★スペイン ガスパル・ド・ポルトラ総督
1769
カルフォルニア・サンディエゴ建設
大航海物語★

ESPANA

スペイン 1986/11/6 発行
ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galeon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行

MEXICO
バハ・カリフォルニア半島

メキシコ 1997 発行
サンディエゴ

バハ半島



MEXICO

メキシコ 1915-16 発行
←メキシコシティ
←ベラクルス
←ユカタン半島

スペイン生れのガスパル・ド・ポルトラは大西洋を越えてヌエヴァ・エスパーニャに渡り、メキシコのバハ半島アルタ・カリフォルニア総督を務め、サンディエゴとアルタカンタラの街を建設し、故国へ帰ることもなく同地で亡くなりました。

ドン・ガスパル・ド・ポルトラ・イ・ロヴィラ (1717〜1786)
 Don Gaspar de Portola i Rovira
 soldier, governor(Baja, Alta California 1767-1770), explorer, founder(San Diego, Monterey)
ポルトラはスペイン北部のカタルーニャ州リェイダ県オス・デ・バラグア(Os de Balaguer,Lleida,Catalonia, Spain)の貴族の家に生まれ、スペイン陸軍に入隊してイタリアとポルトガルで戦い、1734年に士官になり、1743年に中尉(lieutenant)になりました。1767年にイエズス会宣教師が新大陸で財宝を溜め込んで隠しているという噂がスペイン王宮内で広まり、スペイン王カルロス3世(Charles III 1716-1788)はニュースペイン各地の総督に、イエズス会士を逮捕、国外追放にせよと命じました。その後、ヌエバ・エスパーニャの一部であるスペイン領カリフォルニア州が、北のフランシスコ会伝道所と南のドミニコ会伝道所のふたつに分けられました。

ポルトラが何時、新大陸に渡ったのかは定かではありませんが、1767年にフランシスコ会の北部カリフォルニア(バハ半島”Baja California”とアルタ・カリフォルニア”Alta California”)の総督に任命され、1770年まで務めましたので、その間にカルロス王の命を実行して、イエズス会士を逮捕、国外追放処分にしました。1769年にヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)のガルヴェズ総督がロシアやイギリス艦隊の脅威に備えて、1602年にセバスチャン・ヴィスカイノ(Sebastian Vizcaino 1548-1624)が発見したサンディエゴ湾とモントレー湾(Monterey Bay)の防備を固めるべく、サンディエゴ遠征作戦をポルトラ総督に命じました。

ポルトラ総督のサンディエゴ遠征:〜サンディエゴで合流する4作戦を実施。
・海路が2チーム:〜
 ・サン・カルロス号:1769/1/10ファガス船長がラ・パズを出帆、
  季節風や猛烈な嵐に遭遇、4/29サンディエゴ湾に壊血病にやられて到着。
 ・サン・アントニオ号:1769/2/15カリロ船長がラ・パズを出帆、
  古い海図の誤りで320kmロス、4/11サンディエゴ湾に到着。
・陸路が2チーム:〜
 ・1769/3/24モンカタ・クレスピ神父チームがサンフェルナンドを出発、
  5月にサンディエゴに到着して現オールドタウンに上陸し、キャンプして後続隊を待つ。
 ・1769/5/15本隊のポルトラ総督・セラ神父チームがサンフェルナンドを出発、
  6/29にサンディエゴに到着。

1769/1/10にポルトラ隊長のヌエヴァ・カリフォルニア遠征隊は、バハ半島の現バハ・カリフォルニア・スル州東岸にあるラ・パズ港(La Paz, Baja California Sur)から、サン・カルロス号(San Carlos)にポルトラ総督とフランシスコ会のフニペロ・セラ神父が乗船して出帆して、バハ半島の西岸にあるサン・フェルナンド(Mission San Fernando Velicata)に到着しました。1769/2/15にサン・アントニオ号(San Antonio)のホセ・レイモンド・カリロ船長(Captain Jose Raimundo Carrillo 1749-1809)が、ラ・パズ港を出帆しました。

1769/3/24に先発隊のフェルナンド・ド・リヴェラ・イ・モンカタ(Fernando Javier Rivera y Moncada 1725-1781)はフアン・クレスピ神父(Juan Crespi 1721-1782、日記作成)とサン・フェルナンドを出発し陸路で、5月にサンディエゴに到着して現オールドタウンにキャンプして後続隊を待ちました。5/15にポルトラ総督とセラ神父と同行する宣教師、移住者、皮ジャケット兵士の本隊がサンフェルナンドを出発しました。

サン・アントニオ号はヴィスカイノ作成の167年前の間違った海図で緯度の計算をミスして、サンディエゴを通過、現ロスアンジェルス付近に上陸してから引き返して来て、4/11サンディエゴ湾に到着。ラ・パズ港を最初に出帆したサン・カルロス号が恐ろしい嵐に遭遇し遅れて4/29にサンディエゴに到着しました。3隻目の補給船は大嵐で海の藻屑と消え去りました。6/29にポルトラ隊長の陸上部隊が到着、サンディエゴに定住地と砦を建設しました。海路では多くが壊血病などで亡くなり、バハ・カリフォルニアのサン・フェルナンドで219人いたのが100人ちょっとになりました。

1769/7/14にポルトラ総督の遠征隊はモントレー湾に向かうべく、クレスピ神父と63人の皮ジャケット兵士(leather-jacket soldiers)がラバ100頭に食料荷物を満載して北へとサンディエゴを出発。ポルトラ総督一行は1日2〜4リーグ(約10〜20km)歩いて、8/2現在のロサンゼリス(Los Angeles)到着。サンタモニカ(Santa Monica)、サンタカラリタ(Santa Clarita)へと進み、8/19サンタバーバラ(Santa Barbara)、9/13にサンシメオン(San Simeon)、10/1にサンタルシア山脈(Santa Lucia Mountains)、そしてモントレー湾に注ぐサリナル川(Salinas River)の川口に着きました。サンディエゴから100マイル(約161Km)、サンフェルナンドから1000Ms(約1610Km)歩いて、目指すモテトレー湾に着きましたが、霧で煙っていたので確認できませんでした。10/18にサンタクルス(Santa Cruz)、10/31にサンフランシスコ湾(San Francisco Bay)に到着。そこから引き返し、食料が尽きたのでラバを食してやっと生き延びて、1770/1/24にサンディエゴに帰り着きました。

1770/4/16にセラ神父はサンアントニオ号で、4/17にポルトラ総督は陸路で、再度のモントレー湾の探査に出発しました。ポルトラ隊は12人のカタロニア人、7人の皮ジャケット兵士、5人のバハ原住民、2人のラバ追い、クレスピ神父と後のカリフォルニア総督(1782-91)のファガス大尉(Don Pedro Fages Beleta 1734-1794)で構成されていました。ポルトラ総督とセラ神父とファガス大尉は5/24にモントレー湾に到着。6/3にカーメル(Carmel Mission)に居住地を造り、モントレー・プレシディオ(Presidio of Monterey)を建設。ファガス大尉を残留させて、ポルトラ総督は6/9にサン・ブラス(San Blas)へと出帆して、二度とアッパー・カルフォルニアには戻りませんでした。

1776年にポルトラはメキシコのプエブラ州(Estado de Puebla)の総督に任命され、1786年に69才で亡くなりました。ポルトラの晩年については定かではなく、スペインに戻って亡くなったという説もあるようです。

参考:〜
 ・リーグ(英:league)=レグァ(西:legua)≒5.20km

参考HP:〜
 ・サンディエゴ付近の地図(北米太平洋岸の地図)
 ・バハ半島の地図(サンフェルナンドを明示)
 ・メキシコ・ナヤリットのサンブラス付近の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        08/11/22

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