〜7/15) Battle of Gondra 戦場:コンポ・ヴィア(Campo Via)東方で、ゴンドラ西6kmの場所
・カンポ・グランデの戦い (1933/8/30〜9/15) Battle of Campo Grande
参考HP:〜 ・カンポ・グランデの戦いの地図 ・カンポ・ヴィア・ポケットの戦い (1933/11〜12) Battle of Campo Via pocket
カンポ・ビアの戦いでパラグアイが勝利して戦線はボリビア領内に移行。この戦いでボリビア軍から接収した兵器弾薬の量は開戦時のパラグアイ軍のそれを上回っていたといわれています 参考HP:〜 ・カンポ・ヴィア・ポケットの戦いの地図 ・カニャーダ・ストロンゲストの戦い (1934/5/10〜5/25) Battle of Canada Strongest
・カニャーダ・ストロンゲストの戦いの地図 ・ボリビアの都市チャラグアの戦い (1935/4/5) Charagua, Cordillera Province, Santa Cruz Department, Bolivia パラグアイ軍がパラピティ川(Rio Parapiti)を渡河、サンタクルスからチャラグア市を占領。 パラグアイがボリビア領で初めて、チャラグアを占領。これがパラグアイ軍の限界で、開戦以来負け続けていたボリビア軍は、パラグアイ軍がアンデス地方に迫ってくると、既にパラグアイの財政は戦費で破綻寸前になっていたこともあって、アンデスの気候がパラグアイ軍にとって厳しいものとなり、しかも犠牲をものともしないボリビア軍の英雄的な戦いに、パラグアイ軍は攻めあぐね 、ボリビア東部の主要都市のサンタクルスにたどり着けませんでした。こうして戦線が膠着状態に陥り、1935/6月にアルゼンチンの仲介で休戦条約が結ばれ、実質的な戦闘が終了しました。 参考HP:〜 ・コルディレラ県の地図(Charagua有) 参考:〜 ・テレレ Terere(マテ茶の一種) チャコ地方は水の乏しい所で、泉があっても泥水だということが殆どで、そんな中でもマテ茶で濾過した「テレレ」を飲んだパラグアイ兵は体調を悪くすることなく戦い続けたので、パラグアイでは勝利はマテ茶のおかげだと信じられているといわれています。テレレ(Terere)は冷水でいれるマテ茶(Yerba mate)の飲み方の一種で、グアラニー族伝統の飲み物。パラグアイでは現在もよく飲まれています。 参考HP:〜 ・チャコ戦争の場所地図 ・チャコ戦争の地図(戦闘場所:6ヵ所付) ・チャコ戦争の動画(YouTube、写真集) ・プエルト・ブッシュの場所地図(ボイビア:Puerto Busch)
こちらでチャコ地方をお楽しみください。 参考HP:〜 ・南アメリカの地図(日本語:国別地図) ・チャコ地方の場所地図 ・グランチャコの場所地図 ・ボリビアのチャコ地方の場所地図 ・パラグアイの地図 ・パラグアイ河の場所地図 ・三国同盟戦争でパラグアイが失った場所の地図(斜線の2ヵ所) ・ボリビアの地図 ・ボリビアの県区分地図 ・ボリビアの県区分地図(日本語) ・太平洋戦争でボリビアが失った場所の地図(黒枠斜線の所) こちらで、領土の帰属をめぐる紛争地帯の ・南砂諸島 ・西砂海戦 ・北方四島 ・竹 島 ・尖閣諸島 ・ガ ザ ・パレスチナ紛争 ・フォークランド戦争 ・キューバ危機、をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/1/15 |