★アメリカ 冒険航海(Adventure Voyage)
ジョナサン・ランバート
1810
トリスタン・ダ・クーニャ島上陸
大航海物語★

Tristan da Cunha
ランバ|ト 野菜などを栽培するランバート達

Jonathan Lambert of Salem 1810
トリスタンダクーニャ島発見500年記念
トリスタンダクーニャ 2006/2/1 発行
カリ|とミレ|

太西洋中央海嶺 TDC島の場所 PANAMA
19世紀の捕鯨船

パナマ 1968/5/7 発行
南アメリカ アフリカ
アセンション島

セントヘレナ島

トリスタンダクーニャ島

ゴフ島

ブーベ島

南極大陸
トリスタンダクーニャ 1980 発行

トリスタン・ダ・クーニャ島グループ トリスタンダクーニャ島
イナクセシブル



←トリスタンダクーニャ島→



ストルテンホフ島
ミドル島
ナイチンゲール島


ゴフ島

(ブーベ島)
トリスタンダクーニャ  1980/12/15 発行

イギリス軍の上陸、1816/8
トリスタンダクーニャ島での船の遭難
トリスタンダクーニャ 1983/8/1 発行

アメリカの港湾都市セイラム生れのランバートは、独立(1776/7/4 )間もない頃の活発な情勢の中で、大西洋のど真ん中に無人島のトリスタン・ダ・クーニャ島があることを聞き、海外で一旗上げようと思い立ち、捕鯨船バルチック号に乗組みアメリカを後にしました。数週間後、島に飲料水の補給に立寄った船を仲間と降りて住みつき、新鮮野菜などの食料を生産して、島に寄港する船舶へ販売して大儲けしました。そして儲けた金を島の何処かに隠しました。。。。。という伝説が真しやかに船乗りの間で語り継がれました。
ジョナサン・ランバート (生年不詳〜1812/5/17)
 Jonathan Lambert

  リフレッシュメント(トリスタン・ダ・クーニャ)諸島国王
  在任:1810/12/27(狭義1811/2/4)〜1812/5/17
  King (Governer) of Refreshment Islands (Tristan da Cunha Islands)
ジョナサン・ランバートはアメリカ合衆国マサチューセッツ州エセックス郡セイラム(Salem, Essex County, Massachusetts, USA)生まれの船乗りで、1810/12/27にボストンの捕鯨船(Whaler)バルチック号(Boston ship the Baltic)でトリスタン・ダ・クーニャ島に2人の部下と上陸、諸島最初の入植者となりました。

<上陸>
  (1810/12/27、最初の入植者の3人)
・ジョナサン・ランバート
  アメリカで造船所のある海運業の盛んなセイレム出身のアメリカ捕鯨船乗組員。
・トーマス・カリー(Thomas Currie、from Livorno, Italy、?〜1812/5/17水死)
  自由港のある国際都市イタリア・リボルノ出身のトマソ・コッリ(Tomasso Corri、イタリア移民)
  イギリスの遭難船セイラミス号(HMS Seiramis, 1813)の生存者説有。
・アンドリュー・ミレー(Andrew Millet、生年不詳〜1812/5/17水死)
  クィーン・シャルロッテ号(Queen Charlotte)で来島した乗組員説や
  本名不詳のウィリアムズ(Williams)説有。

上陸すると彼らは島を大西洋を渡る船の中継基地として、来島する船へ水や食料などを供給する貿易を始めるため、キャベツ(Cabbage)などの野菜(vegetables)、小麦(wheat)とオート麦(oats)を栽培し、ブタ(pigs)を飼育しました。
1811/1/5 イギリス艦バウンティ号事件(1789)のピーター・ヘイウッド(当時は16才の候補生)が事件から21年後、37才でネレウス号(HMS Nereus)の艦長として、1811年勃発のアルゼンチン内戦から英国商人を保護するため、ブエノス・アイレスへの航海の途中、トリスタン・ダ・クーニャ島に寄港。其処でバルチック号と3人の男(ランバート、カリー、ミレー)に出会いました。そしてヘイウッド艦長はバルチック号の船長から、3人の男をアメリカから連れてきたことと、1年前にアザラシ狩りをするための漁師の一団をゴフ島という島に上陸させたので、これから彼らを迎えに行くところだという話を聞く
1811/1/6 ネレウス号がバルチック号より先に出帆。わざわざ航路を外れて、トリスタン・ダ・クーニャ島から南東へ350km離れた所にあるゴフ島に向かいました。ヘイウッド艦長はバルチック号が迎えに来る前に漁師の引き揚げの手伝いをしました。イギリス軍艦がアメリカ船を援助することに、イギリス艦長の人柄がしのばれます(翌年、米英戦争が勃発)
1811/1/28 イギリス商船チャールズ号(merchant Vessel Charles)がトリスタン・ダ・クーニャ島に飲料水の補給で寄港。その船長ベンジャミン・シーバー(Cpt. Benjamin Seaver)がそこで、ランバート国王に出会う
1811/1/29 イギリス商船チャールズ号が出帆
1811/1/31 イギリス商船クィーン・シャルロッテ号(Queen Charlotte)がトリスタン・ダ・クーニャ島に寄港。この時、乗組員のアンドリュー・ミレー、又は本名不詳のウィリアムズが来島したとの説有。

<王国の誕生>
ランバートは諸島の占有を宣言して宣言書を作成しました。
トリスタン・ダ・クーニャ諸島専有宣言書
 (1811/2/4署名)
ランバートは来島ほぼ1ヵ月後、諸島の占有を宣言し、宣言書に署名しました。その宣言書は、南アフリカ・ケープタウンの新聞社とアメリカのボストン・ガゼット紙(Boston Cazette)に掲載されました。
主な内容:〜
 @諸島の占有を宣言し、国王(King of Islands)となる
 A諸島での新鮮野菜栽培など食料を生産する
 Bそれらの食料を来島船舶へ供給して貿易する
 C諸島を次のように改名する
  ・リフレッシュメント諸島(レセプション島(Reception)説有)
   (Islands of Refreshment)〜旧名:トリスタン・ダ・クーニャ島
ランバートが王国旗を制定

Flag of 1811, Isles Refreshment
トリスタンダクーニャ 1985/9/30 発行
  ・ピンサード島
   (Pinsard Island)〜旧名:イナクセッシブル島
  ・ラヴェル島
   (Lavel Island)〜旧名:ナイチンゲール島
 D島の国旗を制定し、滝の向かい側に掲揚する
 E自宅の住居地名を
   レセプション(Reception)とする・・・・・など々
署名者:ジョナサン・ランバート
署名立会人:アンドリュー・ミレー。

1811/3/2 シーバー船長が南アフリカ・ケープタウンのロバート・ストップフォード少将(Rear Admiral Robert Stopford, 1768-1847)へ 手紙を送って、
・ランバート国王が島で大根(Radishe)やキャベツを栽培していることや、
・イギリス政府の承認と援助があればイギリスと同盟を結び、島に英国旗を掲げる
と言っていると記しました
1811/7/18 ボストン・カゼット新聞がランバート国王のトリスタン・ダ・クーニャ諸島専有宣言書を掲載
1812/2月 ランバート国王はシーバー船長に託して南アフリカ・ケープタウン総督ケイルドン伯爵(Du Pre Alexander, 2nd Earl of Caledon, 1777-1839)に子羊と種子の提供を頼みました
同じ頃 ランバート国王がストップフォード少将へ島の生産物の巨大なキャベツを進呈
1812/3/31 ケープタウン総督ケイルドン伯爵がランバート国王へ子羊と種子を贈与

王国の滅亡
 (1812/5/17)
1812/5/17に食料用の釣行中に、ランバート国王、カリー、ミレーが釣り船(boat)から転落、溺れて亡くなり、ランバートの王国が短命で滅びました(ボート釣り事故説)。
※注記:〜
なお、王国の滅亡については、
・岩場事故説
  彼らが島の岩場で釣りをしていた時に波にさらわれたとする説
・消息不明説
  ランバート国王、ミレーともう1人の島住民ウィリアムズの3人がカリーと意見の衝突があって、
  ピンサード島に行ったまま消息不明になったとする説
・暗殺説
  トーマス・カリーがランバート国王達を殺害して、1816年迄の4年間、島で暮らしていたとする説
の三つの異説があります。

<その後>
1812/10/12 イギリス駆逐艦ニジェール号(British 32-gun Frigate Niger)が飲料水の補給で寄港
1812/6/18 米英戦争(〜1815/2/18)が勃発
トリスタン・ダ・クーニャ島がアメリカ海軍の基地として使用される
1813 セイラミス号(HMS Seiramis)がトリスタン・ダ・クーニャ島に寄港して、ランバート国王ら3人が釣り事故で亡くなり、カリーが一人で生存と報告、秘密の宝物があるとの噂が流れる
1815/3/23 アメリカ海軍のブリッグ艦ホーネット号(brig USS Hornet 1805) とイギリス海軍の大型スループ艦ペンギン号 (sloop HMS Penguin) が、島付近で交戦
1815/6/18 ワーテルローの戦いでナポレオン1世が敗れる、その後セントヘレナ島へ流刑となる
1816/8月 イギリス軍がファルマス号(HMS Falmouth)で上陸、マルコム砦(Fort Malcolm)に駐屯
1816/11/28 英国軍艦フラマス号でウィリアム・グラス伍長がトリスタン・ダ・クーニャ島に到着、上陸
1817/10/1 英艦ジュリア号(16-gun brig-sloop HMS Julia)がトリスタン・ダ・クーニャ島で遭難・沈没
1819/8/14 ナポレオン1世がセントヘレナ島へ流刑になる(1815/10月)と、トリスタン・ダ・クーニャ島をイギリス南アフリカ植民地の総督チャールズ・ヘンリー・サマセット卿(General Lord Charles Henry Somerset PC、1767-1831)がケープの属国として認可し、正式な併合を宣言
1938/1/12 〜現在、トリスタン・ダ・クーニャ島は英領セントヘレナに所属。

参考HP:〜
エセックス郡セイラム(Salem, Essex County)の場所地図
マサチューセッツ州の場所地図
北米のマサチューセッツ州エセックス郡の場所地図

”The Annals of Tristan da Cunha”(PDF)
トリスタン・ダ・クーニャ島の地図
トリスタン・ダ・クーニャ諸島の地図
トリスタン・ダ・クーニャ島の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     2016/9/16
スタンプ・メイツ
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