切手で綴る 太平洋戦争 物語 第3部 <米国(連合軍)の反攻> 第18章 フィリッピン 98 <米軍、ルソン島上陸> 1945/1/9 米軍、リンガエン湾上陸 |
ダグラス・マックアーサー大将 Gen.Douglas Macarthur 1880-1964 Oct. 20 1944 MacArthur Returns Phillipinas パラオ 1994 発行 |
リンガエン湾へ急ぐ米艦隊 Pensylvania, Colorado, Louisville, Portland, Columbia 1945 太平洋戦争の終結50周年記念 1995 シエラオーネ 1995 発行 |
米軍、リンガエン湾へ上陸 フィリピン 発行 |
・米軍、ルソン島上陸、1944/12/15、米軍の勝利 ・ルソン島の戦い、1945/1/6〜1945/8/15 (Battle of Luzon、1945/1/9〜1945/8/15) 場所:フィリピン共和国北部ルソン諸島にある最大の島 (Luzon Island, Republic of the Philippines) <序章> ・米軍のミンドロ島上陸、昭和19年12月15日 ・ミンドロ島の戦い、1944/12/15〜2月下旬 (Battle of Mindoro、1944/12/13〜、1944/12/16) 1944/12/15、米軍を主体とする連合軍がルソン島奪回の足がかりにミンドロ島へ上陸を敢行、島は戦場と化しました。帝国海軍は上陸した米軍に打撃を与えるべく「礼号作戦」を実施、マンガリン湾に7隻の挺身艦隊を突入させ米軍に被害を与え離脱しました。これは太平洋戦争における帝国軍最後の勝利となるも、戦況に大きな影響はなく、ミンドロ島の帝国軍は山岳部に敗走し、飢餓と疫病、地元ゲリラとの戦闘で多くが死亡しました。作家の大岡昇平氏はミンドロ島で捕虜となり、後にこの島を舞台とした数々の戦記小説を書いているほか、1956年になってもミンドロ島からは4人の残留帝国兵が帰国しました。 <両軍の兵力と損害>
○帝国軍の編成:〜約1,200人 ・第105師団独立歩兵第359大隊派遣 ・臨時歩兵2個中隊 ・後方部隊など〜計約1,000人駐留 ・撃沈輸送船々員〜約200人滞留 ・海軍の水上機基地、など ※主力の歩兵2個中隊は、ルソン島展開の第8師団(師団長:横山静雄中将)歩兵第17連隊から指揮を受け、サンホセと島北端カラパンに1個中隊ずつが配置され、さらに小隊単位で分散。 ○米軍の編成:〜27,000人 米軍の戦力〜計188隻 ・上陸船団〜125隻 司令官アーサー・D・ストラブル少将 ・旗艦、軽巡ナッシュビル号 ・護衛駆逐艦〜12隻 ・輸送艦〜81隻 ・APD〜8隻、高速輸送艦(High Speed Transports) ・LST〜30隻、戦車揚陸艦(Landing Ship, Tank) ・LSM〜12隻、中型揚陸艦(Landing Ship Medium) ・LSI〜31隻、歩兵揚陸艦(Landing ship, infantry) ・掃海艇〜17隻 ・雑舟艇〜14隻 ・直接護衛〜船団前方〜33隻 ・重巡1、軽巡2、駆逐艦7隻 ・高速魚雷艇〜23隻(占領後に駐留予定) ・間接護衛〜船団後方(上空援護部隊)〜30隻 ・護衛空母6、戦艦3、重巡3、駆逐艦18隻。 <米軍のルソン島上陸>、1945/1/9 ・ルソン島の戦い、1945/1/6〜1945/8/15 (Battle of Luzon、1945/1/9〜1945/8/15) 帝国第14方面軍はレイテ決戦を完全に諦めルソン島での作戦に臨むこととなりました。しかしルソン島から多くの兵力・軍需品をレイテ島に送り出した後での再度の決戦は望み得ず、本土決戦の準備を稼ぐためになるべく多くの米軍を拘束するよう長期持久作戦を行うことを決定。第14方面軍はルソン島指揮下の兵力を3分し、其々の地域で「自活自戦、永久抗戦」で米軍を牽制・拘束に努めることとしました。ルソン北部には主力の5個師団、後に6個師団をもって ・バギオを中心にした北方拠点を尚武集団と呼称、 ・マニラ東方山地には2個師団をもって振武集団とし、 ・クラーク西方山地には陸海航空部隊と第1挺進団からなる建武集団が 配置され、この3大拠点を堅固に占領して永久抗戦の態勢を整えようとしました。 昭和20年1月9日米第6軍は空母12隻を含む850隻の大艦隊でルソン島リンガエン湾から上陸を開始。抵抗はほとんどなし。その後、帝国軍は陸上・海上の挺進攻撃を繰り返しましたが、結局大きな成果を期待することはできず、沿岸を守備した第23師団(西山中将)は23日頃には各所で分断。第58旅団(佐藤少将)からの部隊と戦車第2師団の中核旅団(重見少将)は夜間反撃作戦を企図、装甲・砲力に劣る九七式中戦車では米M4戦車を撃破することはできず多くの戦車を失い敗退。 <在ルソン部隊・3集団(総計28万7千人)のその後> ・尚武集団(152,000人・北部拠点)の拠点北部ルソンは、大部分がけわしい山岳地帯で持久戦闘に適し、真中にあるカガヤン河谷の平地は穀倉地帯であり自活自戦の長期戦に適する地域であった。方面軍主力はサラクサク、バレテ峠に守ってこの拠点に立てこもり逐次圧迫を受けながらも、最後にはプログ山を中心に複郭陣地を占領して終戦まで戦いぬきました。 ・建武集団(105,000人・中部ルソン)は100余の混成部隊で編成され、クラーク飛行場の使用を拘束妨害する任務をもって西方拠点を占領していた。しかし海没部隊、臨時挑発部隊、軍艦を失った海軍部隊、航空隊関係等雑軍のそしりは免れず、戦闘力は不十分であった。昭和20年1月末にはリンガエン湾から南下した米軍に第1線陣地を突破され、また背後から上陸した敵の挟撃を受け、ピナツボ山のふもとに戦線を収縮して最後の抵抗を行いました。 ・振武集団(30,000人・クラーク西方拠点)はマニラ湾及びマニラ付近の航空基地の使用妨害を主任務とし、主力をもってマニラ東方山地に東方拠点を占領していた。マニラ陥落後は各所において敵に突破され陣地が崩壊し、山中に圧迫された。5月1日から第41軍と呼称されたが6月末には組織的戦闘力は喪失、爾後東方山地の広大な地域に分散し自活自戦を継続し終戦に至りました。 <ルソン島の戦い> 両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍の編成:〜 ・第14方面軍(山下奉文大将) ・尚武集団(北部) 総兵力約15万2000人 山下奉文大将 ・第10師団 ・第19師団 ・第23師団 ・第103師団(独立歩兵8個大隊基幹) ・第105師団(独立歩兵8個大隊基幹) ・戦車第2師団 ・独立混成第58旅団 ・独立混成第61旅団(パブヤン海方面) ・第4航空軍地上部隊 ・その他兵站諸部隊 ・振武集団(マニラ北東地区) 総兵力約10万5000人 横山静雄中将 ・第8師団 ・第105師団(尚武集団に転出) ・マニラ防衛隊 ・その他海上支援兵力 ・建武集団(マニラ北西地区) 総兵力約3万人 塚田理喜智中将 ・第1挺進集団 ・永吉支隊(第10師団歩兵第39連隊基幹) ・その他陸海軍航空部隊。 ○連合軍の編成:〜850隻、約175,000人 ・連合国軍南西太平洋地域総司令官・ダグラス・マッカーサー大将 ・米第6軍(ルソン島) ウォルター・クルーガー中将 ・7個師団、2個野戦砲兵群基幹 ・米第8軍(その他諸島) ロバート・アイケルバーガー中将 ・計11個師団 ・英豪連合軍 ブラメー大将 ・連合国空軍 ジョージ・ケニー大将 ・連合国海軍(第7艦隊主力) トーマス・C・キンケイド中将。 参考HP〜 ・フィリピンの地図(ルソン島の場所地図:赤い所) ・フィリピンの地図(ミンドロ島の場所地図:赤い所) ・フィリピンの地図
<ミンドロ島沖海戦> 両軍の兵力と損害:〜
▽両軍の編成:〜 ○帝国軍の編成:〜 海軍挺身部隊 司令官:木村昌福(まさとみ1891-1960) 第二水雷戦隊司令官 ・第一挺身隊 旗艦:駆逐艦 霞(かすみ) ・一番隊:駆逐艦 ・二番隊:駆逐艦 榧(かや)、杉、樫(かし) ・第二挺身隊 ・重巡洋艦 足柄 ・軽巡洋艦 大淀。 ○米軍の編成:〜 ・基地航空機:120機 ・在泊艦船:輸送船4隻、魚雷艇10隻 ・チャンドラー部隊〜帝国艦隊迎撃のため出動 司令官:T・E・チャンドラー少将 (Rear Admiral Theodore E. Chandler, 1894-1945/1/7マニラ湾で戦死) (重巡ルイスビル号(USS Louisville CA-28)の特攻機攻撃で重傷後に没) ・第4巡洋戦隊 ・巡洋艦〜4隻 ・重巡ルイスビル号(旗艦)、ミネアポリス号 ・軽巡フェニックス号、ボイシ号 ・第56駆逐戦隊 ・駆逐艦〜8隻。 ▽両軍の被害:〜 ○帝国軍の被害:〜 ・沈没〜駆逐艦 清霜 ・中破〜重 巡 足柄 ・小破〜軽 巡 大淀 駆逐艦 朝霜。 ○米軍の被害:〜 ・輸送船ジェームス・A・ブリーステット号が炎上、大破着底放棄。 参考HP〜 ・フィリピンの地図(ミンドロ島の場所地図:赤い所) ・ミンドロ島・ビサヤ諸島・レイテ島の地図(連合軍侵攻の場所地図) 参考:〜 ・米掃海艇 パースート号の装備:〜就役:1943/4/30 (USS Pursuit AM-108、アメリカ海軍掃海艇:Minesweeper)
・米軍のレイテ島反抗地図 |
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99 <米軍、マニラ市内突入> 1945/2/3 米軍、マニラ解放 3/3、占領 |
マニラ市へ突入する米軍 大激戦後、米軍がマニラを解放 Fierce fighting free Manila by March 3, 1944 USA 1994/6/6 発行 |
米軍はルソン島北部へ進撃 フィリピン 1993 発行 |
・マニラの戦い、連合国軍の勝利、1945/2/3〜1945/3/3 (Battle of Manila) 場所:フィリピン共和国ルソン島マニラ市 (Manila, Luzon Island, Philippines) 昭和20年1月9日ルソン島リンガエン湾から上陸した米第6軍の2個師団はマニラに向かって突進し、1月下旬頃建武集団を突破、2月3日首都マニラ市内に突入しました。マニラ市街には第31根拠地隊司令官・岩淵三次少将指揮下のもと海軍マニラ防衛部隊を中心にした約1万人(他に野口大佐指揮の陸軍部隊)がいました。戦車も重砲もなく、小銃は3人に1挺という状況下に応急陣地で激しく抵抗。2月3日4箇所からマニラ市内に侵入した米軍との間に激しい市街戦が約3週間にわたって展開され、国会議事堂、市役所、中央郵便局をはじめ主要な建造物はことごとく破壊。マニラは焼け野原と化しました。2月26日守備隊の大部分は戦死、岩淵少将は残った部下を司令部を置いた農商務省ビル地下室に集め恩師の酒を酌み交した後に自殺、以降残存部隊が抵抗を示したものの、3月3日マニラ市街戦は終了しました。 <両軍の兵力と損害>
○帝国軍の編成:〜14,300人 ・海軍マニラ海軍防衛隊〜10,000人(6個大隊) ・第31特別根拠地隊〜マニラ駐留 司令官:岩淵三次海軍少将(1895-1945/2/26自殺) ・陸上警備科1個中隊 ・海軍陸戦隊 (レイテ沖海戦やマニラ湾空襲での沈没艦(武蔵、最上、那智、 熊野、木曾、曙、初春、若葉、沖波、早霜、隠戸など)乗員など ・野口部隊〜野口勝三陸軍大佐(陸士30期) ・陸軍3個大隊〜約4,300人 ・臨時歩兵〜2個大隊 ・現地召集の在留邦人〜1個大隊 ・装備:〜 ・高角砲〜43門 ・対空機銃〜250門 ・艦載砲弾流用の噴進砲〜6門 ・迫撃砲・歩兵砲〜46門、など。 ○米軍の編成:〜 ・陸軍第14軍団〜35,000人 ・第1騎兵師団 ・第37歩兵師団 ・陸軍第11空挺師団。 参考HP〜 ・マニラの戦いの地図 参考:〜 ・米駆逐艦 リングゴールド号の装備:〜就役1942/12/30 (USS Ringgold DD-500、アメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦2番艦)
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100 <米軍、コレヒドール奪還> 1945/2/15 |
空挺作戦 コレヒドールを奪還 コレヒドールの戦い(敗戦)25年記念 フィリピン 1967/8/31 発行 |
ルソン島バターン半島沖合いのコレヒドール島 |
・コレヒドール島の戦い(米軍の奪回作戦)、米軍の勝利 (Battle for the Recapture of Corregidor, 1945/2/16〜26) 昭和20年2月下旬のマニラ市街戦と、ほぼ同時期、板垣大佐指揮のコレヒドール島も陥落、3年前(昭和17年5月7日)には、帝国軍が重砲をもって制圧して占領した要塞島コレヒドールが米軍に奪還されました。マニラ湾口に浮かぶ島内で激しい戦闘が展開され、その時の戦闘における帝国軍守備隊、約4,500人が激しく抵抗、生存者は僅かになったと伝えられています。 <両軍の兵力と損害>
○帝国軍の編成:〜 振武集団の隷下 ・マニラ湾口防衛隊 司令官 板垣昂(あきら)海軍大佐(1897-1945/2/17戦死) ・海軍兵〜3,000人 ・陸軍兵〜1,500人 ・コレヒドール支隊(1個大隊基幹) (バターン半島永吉支隊:第10師団1個連隊基幹隷下) ・臨時歩兵〜1個大隊など ・特攻艇 震洋〜36隻(2/15突入)。 ※中部フィリピン方面へ配備予定の震洋部隊6隊がコレヒドールへ配置転換されるも、'44/12/23エンジン点検中の1隻が爆発、他の艇51隻が誘爆を起こしたとの証言が、こちらの ・コレヒドールの戦い(YouTube)に有。 ○米軍の編成:〜 ・米第24歩兵師団(一部) (24th Infantry Division) 師団長ロスコー・B・ウッドラフ陸軍少将 (Major General Roscoe B. Woodruff, 1891/2/9-1975) ・第503空挺コンバット連隊 (503rd Parachute Regimental Combat Team) 連隊長ジョージ・M・ジョーンズ陸軍中佐 (Lieutenant Colonel George M. Jones, 1911-1996)。 コレヒドール島要塞では振武集団隷下のマニラ湾口防衛隊(司令官 板垣昂海軍大佐、臨時歩兵1個大隊など陸軍1,500人と海軍3,000人)が防衛にあたっているも、1945/1/22から米軍の猛烈な艦砲射撃と空襲、さらには対岸からの砲撃を受け始めました。コレヒドール島守備隊は2/15に特攻艇 震洋36隻を出撃させ、米上陸支援艇3隻を撃破。2/16に米第24歩兵師団の一部が上陸を開始。第503空挺連隊もパラシュート降下。帝国軍は要塞のトンネルを駆使して夜襲で抵抗するも、2/17に板垣大佐が戦死。2/20以降は大規模な反撃はできなくなりました。3月に入ると遂に島を脱出して、残存兵力約300人だけがバターン半島の永吉支隊へ合流。マニラ湾内の他の島にも連合軍が上陸し、地下施設に石油を流して点火するなどの攻撃で帝国軍を制圧。 また、バターン半島の永吉支隊(支隊長 永吉実展大佐(陸士28)、歩兵第39連隊の2個大隊基幹3,500人)は、1/30に上陸した米第38歩兵師団と第24歩兵師団の1個連隊基幹からの猛攻を受けました。3月頃の帝国軍残存兵力は永吉支隊とコレヒドール支隊の合計で1,500人となり、9月上旬に建武集団本隊とともに投降した時には僅かに約280人。なお、コレヒドール島には敗戦後も帝国兵が潜んでおり、1946/1月に18人が収容されました。 参考HP〜 ・コレヒドール島の戦いの地図 ・コレヒドール島の場所地図 こちらで ・硫黄島陥落(硫黄島の戦い) ・米軍、レイテ上陸(フィリピンの戦い) をお楽しみください。 参考:〜 ・ノースアメリカンP-51ムスタング戦闘爆撃機の装備:〜初飛行:1940/10/26 (North American P-51 Mustang、アメリカ陸軍の戦闘機)運用開始:1942
参考HP〜 ・太平洋と連合軍の反抗地図 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 2016/4/8 |