きってでつづる ころんぶすのだいぼうけん
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(3)コロンブスの生い立ちの記 ころんぶすのすぺいんゆきのき | C・MENU | もどる | すすむ |
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コロンブスは1483年ポルトガルのジョアン2世に「西回りでインドへ行く」ことを提案(ていあん)して援助(えんじょ)をもとめましたが、ことわられたために、1485年スペインへ行きました。 ←スペイン(イベリア半島)の地図。スペイン 1996 発行 |
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←イベリア半島(はんとう)地図。スペイン2003/10/1発行 コロンブスはポルトガルのリスボンからサン・ヴィセンテ岬をまわって、スペインのサルテス川をさかのぼって、ティント川岸のバロス港へ行きました。 サグレス岬。ポルトガル1960/8/4発行 |
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ティント川に入るとすぐにあるフランシスコ会(かい)の修道院(しゅうどういん)”ラ・ラピダ”に息子(むすこ)のディエゴをあずけました。修道院長(しゅうどういんちょう)がセヴィリャのアントニオ・デ・マルチェーナ神父(しんぷ)をしょうかいしてくれました。 ←ラ・ラピダ(La Rabida)修道院。 スペイン 昭和5年(1930/9/29)発行 |
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←イサベラ女王にスペインのゴルドバで1486/4/28にはじめてあいました。 35才のコロンブスはおないどしのイサベラ女王(じょうおう)に謁見(えっけん)しました。諮問会(しもんかい)でしんぎすることになり、諮問会は1486年秋(あき)と1487年春(はる)にひらかれましたが、否決(ひけつ)されました。女王の命令(めいれい)で、もういちど諮問会でしんぎされることになりました。 |
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←諮問会でのコロンブスの「提案」 コロンブスは諮問会で「西回りインド行きの提案」をねっしんに説明(せつめい)しました。 ↓100年後に発行されたおなじ図(ず)の切手→ |
←諮問会で 提案をせつめいする コロンブス |
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←グラナダの陥落(かんらく)、ホンジュラス 発行 入城(にゅうじょう)する馬上(ばじょう)のイサベラ女王 1492/1/2にグラナダへイサベラ女王が入城。その入場式(にゅうじょうしき)のすぐあとで、女王の面前(めんぜん)によびだされたコロンブスは、「提案が否決」されたことをもうしわたされました。 |
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コロンブスは、しかたなく1492年1月に息子のディエゴをつれて、フランスへと旅立(たびだち)ちましたが、グラナダから15キロほどのところにある”ピノス・ブエンテ”村(むら)にきたとき、イサベラ女王のつかいがおいついてきて
「女王が航海をゆるすので、もどりなさい!」 といっていることをつたえました。 ←フランスの地図(色は国旗の3色)。スペイン 1999/5/28 発行 |
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←ルイス・デ・サンタンヘルはアラゴン王国の会計官(かいけいかん)をしていて、コロンブスの味方(みかた)でした。左のまるいのはマラベディ金貨(きんか) サンタンヘルがイサベラ女王にあって 「コロンブスの提案」 をおうえんするようにはなしました。女王は考えをかえて、100万マラベティを援助するので、コロンブスをよびもどすようにめいじました。そのつかいがコロンブスに、ピノス・ブエンテ村でおいついたので、コロンブスはグラナダへとひきかえしてきました。 |
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←イサベラ女王夫妻(じょうおうふさい)に謁見(えっけん)して、女王から航海のゆるしをうけるコロンブス さあ、いよいよ船出! |
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←「サンタ・フェの協約」、イサベラ女王とコロンブスとの契約書。 アルゼンチン1989/9/16コロンブス新大陸発見500年記念発行 1492/4/17コロンブスはスペインのサンタ・フェでイサベラ女王夫妻に謁見して「航海の契約 こうかいのけいやく」をかわしました。それは「サンタ・フェの協約 さんたふぇのきょうやく」とよばれています。その契約には ・発見した陸の提督・副王・総督(ていとく・ふくおう・そうとく)になること ・金・銀・真珠・香料(きん・ぎん・しんじゅ・こうりょう)などの財宝(ざいほう)の「十分の一」(じゅうぶんのいち)を無税(むぜい)でうけとること などがかいてありました。 |
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コロンブスと コロンブスの盾の”紋章”(たてのもんしょう、Coat of Arms) ←モントセラット 1992/1/16 コロンブス新大陸発見500年記念発行 |
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・これまでの説明 (せつめい) コロンブスはイタリアのジェノバというところで、1451年に生(う)れました。コロンブスは大きくなると貿易(ぼうえき)という商(あきない=しごと)のために、スペインや、ポルトガルから、イギリスや、さらにみなみのカナリア諸島(かなりあしょとう)まで、船でいっていました。 スペインからカナリア諸島(しょとう)までは約(やく)1000km、アフリカからは約108kmはなれています。コロンブスはゴメラ島(しま)のサン・セバスチャン港(みなと)へ行っていました。なお、カナリア諸島は日本(にほん)の奄美大島(あまみおおしま)と、ほぼおなじ緯度 (いど)、(北緯27度37分-29度24分)にあります。 大きくなって大勉強(べんきょう)して、とくにポルトガルに行ってからは地図(ちず)を勉強して、そのラテン語(ご)のせつめいをよむことができるようになっていました。そのうえに、地図製作(ちずせいさく)もできるようになりました。そして1476年には、さらに西(にし)の海(うみ)がどうなっているかをしらべるために、アイスランド島のもっと西のほうまで航海(こうかい)しました。 1479年にポルトガルで25才の”フェリパ”という人と結婚(けっこん)して、1480年ごろディオゴが生れましたが、フェリパ夫人(ふじん)はまもなくなくなったといわれています。 そのころのスペインは、カスティリヤ王国とアラゴン王国とグラナダ王国にわかれていました。グラナダ王国はスペインでの「イスラムのさいごの王国」でしたが、1492年にほろびました。イサベラ女王はイスラムとの戦争(せんそう)には勝利(しょうり)しましたが、戦争でお金(かね)をつかってしまったので、コロンブスの航海には許可(きょか)をあたえただけでしたが、自分(じぶん)の「ネックレスやリング」の宝石(ほうせき)を質(しち)にいれて、すこしだけお金のえんじょをしたといわれています。航海にかかるお金は、コロンブスがジェノバ人の銀行(ぎんこう)や商人から借(か)りたお金12%、サンタンヘルの友だちでアラゴン王国のサンタ・エルマンダーの会計官でジェノバ人フランチェスコ・ピネリが70%、サンタンヘルがアラゴン王国のお金を17%、その他だった(200万マラベディ、今のお金で2億円?)と伝(つた)えられています。 |
←コロンブスとキオス島 なおキオス島は、1346年にイタリアのジェノバの船隊(せんたい)が うばいとりましたが、1564年にオスマン・トルコにとりもどされ、 ギリシャ独立戦争後の1832年独立でギリシャ領が確定しました。 |
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令和 R.3/9/13(2021)追記
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