Pirates of Caribbian
Jolly Roger

バーソロミュー・ロバーツ船長
1719
海賊ブラック・バートとなる

大航海物語
イギリス
BAHAMAS
バーソロミュー・ロバーツ船長

Captain Bartholomew Roberts(Black Bart)
バハマ 2003/3/18 発行

St.Christopher Nevis Anguilla
海賊ブラック・バート船長と
部下の手になる死亡宣言書


セントクリストファーネヴィスアンギラ 1970 発行
Saint Lucia
ジョリーロジャー旗と海賊船の襲撃

セント・ルシア 2007 発行

快速帆船

シェラレオーネ 1984 発行
オーグル艦長の”スワロー号”

ピトケーン 1998/5/28 発行

Tanzania
海賊船

タンザニア 1994 発行
海賊取り締まりのイギリス軍艦
Engrish Two Decker

17世紀のイギリス2層甲板軍艦
砲列甲板が2重構造
カリブ海で餌食になった
オランダ輸送船


17世紀ダッチ・フリュート船
Dutch fluyts
セントクリストファーネヴィスアンギラ 1970 発行

現在の国名
モロッコ→
モーリタニア(青)→
セネガル(黄)→
ガンビア→
ギニアビサウ(赤)→
ギニア→
シェラレオーネ→
リベリア→
コートジボアール→
ガーナ→
トーゴ→
ウィダー・ベナン→
ナイジェリア→
カメルーン→
赤道ギニア→
アンノボン島、プリンシペ
ガボン→
コンゴ→
コンゴ→
アンゴラ→
ナミビア→

St.VINCENT
アメリカ南部、メキシコ湾、カリブ海、大西洋の地図

太平洋
ヨ|ロッパ

アフリカ
セントヴィンセント 1980/12/4 発行
アフリカの地図

セネガル川4ヵ国会議記念
ギニア 1970/2/3 発行

Turks Caicos Islands
ディズニーが描く海賊ブラック・バート船長

タークス・カイコス諸島 1985/10/4 発行

ロバーツ船長はその生涯において合計400隻£5千万ポンドに及ぶ船舶を略奪したと言われる18世紀前半までの「大航海時代」最後にして最大の海賊で、海賊黄金時代(Golden Age of Piracy)の一角を担う伝説の海賊で、別名:海賊ブラック・バートとして恐れられました。貴族を気取ったシャレタ衣服をまとい大小20隻に及ぶ大海賊船団を率いて3年もの間を、ギニア湾沿岸から広く大西洋とカリブ海にかけて暴れ回って、大西洋横断航路を麻痺させ、海運各国を大いに悩ませた海賊でした。
・バーソロミュー・ロバーツ船長 (1682/5/17〜1722/2/10)
 Captain Bartholomew Roberts
  別名:海賊ブラック・バート(Black Bart)

ロバーツ船長はイギリス・ウェールズの南のペンブルックシャー州(Pembrokeshire, Wales)で生まれてジョン(John Roberts)と名付けられ、父親はジョージ(George Roberts)といい、13才(1695)で海に出てバッカニーア海賊のバーソロミュー・シャープ(Bartholomew Sharp 1650-1690頃)に憧れて、「バーソロミュー」と名乗ったと言われていますが、若い頃の詳細なことは不明です。別名の海賊ブラック・バートは彼の死後の伝説の中で名付けられて呼ばれました。

海賊となる (1719/6)
1718年にバルバドス島航海スループ船(Barbados sloop)の航海士見習(mate)になり、1719年にプランブ船長(Captain Abraham Plumb)のロンドン奴隷船プリンス号(Princess)に、船長になる見込みもほとんどありませんでしたが、£3ポンド足らずの安月給で三等航海士(third mate)として乗り組みました。1719/6月初旬に黄金海岸(現ガーナ)のアノマブ港(Anomabu)、で1674年建設の小規模なチャールズ砦(Fort Charles)に投錨すると、同じウェールズ出身の海賊ハウエル・デイヴィス船長(Captain Howell Davis 1690-1719)の海賊船ロイヤル・ローヴァー号(Royal Rover)とロイヤル・ジェームス号(Royal James)の2隻に襲われ、ロバーツは助命のために手下に加わり、最初はいやいやの海賊家業をしました。

海賊家業は良い商売!(Life as a pirate
アフリカ沿岸 (1719)
ロバーツがデイヴィス船長の手下となって2ヵ月ほど後にチャンスがおとずれました。当時ポルトガル領であったプリンシペ島(Principe、現サントメ・プリンシペ)に寄港した時に、デイヴィス船長が総督のパーティに招待されて上陸して海賊と見破られ、戦闘となり負けて戦死しました。残った乗組員は仲間となって間も無く有能さを見せていたロバーツを新たな船長として擁立、早速プリンシペを略奪。当時の殖民都市は要塞などで武装されており熟練の海
南西アフリカの地図
賊でも容易には略奪不能なのを、成りたての海賊船長ロバーツは最初の襲撃で「デイヴィス船長の仇討」とばかりにプリンシペ島を襲撃して、島のほとんどの男を殺害し財宝を奪って海賊家業を成功させ、自身の伝説の幕を開けました。その後まもなくオランダのギニア航海船(Dutch Guineaman)を襲い、その2日後には東インドからブラジルへと航海中のエクスペリメント号(Experiment)がアフリカ黄金海岸のアナンボウ(Anamboe)港で水と食料を補給中に襲撃しました。これらの成功で海賊船長の地位は確固たるものとなりました。次の目標を東インドかブラジルかどちらにするかを投票で決めると、ブラジルとなりました。

ブラジルからカリブ海 (1719/7〜1720/5)
アフリカ沿岸を離れ、大西洋を横断してフェルナンド諸島(island of Ferdinando)の無人島で水の補給をし、ブラジル沿岸を獲物となる船を探して9週間も航海しましたが1隻の船も見つけられませんでしたが、さらに航海を続けブラジルのバイーア州のトドス・オス・サントス湾(Todos os Santos' Bay)でリスボン行きの、2隻の軍艦(men-of-war of 70 guns)に護衛された42隻のポルトガル輸送船団を発見。その1隻を捕えて最大の船を見つけさせ、その船(40 guns and a crew of 170)に乗り移り捕え、黄金や国王のための「ダイアモンドを散りばめた十字架セット」など多額の金銀財宝(40,000 gold moidores)を分捕りました。

海賊ブラック・バート船長はロイヤル・ローヴァー号で南米のフランス領ギアナにあるデビルズ島(悪魔島、Devil's Island、Ile du Diable)へ戦利品(booty)を売りさばきに
新大陸とブラジル地図

ブラジル 1994 発行
向かいました。数週間後にスリナム川(River Surinam)へと向かい、1隻のスループ船を襲って捕えました。ブリガンティン船(brigantine、2本マストで1本は横帆の帆船)を視認し、ロイヤル・ローバヴァー号にウォルター・ケネディ(Walter Kennedy 生年不詳-1721)を残して、ブラック・バート船長は40人の野郎共を連れて分捕ったスループ船で襲撃に向かいました。8日後に戻ってみると、ローバー号はケネディと戦利品もろとも消え失せていました。

ブラック・バート船長はスループ型快速帆船にフォーチュン号(Fortune)と命名して、部下に「海賊ブラ
ック・バートの掟」を聖書の前で誓わせました。

海賊ブラック・バートの掟:〜
・乗組員全てに平等な投票権・投票発起権を与える。
・仲間内で金品を窃盗・横領した者は
 死刑または「孤島置き去り」の刑。
・カード、サイコロを使った賭博の禁止。
・午後8時消灯、
 以降の飲酒は甲板にて月明かりのもとでのみ許可。
・ピストルやカットラス(短剣)の整備の徹底。
・女や子供を強姦目的で船に乗せた者は
 死刑もしくは「孤島置き去り」の刑。
・戦いの中で船を見捨てて降伏した者は
 死刑もしくは「孤島置き去り」の刑。
ディズニーが描く歌う海賊(音楽隊)
・船上での口論禁止。岸に着いた時に決闘により決着をつける。
・戦利品(収益)は役割別に公平に分配。
・戦闘において負傷した者には手当てを別に支給。
・安息日(Sabbath Day)には聖歌隊(Choir)と音楽隊(musicians)で賛美歌を奨励。

ブラック・バート船長のいでたちはとみると、貴族気取りでハンサムでおしゃれな姿に真紅の宮廷用半ズボンに飾り帯を着け、オーバーコートを羽織り、紅の羽飾りをつけた三角帽子をかぶり、肩には緋色の帯で拳銃を吊るし、さらに以前ポルトガル商人から奪った「ダイアモンドを散りばめた十字架」を金チェーンで首から下げるという姿を好んだ服装としていました。この派手な服装で目立って手下をまとめ、大小20隻にもなる海賊船団を率いて、欧州と新大陸を結ぶ獲物の多い航路を荒し回りましたが、安息日には海賊行為を行わず祈りを奨励する敬虔さを忘れませんでした。
海賊ブラック・バート

1720/2月にフランス海賊モンティニィ・ラ・パリッセ(Montigny la Palisse)のスループ船シー・キング号(Sea King)と合流して、バルバドス島襲撃をもくろみ、島を脅迫しましたが、住民は重武装船サマーセット号(Summerset)とフィリパ号(Philipa)に護衛を頼みました。2/26にマルチニーク島から出撃してきた護衛の両船は海賊船団に出会い交戦となり、シー・キング号は逃げ去り、フォーチュン号は砲撃を受けて大損傷しながらも逃亡。ブラック・バート船長はドミニカ島へ修理に向かいましたが、航海中に20人が亡くなりました。マルチニーク島で再び合流した海賊の両船はバルバドス島とマルチニーク島への復讐を誓い、新しい海賊旗”ABH AMH”旗(A Barbadian's Head・A Martiniquian's Head、バルバドス島とマルチニーク島の住民の頭がい骨の上に立つ海賊船長の図案)を掲げました。

ニューファウンドランドとカリブ海 (1720/6-1721/4)
1720/6月にニューファウンドラド島近海(Cape Breton & Newfoundland banks)で数隻の商船を襲った後、ケープ・ブレトン島フェリーランド港(Ferryland)を急襲、12隻を略奪しました。1720/6/21にはケープ・ブレトン島のやや大きいトレパシー港(Trepassey)に海賊旗を掲げて突入攻撃、在泊の船舶は大混乱に陥り、なすすべもなく22隻が海賊に蹂躙されました。船を捨てて逃げた臆病な船長はブラック・バート船長の怒りを買いました。捕えたブリストルからの1隻のブリッグ型帆船をフォーチュン号と取り換え、16門の大砲を装備して海賊稼業に使いました。
ブリッグ型帆船

1720/6月下旬にトレパシー港内の船舶全てに火を放って、海賊船団は出帆しました。7月中に9〜10隻のフランス船を襲い、その中の1隻にグッド・フォーチュン号(Good Fortune)と名付け26門の大砲を装備して乗船し、再会したフランス海賊モンティニイ・ラ・パリッセ船長のシー・キング号と共に、南大西洋狭しと荒らしまわりました。

1720 /9月にグッド・フォーチュン号の修理と補給にグラナダ島北方近海のキャリアコウ島(Carriacou)に寄港して、フランス船を捕え、ロイヤル・フォーチュン号(Royal Fortune)と名付けて乗り込みました。9月下旬にセントクリストファー島(St. Christopher's Basse Terra Road)に海賊旗を掲げ軍楽隊よろしくドラムとラッパを鳴らして突入すると、湊に在泊の船舶は先を争って降伏しましたので、なんなく略奪しました。

次の島セント・バーソロミュー島(St. Bartholomew)ではフランスの総督が酒をふるまい大酒盛りで数週間を飲んで騒ぎました。その後の3日間でイギリス船とフランス船15隻を襲い、セントルシア島(St. Lucia)を10/25に出帆。グレイハウンド号(Greyhound)航海長(chief mate)ジェームス(James Skyrme)が仲間に加わり、後にブラック・バート船長の僚船レンジャー号(Ranger)の船長になりました。

1721年春頃には海賊ブラック・バート船長一味の略奪で西インドへの海上貿易が停止するというありさまになりました。ロイヤル・フォーチュン号とグッド・フォーチュン号は西アフリカへと出帆しました。4/20にグッド・フォーチュン号のアンティス船長(Thomas Anstis 生年不詳-1723)がブラッ
ディズニーが描く海賊の略奪
ク・バート船長から離れてカリブ海での襲撃に戻りました。ロイヤル・フォーチュン号はそのまま西アフリカへの航海を続けました。

西アフリカ (1721/4-1722/1)
1721/4月下旬にカーボベルデ(Cape Verde)に到着、そこでロイヤル・フォーチュン号のひどい水漏れを発見したので放棄し、シー・キング号(Sea King)に乗り替え、船名をロイヤル・フォーチュン号と変更しました。6月初旬にセネガル河(Senegal River)近郷のギニア海岸(Guinea coast)沿岸を襲い、フランスのトゥルーズ伯号(Comte de Toulouse, 16 guns)ともう1隻のフランス船(French ships, 10 guns)を追跡し捕えました。トゥルーズ伯号はレンジャー号(Ranger)船長サットン(Thomas Sutton)、リトル・レンジャー号(Little Ranger)ジェームス船長(James Skyrme)と船名を変更して補給船(storeship)として使用しました。

6/12頃にシェラレオーネ(Sierra Leone)に到着。イギリス海軍のチャロナー・オーグル艦長(Chaloner Ogle 1681-1750)スワロー号(HMS Swallow、大砲50門搭載)とウェイマス号(H.M.S. Weymouth)に出会い、「4月末まで去って、クリスマスに戻ってくる」と談判しました。8/8にリベリアのセス川(River Cess)近郷のポイント・セトス(Point Cestos)で2隻の大きな船を襲いました。オンスロー号(Onslow)は軍隊を、ガーナの1664年にイギリスが占領していた奴隷貿易基地ケープ・コースト城(Cape Coast Castle)に輸送中で、捕えられた多くの兵士が海賊の仲間になることを希望して、新米の水夫(landlubbers)になりました。オンスロー号は4代目のロイヤル・フォーチュン号と名前を変えました。11月にギニア湾のロぺズ岬(Cape Lopez、現ガボン)と12月にアンノボン島(Annobon)で休養を取りました。

1722/1月にサットンがジェームスとレンジャー号船長を交代して、数隻の船を襲い捕獲しました。それからベナンのウィダー(Ouidah)へと航海して、港に着くやいなや海賊旗を掲げて突入、たちまちの内に港に停泊中の11隻の船を襲い略奪しました。

海戦中の戦死 (1722/2)
2/5に3隻の海賊船ロイヤル・フォーチュン号、レンジャー号、リトル・レンジャー号が、オーグル艦長のスワロー号にギニア湾のロペス岬で遭遇しました。スワロー号が砂州(shoal)で変進したのを、海賊共は商船が逃げようと向きを変えたんだと思い、まずジェームス船長のレンジャー号が追跡を始めました。スワロー号が他の2隻の海賊船の有効射程圏外になるやいなや砲門を開きました。レンジャー号では一挙に10人の海賊が吹っ飛びジェームス船長も砲弾(cannon ball)で足をもぎ取られましたが、デッキを離れず、指揮を撮り続けました。結局、戦闘旗(Striking the colors、
オーグル艦長の”スワロー号”

ピトケーン 1998/5/28 発行
Battle ensign)を降して白旗を掲げて降伏、船は拿捕されて生き残りの海賊は捕えられました。

1722/2/10にオウグル艦長のスワロー号がギニア湾のロペス岬沖に戻ってみると、ブラック・バート船長の船ロイヤル・フォーチュン号がまだそこに居るのを見つけました。オウグル艦長はそれがブラック・バート船長の船だと知ると、一計を案じフランス国旗を掲げて商船を装いつつ接近しましたが、ブラック・バート船長の手下で元イギリス海軍水兵の男が相手をイギリス軍艦であると見抜きました。しかし海賊たちは数日前に捕えたヒル船長(Captain Hill)のネプチューン号(Neptune)から強奪した酒で、前夜から乗組員はナイジェリアのカラバー川(Calabar)畔で、掟に反して飲酒・饗宴で酔っ払って、職場放棄者のありさまとなっていました。そこに現れた軍艦スワロー号の攻撃でした。強奪した酒に酔っている者が大部分で、ロイヤル・フォーチュン号が逃走を図るも、もたつく間にスワロー号が大砲の有 酔っ払い海賊の戦い
効射程圏内へ急接近してきたので、やむなく砲撃戦を開始しました。2時間ほど経過して何度目かの砲撃の応酬が止んだ時、ロイヤル・フォーチュン号はメイン・マストに砲弾が命中して、マストをへし折られていました。そして海賊たちの目の前に、ブラック・バート船長が数人の仲間と共に砲列甲板の大砲のそばに血まみれで横たわっていました。スワロー号が撃ったブドウ弾(grapeshot、乗員殺傷用の拡散式砲弾)が喉を貫通しており、ほぼ即死状態でした。激しい戦いが続く中、海賊たちは彼の遺言通り、ブラック・バート船長の遺体に重しを付けて海へと投げ込み水葬に付しました。海賊たちは、その後も抵抗を続けましたが、カリスマ船長亡き後では捕縛されるのも時間の問 海賊船長が艦砲射撃で戦死

クリストファーネヴィスアンギラ1970発行
題となり、捕えられました。

その後
1ヵ月後の3/28にイギリス史上最も大規模な海賊裁判が西アフリカのケープ・コースト城(Cape Coast Castle 現ガーナ、奴隷貿易で悪名高い建物で世界遺産)で始まりました。それぞれに対する判決及び刑罰は、捕えられた272人の男の内、ケープ・コースト城へ移送中にかなりが死亡(15?)し、75人が黒人で再び奴隷として売り飛ばされ、白人乗組員のうち37人はプランテーションで平均7年の強制労働(刑期が短いようですが栄養失調や衛生環境の悪さから死刑に等しいもの)の刑、52人は拷問を受け、54人は絞
首刑となり、2人は刑の執行を猶予され、17人が裁判のためロンドンのテームス河畔マーシャルシア刑務所(Marshalsea prison in London)送りとなり、良い口添人がいた者、何らかの身代金を支払った者、海賊経歴が非常に浅い者などの海賊たち(20人)は法廷の慈悲を示すために無罪放免となりました。

オーグル艦長は帰国後、稀代の海賊英雄ブラック・バート船長を葬り去った恩賞に、国王から爵位を授けられ”オーグル卿”(Sir Chaloner Ogle)となり、その後も数々の海戦を戦い抜き、ついには大英帝国海軍の提督に出世しました。

参考HP:〜
ウェールズの場所地図
ケープ・ブレトン島の地図
レナダ島の地図
爵位(ナイト)親授式

ヴァ−ジン諸島 1980 発行
アンノボン島の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      09/7/27、12/7/7、12/8/5

スタンプ・メイツ
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