切手で綴る古代都市遺跡(ヨルダン)
ジャラシュ(Jerash)
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JORDAN 古代ローマ帝国時代の都市遺跡ジャラシュ |
フォルム(広場)のイオニア式列柱 Colums, Forum of Jerash ヨルダン 1975/5/1 発行 |
楕円形のフォルム(広場) Forum, Jerash |
ローマ劇場 (ジャラシュの南側) South Theater、3,300人収容 |
ジャラシュ遺跡の南門 (凱旋門) Triumphal Arch |
アルテミス神殿 (コリント式の柱) 守護聖人アルテミス (Temple of Artemis) |
列柱街路 Street Colums |
南ローマ劇場への通路 Colums & Niche, South Theater |
神殿への階段通路 Cathedral Stepes |
アルテミス神殿の門 Temple of Artemis, Gate |
Antiquilities of Jerash ヨルダン 1965/6/22 発行 |
・古代都市遺跡ジャラシュ Jerash Ruins(The Ruin of Ancient Roman City) 所在地:ヨルダン北部ジャラシュ県の県都ジャラシュ、古代名:ゲラサ (Jerash (the Gerasa of Antiquity), Jerash Governorate, north Jordan) 最盛期:〜106年ペトラのローマ支配後の2・3世紀 ジャラシュはヨルダン北部の都市でジャラシュ県の県都。首都アンマン(Amman)からは北へ48kmの所。ジャラシュ県の風土は多様で、標高が1,100mを超える高く寒冷な山地から、標高300mほどの肥沃な谷間などがあり、農耕が盛ん。ジャラシュの町は標高600mの丘に有。ジャラシュの古代名はゲラサ(Gerasa)。シリア南部のローマ時代の同盟連合都市(十都市同盟)デカポリス(Decapolis)の内の一つで、現在も古代ローマ時代の都市遺跡が良く残っています。昔は古代アラビア語で「ガルシュ(Galsh)と呼ばれ、後にギリシャ・ローマ風の都市ゲラサ(Gerasa、別名クリュソロアスのアンティオキア、金の川沿いのアンティオキア:Antiochia on the Chrysorhoas)の廃墟が有)となり、ローマ時代にはデカポリスと呼ばれた東部辺境の都市群に含まれて、最盛期には2万人の人口を擁していました。それから「ジェラシュ」と名称が変りました。 ジャラシュは、城壁で囲まれたローマ時代に繁栄した街で、遺跡の多くはローマ時代に建てられました。この街の歴史は古く石器時代(BC6000) 頃の道具類が出土しており、近年の発掘調査で青銅器時代(BC3200〜BC1200)には集落があったことがわかっていいます。ヘレニズム期(Hellenistic period、BC323-BC30)にシリア南部コイレ・シリア(Coele-Syria)はセレウコス朝シリア(Seleucid Empire、312BC-BC63)やプトレマイオス朝エジプト(Ptolemaic dynasty、BC305-BC30)の争奪の地となり、これらの王朝によりギリシャ風の都市が多数作られました。ジャラシュもこの時期に造られ、アンティオキア(Antiochia)と名づけられた町の一つでした。 ジャラシュが歴史に登場するのは、アレキサンダー大王(在位BC336-BC323)がこの地に来たBC332年頃で、BC63年に古代ローマ(Roman Republic, BC509-BC27)に征服された後はシリア属州(Roman Syria, BC64-135)の一部となり、近隣の都市とデカポリス(十都市連合)を結成。90年にはフィラデルフィア(現在のアンマン)と共にアラビア属州(アラビア・ペトラエア:Arabia Petraea, 106-630)に移されました。ローマ帝国のもとでこの地方の治安や平和が保たれた(パックス・ロマーナ(ローマの平和):Pax Romana, BC27-180)ことで、人々は経済活動や公共施設の建設に時間や労力を割くことができ、交易が発達し都市基盤が整いました。1世紀後半、ゲラサは交易や農業で大いに発展。106年にはトラヤヌス帝(Marcus Ulpius Nerva Trajanus Augustus、在位98-117)が新たに作ったアラビア属州を貫くローマ街道(Roman roads:Via Romana)がゲラサに通り、交易はますます栄えました。ハドリアヌス帝(Publius Aelius Trajanus Hadrianus、在位117-138)は129年から130年にかけてゲラサを視察巡幸し、凱旋門(ハドリアヌスの凱旋門)がこの時の訪問を記念して建てられました。ラテン語による碑文には、皇帝を護衛する騎馬兵がこの地で越冬した間に、神々への奉納を行ったことが記録されています。ゲラサは、最盛期には城壁内の広さが拡大して80万uに達していました。 3世紀半ば頃から衰退が始り、7世紀(614)にサーサーン朝ペルシャ(Sasanian Empire、224-651)がシリアに侵入したことでゲラサは急速に衰退するも、イスラム帝国(サラセン帝国)による征服やウマイヤ朝イスラム帝国(Umayyad Caliphate、661-750)の支配下でもジャラシュの都市活動は活発に行われていました。746年に大地震がジャラシュとその近郊を襲い、多くの建物が崩壊しました。以後ジャラシュは再建されず、廃墟になりました。12世紀に十字軍が短期駐在。十字軍の時期には、アルテミス神殿跡など、ジャラシュの遺跡の一部は要塞となっていました。アユーブ朝イスラム王国(Ayyubid dynasty、1171-1260)からマムルーク朝エジプト(Mamluk Sultanate、1250-1517)、オスマン帝国(Ottoman Empire、1299-1922)の時期には小規模な集落があるのみで、19世紀後半以後はシリア各地からの移民やロシア領の北カフカスからの難民が入植し始め、新しいジャラシュの街が遺跡の東隣に作られました。1920年代から、現在に至る遺跡の発掘が始まり、一部土に埋もれていた都市が姿を現しました。20世紀後半にはパレスチナ難民を合わせてジャラシュの人口が拡大しました。ジャラシュは遺跡の大きさや発掘の大規模さ、保存状態の良さから「中東のポンペイ」との異名も有。
・ゼウス神殿〜22-69年頃建設 ・アルテミス神殿〜138-174年頃建設 コリント式の柱が特徴的〜「アカンサスの葉」の柱はコリント式 ・小さな神殿群の廃墟 ・ニンファエウムの神殿(191年) 水の妖精ニンフ ・フォルム(広場)〜「ぐるぐる」が施されてるのはイオニア式 列柱で囲まれたオーバル状のユニークな広場 ・カルド(列柱道路)〜フォルムから北門まで600mの石畳が続く 街を貫く長い目抜き通り (パルミラの柱に比べれば、柱も細いし、背も低いが、綺麗な立派な列柱道路) ・四面門(テトラピロン、Tetrapylon)〜サウステトラピロンは土台だけ残存 大通り(カルド:列柱道路)が直交する街の中央に建つ ・3つの劇場、舞台は太陽が当る南側に設置 ・ローマ劇場〜(South Theater)南の大きな劇場3,300人収容、1世紀頃 ・北の劇場(North Theater)〜2,500人収容 ・東の劇場(East Theater) ・二つの公共浴場〜2世紀頃 ・市壁〜ほぼ完全な形状で残存 ・キリスト教会のモザイク床 非常に優れたモザイクで装飾されている13箇所以上の教会 バシリカ様式で建設のキリスト教の大聖堂(359年)有(Cathedral Stepes) その聖堂は元々古代ローマ神殿(ワインの神のバッカス神)遺跡上に建設。 など。 ・デカポリス (The Decapolis、BC64〜AD117/135) 「10の町」という意味(Ten Cities) デカポリスは、中東のレバント地方(Levant)で結成された古代ローマ帝国の十都市同盟で、元は新約聖書の福音書に登場するガリラヤ湖南方のヨルダン川両岸(主に東岸)の広大な地域に存在するパレスチナにおけるギリシアの10の植民地の町の総称のこと。これらは、アレクサンドロス3世(大王)の後継者達が建設しました。内ダマスコだけは北方に離れて、ヘレニズム以前からの古い歴史が有。 ・ガダラ(Gadara)、現ウム・カイス(Umm Qais)、ヨルダン ・ゲラサ(Gerasa)、現ジャラシュ(Jerash)、ヨルダン ・スキトポリス(Scythopolis)、現ベト・シェアン (Beth-Shean)、イスラエル(西岸) ・ダマスコ(Damasco)、現ダマスカス(Damascus)、シリア ・ディオン(Dion or Capitolias)、現ベイト・ラス(Beit Ras)、ヨルダン ・フィラデルフィア(Philadelphia)、現ヨルダン首都のアンマン ・カナタ(Canatha)、シリアのカナタ(Qanawat) ・ヒッポス(Hippos)、イスラエル ・ペラ(Pella)、ヨルダン ・ラファナ(Raphana)、ヨルダン 参考HP:〜 ・ジャラシュ県の場所地図 ・ジャラシュ遺跡の地図(主な遺跡の場所) ・デカポリスの場所地図 ・レバント地方の場所地図 こちらで世界遺産の ・ペトラ遺跡 (ヨルダン) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2017/1/21 |