Spain![]() 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-22)
ヘルナンド・サーヴェドラ 1597 パラグアイ副知事 |
大航海物語 スペイン編★ |
|
![]() |
←アマゾン河 ←ラプラタ河 |
サーヴェドラは新大陸生れの初の知事となった人物で、36才で南米ペルー東南部のパラグアイ(リオ・デ・ラ・プラタ)の副知事に任命されました。彼はパラグアイの首都アスンシオンの発展に寄与し、アルゼンチンからのパラグアイの独立にも貢献しました。1597年から1599年まで副知事を務めた後、1602年に知事に昇格し、1609年までその職に就きました。パラグアイの知事として、先住民との和解を進め、公立学校を設立し、イエズス会士に国防義勇軍の兵士としての特権を授けました。1611年には、サーヴェドラが牧畜用の牛を導入し、アスンシオンに持ち込んでラプラタ川東岸地方の開拓に貢献しました。この時期には、「ガウチョ」と呼ばれる牛追いの専門職が誕生し、その中にはスペイン人と原住民の混血が多数含まれていました。 |
ヘルナンド・アリアス・ド・サーヴェドラ Hernanda Arias de Saavedra (ヘルナンダリアス Hernandarias) ・出生:1561/9/10、パラグアイのアスンシオン(#4)、ペルー副王領リオ・デ・ラ・プラタ県 (Asuncion, Paraguay)クレオール人(Creole) ・没 :1634/12/21、アルゼンチンのサンタフェ(#21)、ペルー副王領リオ・デ・ラ・プラタ県 (Santa Fe, Argentina)、73才没 肩書:兵士、探検家、征服者、入植者、役人、官僚、植民地支配者 (Soldiers, explorers, conquerors, settlers, officials, bureaucrats, colonial rulers) ・コリエンテス第1副知事(暫定1588/4/5-1588/7月)フェリペ2世 ・第17代アスンシオン副知事(在任1592/7/13-1592/後半)フェリペ2世 ・第20代リオ・デ・ラ・プラタ・パラグアイ州知事(暫定1592後半-1593/5月)フェリペ2世 ・第19代アスンシオン副知事(在任1593/5月-1593/8/9)フェリペ2世 ・第7代サンタフェ副知事(在任1594/3月-1596/12/6)フェリペ2世 ・第21代アスンシオン副知事(在任1594/3月上旬)フェリペ2世 ・第27代リオ・デ・ラ・プラタ・パラグアイ州知事(在任1602/8/1-1609)フェリペ3世 ・第32代リオ・デ・ラ・プラタ・パラグアイ州知事(在任1615/5/3-1618/5/17)フェリペ3世 ・別説 ・リオ・デ・ラ・プラタ総督(在任1597-1599 & 1602-1609) ・パラグアイ総督(在任1615-1617) 1516年、ファン・ド・ソリスがラプラタ河(290km:4,876kmパラナ川含む)に到達し、原住民に殺害されたとされています(反乱説も存在)。その10年後、セバスチャン・カボットが川を遡り、パラナ川(3,998km)とウルグアイ川(1,593km)に入ったのがヨーロッパ人としては初めてでした。最初のスペイン領土の定住地を確立したのは、1542年にカベサ・ド・バカと共に南アメリカへ渡った父(アスンシオン暫定知事在任1572-1574)の次男で、1561年にパラグアイのリオデラプラタ植民地アスンシオン市で生まれたサーヴェドラでした。スペインの移住者はウルグアイ川の西岸に居住し、1世紀にわたって川を渡って東岸には進出しませんでした。 そのサーヴェドラは幼い頃に軍隊に入隊し、やがて将校になり、パラグアイとアルゼンチンの領土の探検と征服に参加しました。そして、1588年アルゼンチンのコリエンテス州(#7)副知事、1592/7月パラグアイのアスンシオン州(#4)副知事、1592後半パラグアイのリオデラプラタ知事(ブエノスアイレス含)、1593/5月アスンシオン州副知事、1594/3月アルゼンチンのサンタフェ州副知事、1594/3月上旬アスンシオン州副知事、1596年リオデラプラタ州副知事、1597年リオデラプラタ州知事(-1599)、1602/8月リオデラプラタ州知事(-1609)、1615/5月リオデラプラタ州知事(-1617)を歴任し、当時スペインやペルーのほとんどの役人は怠惰で腐敗していましたが、サーヴェドラは誠実に勤めあげました。 サーヴェドラは、当時小さな港町だったブエノスアイレスの発展を促進するために多くの政策を施行しました。これには、最初の小学校の設立、日干しレンガに代わるレンガやタイルの生産のための窯の建設、海賊から街を守るための要塞の再建が含まれていました。1607/3/18にイギリスの私掠船が停泊していた2隻の船を捕獲した後、現在のブエルタ・デ・ロシャ近くのマタンサ川河口に大規模な砦の建設を命じました。また、輸入、輸出、およびアフリカの奴隷貿易の禁止によって生じた密輸に対処するための措置を講じました。ブエノスアイレスの知事として、サーヴェドラはポルトガルのバンデイランテスを抑え、パタゴニアを探検し、川の航行可能性を調査し、伝説のシーザーズの都市を探すためにウルグアイとブラジルへの複数の遠征を開始しました。最終的に1604年、ブエノスアイレス南部約1,000kmの地点で先住民マプチェ族に捕らえられましたが、逃走に成功し生還しました。 1603年、サーヴェドラはアメリカ先住民の労働に関する規則を変更し、ミタとエンコミエンダ制度を廃止しました。スペイン人は、表向きは先住民をキリスト教に改宗させることと引き換えに、実質的には彼らの労働力を利用していました。この改革はフェリペ3世(Philip III, 在位1598 -1621))によって承認されました。1608年には、彼はパラグアイの地方(Guayra)でイエズス会とフランシスコ会の縮小政策を導入しました。この新しい制度は多くの先住民を移住させ、彼らを牧場主やエンコミエンダ制度から守りました。1611年には、イエズス会によって改宗されたエンコミエンダ制で働く全ての先住民の解放を命じました。この布告はアルファロ条例(Ordenanzas de Alfaro)として知られています。 サーヴェドラはリオデラプラタ州の知事として、南アメリカの中央および南部地域、特にパラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部、ボリビアのグランチャコ、チリ南部で伝統的に消費されていたマテ産業(Mate)の17世紀初頭の急速な成長に反対しました。サーヴェドラはそれが不健康な悪い習慣であり、原住民の労働者のあまりにも多くが飲み物を消費していると考えました。彼はリオデラプラタ県での生産終了を命じ、国王の承認を求めました。しかし彼らは禁止を拒否し、生産に関与する人々も拒否して命令に従いませんでした。 サーヴェドラは1603年にブエノスアイレス大聖堂の移転に積極的に関わりました。1616年、職人たちは教会の屋根が老朽化していると判断し、修理中に教会が崩壊しました。1618年、サーヴェドラはブエノスアイレス大聖堂の建設をリードしました。大工と協力し、パラグアイからの木材供給と、スペインの入植者や改宗した先住民の労働力を確保しました。 1614/9/7、サーヴェドラはブエノスアイレス州(#1)知事に任命され、3期目にして最終任期を務めました。彼は1615/5/29にその職に就任しました。彼の主導でリオデラプラタ地区はブエノスアイレス州とパラグアイ州に分割され、アスンシオン、サンティアゴ・デ・ヘレス、ビジャ・リカ、シウダー・レアルの入植地を含む2つの州に分けられた。この分割は1617年に命令され、1618年に国王の承認を得て、1620年までに実施されました。1617年にサーヴェドラはパラグアイ総督の任期を終えました。 アルゼンチンの知事は1614年から1618年まで務め、1617年にパラグアイがアルゼンチンから分離したため、1617年から1618年はパラグアイの知事を務めました。彼のアルゼンチン知事としての任期中、ブエノスアイレスの発展に寄与しました。サーヴェドラは73才でアスンシオンにて亡くなりました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和7年 2025/5/25追記 |