きってでつづる ころんぶすのだいぼうけん ぼうけんキッズ 4
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(4)コロンブスの生い立ちの記 ころんぶすのふなでのき | C・MENU | もどる | すすむ |
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パロス・デ・ラ・フロンテラの港へ。 1492/4/17コロンブスはサンタ・フェでスペイン国王夫妻に謁見して「サンタ・フェの協約」を締結しました。そして、船出の準備をするためバロスの港へ行きました。 そこで、ピンゾン兄弟とであいました。 |
←海のむこうを指さす コロンブスの像 コロンブスは国王から航海のゆるしがおりたので、バロスの港で、船乗りを集めようと、「さあ、海の向こうの黄金の国”ジパング”、そしてインドへ行こう!」とよびかけました。 ←赤道ギニア共和国から、コロンブスの新大陸発見500年記念として1992年に発行された切手・組合せ小型シート |
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←嵐を起こす風の神 ところが、昔の船乗りはとても迷信(めいしん)ぶくて、知らない海へ行くと、風の神さんが嵐をおこし、海の魔物(まもの)がでてきて船を沈めると信じていましたので、コロンブスと一緒に行く船乗りはなかなか集まりませんでした。 ←海の魔物 ←アンチグア・バーブダから、コロンブスの新大陸発見500年記念として1992年に発行された切手・小型シート |
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←アロンゾ・ピンゾン船長 コロンブスのピンゾン兄弟との出会い。 出発地パロスでは乗組員を集めるのに苦労しました。よそ者のもとで未知の海へ向かおうという船乗りはいなかったのです。ラ・ラピダ修道院のフワン・ペレス神父にマルティン・アロンソ・ピンソンを紹介してもらったことで状況が一変しました。ピンソン家は地中海からカナリア諸島にかけて手広く海運業を行っていました。ピンソン三兄弟がコロンブスの航海に参加することになり、船乗り90人を集めることができました。その船乗りたちは「命しらすのならず者」ばかりで、中には「死刑囚(しけいしゅう)」もいたといわれています。 ピンソン家はスペインのアンダルシア地方の港町バロスで手広く海運業を営んでいました。コロンブスが航海の準備をバロスで進めた時に、この三兄弟が協力を惜しみませんでした。「未知の海への航海」に不安を抱き、参加を渋っていた船乗り達を説得して参加させたといわれています。彼らの協力無くしてはコロンブスは出発できなかったとも伝えられています。 (長兄)マルティン・アロンソ・ピンソン 〜ピンタ号の船長になりました (次弟)フランシスコ・マルティン・ピンソン〜ピンタ号の水夫長になりました (末弟)ヴィセンテ・ヤネズ・ピンソン 〜ニーニャ号の船長になりました ←ビセンテ・ピンゾン船長 |
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←ファン・デ・ラ・コーサ船長 サンタ・マリア号の持ち主のファン・デ・ラ・コーサが参加を申し込んできました。コーサはポルトガルのバーソロミュー・ディアズのパイロット(水先案内人 みずさきあんないにん)として、1488年にアフリカ南端(なんたん)への航海をして喜望峰(きぼうほう)を発見(はっけん)しました。また、地図製作者(ちずせいさくしゃ)でしたので、ポルトガルからおおくのあたらしい地図をスペインにもってかえっていました。 |
こうして、コロンブスの船隊がへんせいされました。スペインのイサベラ女王の支持(しじ)をえたコロンブスは3隻の船隊と90人の船乗りを準備できました。ナウ船の旗艦サンタ・マリア号、カラヴェル船のピンタ号、ピンネス船のニーニャ号の3隻でした。 |
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総司令官 (そうしれいかん) クリストファー・コロンブス |
旗艦(きかん)のサンタ・マリア号 グレナダ 1992 発行 |
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サンタマリア号 |
ピンタ号 |
ニーニャ号 |
サンタマリア号の船長 | ピンタ号の船長 | ニーニャ号の船長 |
ファン・デ・ラ・コーサ船長 |
アロンゾ・ピンゾン船長 |
ビセンテ・ピンゾン船長 |
コンゴ 1992/10/21 発行 |
コロンブスは西アフリカで交易(こうえき)していたときとおなじように、金(きん)とこうかんするための 「ビーズ玉などのガラスせいひん、しんちゅうの腕輪(うでわ)や首飾(くびかざ)り、赤いボンネットぼうし」 などをたくさん船につみこみました。そして、まず 「黄金の国」 ジパングに行って金を大量(たいりょう)に、てにいれてから、中国(ちゅうごく)やその他のアジアの港に行って、香料や絹(きぬ)やその他のヨーロッパで貴重(きちょう)だった商品(しょうひん)を大量(たいりょう)に仕入(しい)れて、スペインに持ってかえって、大もうけをしようと思っていました。 |
↓ シェラレオーネから、コロンブスの新大陸発見500年記念として発行された切手 ↓ | ||
←ドゥカート金貨、サンタ・マリア号、 アイザック・アブラヴァナル(出資者) |
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アストロラーベ、ピンタ号、 アブラハム・ザクート(天文学者)→ |
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←マラベーラ金貨、ニーニャ号、 ルイス・デ・サンタンヘル(出資者) |
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通訳(つうやく)としてのりくんだ ”ルイス・デ・トーレス”→ |
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←イサベラ国王夫妻の見送りを受ける コロンブス、ガイアナ1992発行 |
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バロス港で船出前にインドへの 無事な航海を祈るコロンブス 昭和5年(1930/9/20)スペイン発行→ |
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←出港(しゅっこう)してゆく、コロンブスの船隊(せんたい) イタリアからコロンブスの新大陸発見500年記念(ころんぶすのしんたいりくはっけん500ねんきねん)として1992年に発行された切手 |
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スペインをはなれるコロンブス→ |
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←ニーニャ号、サンタ・マリア号、ピンタ号 41才のコンブスは、1492/8/3(金曜)の朝8時にティント川のバロス港から川をくだり川口近(かこうちか)くでオディエル川と合流(ごうりゅう)したサルテス川にはいって、やがて大西洋へと船出して、1493/3/15(月曜)の正午にバロス港へ帰ってくるまでの7ヵ月と12日(224日)間の航海へと旅立(たびだ)ちました。 ←見送りの人たち |
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バハマ諸島からコロンブスの新大陸発見500年記念 (ころんぶすのしんたいりくはっけん500ねんきねん) として、1992年に発行された切手の小型シート |
←この山は「ジブラルタル・ロック」と 名前がつけられています。 ←ピンタ号、ニーニャ号、サンタ・マリア号 バロス・デ・ラ・フロンテラ港から地中海の西の出口「ジブラルタル海峡(かいきょう)」を通って大西洋の航海へと旅立(たびだ)ちました。 ←ジブラルタル海峡を通るコンロンブスの船団(せんだん) ←ジブラツタルからコロンブスの新大陸発見500年記念(ころんぶすのしんたいりくはっけん500ねんきねん)として1992年に発行された切手の小型シート |
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かくして、コロンブスはスペインのパロス港をあとに出帆して、一路(いちろ)アジアのインド・ジパング(日本)へと船出しました。コロンブスの航海日誌(こうかいにっし)はなくなりましたが、ラス・カサス神父がかきうつしていた写本(しゃほん)がのこっているので、コロンブスがどんな航海をしたかを知ることができます。
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