切手で綴る日本の城郭シリーズ
熊本城
創建:1469頃、築城:1606
日本100名城の第92番
日本 NIPPON
熊本城(熊本県)
熊本城

ふるさと切手
日本 1989/9/1 発行
宇土櫓

熊本城築城400年記念
日本 2007/8/1 発行
天守閣

城シリーズ第2集
日本 2014/7/15 発行

熊本城、(くまもとじょう)
  Kumamoto-jo castle
  (住所:日本国熊本県熊本市中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町)
      (旧:熊本市北区植木町の京町台地尖端、茶臼山丘陵一帯)
 別名:千葉城(出田氏)、隈本城(鹿子木氏、菊池氏、城氏、佐々氏、加藤氏)、銀杏城
 城郭構造:梯郭式平山城
 天守構造:連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・1600築)、外観復元(RC造,1960)
 築城主:出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城)
 築城年:1469-1487年頃
 廃城年:明治7年(1874)
 遺構:櫓・門・塀・石垣・堀
 再建造物:
   外観復元:大小天守・平櫓・馬具櫓
   木造復元:西大手門・数奇屋丸二階広間・南大手門・西出丸戌亥櫓・未申櫓・
          元太鼓櫓・飯田丸五階櫓・本丸御殿大広間
 主な改修者:加藤清正
 主な城主:加藤氏、細川氏
 指定文化財:国の重要文化財:櫓11棟・門1棟・塀1棟、国の特別史跡:熊本城跡

熊本城は、千葉城として海抜50mほどの茶臼山と呼ばれる山全体を取り込んで、15世紀後半の応仁年間(1467〜1468)に肥後国守護菊池重朝(1449-1493/12/7)代官の出田山城守秀信(いでだひでのぶ、生年没年不詳)が築城しました。現在の熊本城は、明応5(1496)に鹿子木三河守親員が隈本の地に入り、茶臼山南麓に新城を築城して、隈本城と称したのが始まりになりました。その後、安土桃山時代から江戸時代に、別名の銀杏城(ぎんなんじょう)として、加藤清正(1562-1611)が中世城郭を取り込み改築して平山城とし、熊本城に改名。加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城でした。

清正は天正16年(1588)に佐々成政(1536-1588)が、豊臣秀吉の九州征伐時の失政を問われて切腹した後の同年に肥後北半国19万5千石の領主となり隈本城に入りました。隈本城を大改修した熊本城は、加藤清正が豊臣秀吉の朝鮮出兵の文禄の役慶長の役で、朝鮮の城郭を手本にして築城、石垣にその特徴があるといわれています。その後、慶長5年(1600)に肥後南部24万石を領していた宇土城主小西行長(1558-1600)が、慶長5年9/15(1600/10/21)の「関ヶ原の合戦」で西軍の敗将となり、10/1に京都の六条河原で石田三成(1560-1600)に続いて斬首され、首は徳川家康が三条大橋に晒しました。その後の同年に肥後北部25万石を領有していた隈本城主の加藤清正が関ヶ原の合戦の戦功で行長の旧領を得て52万石となり隈本城に入り、大規模築城工事(1601-07、千葉城・隈本城の地域を含み茶臼山全体に及ぶ)に着手、慶長12年(1607)に隈本を「熊本」と改名し、肥後熊本52万石の熊本藩が成立。

清正は姫路城大坂城日本3名城に数えられる熊本城を築き慶長11年(1606)に完成を祝いました。また、城下町や道路網を整備し、新田開発、潅漑用水の整備を図り、治世を安定させました。寛永9年(1632)の加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城となった後も盛んに改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存するも、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争(1877)の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、1877年の西南戦争でも一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失しました。

1933年(昭和8年)に宇土櫓などの現存する櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定され、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定。天守閣内部には熊本市立熊本博物館の分館としての展示があり、公式には熊本城の再建天守閣内部は「熊本市立熊本博物館分館」になりました。現在の天守は1960年に再建され、宇土櫓や東竹之丸の櫓群は残存しています。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、明治22年(1889)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されました。昭和時代中期には大小天守と一部の櫓が外観復元されました。サクラの名所としても知られており、1990年に日本さくら名所100選に選定されました。平成28年(2016)4月14日発生した最大震度7の熊本地震の前震と本震など相次ぐ揺れで、現存石垣をはじめ宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元・復興建築が被災しました。

・熊本城の略史:〜
西暦年 和暦年 メモ
1469 文明年間 (〜1487)、出田秀信が千葉城を築城
1521 大永享禄年間 (〜1531)、鹿子木親員(?-1549)が隈本城を築城
1540 天文9 菊池義武(1505-1554/12/14)が相良氏や宇土氏ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北
1550 天文19 大友義鑑(1502-1550/2/28)が二階崩れの変で横死して守護の菊池義武は鹿子木氏や田島氏の支援で再び隈本城を奪還、義武が隈本城に入る
1554 天文23 菊池氏が滅亡し、菊池氏家老だった城 親冬(じょう ちかふゆ)が入城し居城とする
(親冬・親賢(チカマサ,?-1581)・久基(ヒサモト,1572-?)の三代)
1587 天正15 豊臣秀吉の九州征伐に際し、佐々成政が肥後の領主となり隈本城に入る
(城久基は薩摩の島津氏に属していたので城を明け渡し筑後国へ)
7/10 佐々成政が秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆(〜12/5)が勃発
隈本城は国人衆による猛攻を受けるも城代の神保氏張が死守して落城せず
1588 天正16 成政は切腹を命じられる
清正が肥後北半国19万5,000石の領主となり隈本城に入る
1591 天正19 清正が千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始める
1600頃 慶長5 天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる
1606 慶長11 清正が城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改める
1610 慶長15 通路で南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われ、天守に上がるには本丸御殿下の地下通路を通らなければならなくなる
1632 寛永9 加藤忠広の改易で小倉城主の細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入り
城の長塀南の坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営、以後歴代藩主の居所となる
熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発のため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出る
1870 明治3 幕末の熊本藩は学校党・実学党・敬神党の3つの勢力があるも、明治維新後に進歩的な実学党が政権を握り「戦国の余物」「無用の贅物」として城解体を新政府に願い出るも、解体方針は凍結され、城内は天守を含めて一般公開される
1871 明治4 鎮西鎮台が設置される
鎮西鎮台病院(後の陸軍病院)が置かれる
廃藩置県(1871)後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれる
花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台)が置かれる
1875 明治8 二の丸に歩兵第13連隊が置かれる
1876 明治9 神風連の乱(10/24-10/25)で反乱士族が鎮台司令官の種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧するも、1日で鎮圧される
1877 明治10 西南戦争(1/29-9/24)
2/19 午前11時40分〜午後3時まで原因不明の火災発生、
大小天守などの建物(30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失
2/21 西南戦争で政府軍の重要拠点の熊本城を西郷軍が総攻撃を開始(52日間)
西南戦争で焼失確認の建造物:大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門
焼失を免れたのは現存を除く西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門・六間櫓・書物櫓・堀預り櫓が確認されるも西南戦争後から大正期までに陸軍が順次破却
3/4-20 田原坂(たばるざか)の戦い
熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え撃退。この戦いで武者返しが役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は誰一人として城内に侵入できず「おいどんは官軍に負けたとじゃなか、清正公に負けたとでごわす」と西郷隆盛(1828-1877/9/24)が嘆く
4/23 熊本城の包囲が解ける
1884 明治17 城内に午砲台が設置され、空砲による報時業務が始まる(1941廃止)
1888 明治21 熊本鎮台を母体とする陸軍第6師団の司令部が天守台に置かれる
1897 明治30 現:監物台樹木園の場所に熊本陸軍幼年学校(1897/9/1-1927/3/31)
1917 大正6 本丸に陸軍第6師団司令部の新庁舎が落成
1927 昭和2 二の丸に熊本陸軍教導学校
1933 昭和8 熊本城(種別:城郭:宇土櫓、監物櫓など計13棟)国宝(現:重要文化財)に指定
城跡は「熊本城跡」として国の史跡に指定
1943 昭和18 二の丸に熊本予備士官学校
1945 昭和20 7/1市街地の20%を焼失した熊本大空襲など度々空襲に襲われるも焼失を免れる
古城に熊本県立第一高等学校が移転
陸軍病院が国立熊本病院、国立病院機構熊本医療センターになる
1946 昭和21 米軍が城内に施設を作った際、車両通行の妨げとして、竹之丸門が破却される
1955 昭和30 熊本城跡が国の特別史跡に指定
1957 昭和32 加藤神社が新堀町から西出丸の櫨方曲輪に遷祀
1960 昭和35 熊本県護国神社が花岡山から藤崎台に遷祀
熊本国体開催と築城350年で、熊本市は一般からの寄付も募り1億8000万円で外観復元、大小天守と平櫓、塀等を再建、本丸一帯を公園として整備し入場を有料化。天守は鉄筋コンクリート造りで内部は市立熊本博物館の分館として史料等展示、最上階は展望スペース、二の丸に水泳競技用県営プール、三の丸藤崎台に藤崎台県営野球場を整備、二の丸に各種官庁が入る合同庁舎も設置
1962 昭和37 熊本大学医学部基礎教室の移転での建物利用で熊本県立第二高等学校を開校
1968 昭和43 熊本県立第二高等学校が移転、跡地を整備し、二の丸公園として開園
1976 昭和51 二の丸跡の一角に熊本県立美術館を設置
1978 昭和53 三の丸に熊本市立熊本博物館を設置
1990 平成2 日本さくら名所100選に選定される
1993 平成5 旧細川刑部邸を三の丸に移築
1997 平成9 熊本市が「熊本城復元整備計画」を策定
2006 平成18 4/6、日本100名城(92番)に選定される
2007 平成19 築城400年、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元
2011 平成23 3/5、観光施設 桜の馬場 城彩苑が開業
2016 平成28 4/14:21時26分以降発生の熊本地震(最大震度7)で被災。

こちらで
洲本城
順天倭城

世界遺産の
姫路城 (日本)
サンマリノ (サンマリノ共和国)
エル・エスコリアル宮殿 (スペイン)
ナン・マトール遺跡 (ポンペイ島)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。  2009/6/26, 2018/8/28
スタンプ・メイツ
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