★ドイツ | 極地探検(Antarctic Expedition) ジョージ・フォン・ノーメイヤー博士
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大航海物語★ |
MOZAMBIQUE 国際極地年の功労者
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南極の地図 スウェーデン1989/8/22発行小型シートより |
MALAWI バーク隊長 マラウィ 2008 発行 |
NEDERLAND オーストラリアの地図 オランダ 1988/8/30 発行 |
←ヴィクトリア州 ←タスマニア島 |
ドイツ生まれのノーメイアー博士は19世紀中頃のオーストラリアのヴィクトリア州ゴールドラッシュを聞きつけて、一攫千金を夢見て帆船に乗組んでオーストラリアに渡航しました。オーストラリアでは金鉱掘りをしましたが、沿岸航路の船乗りとなり、南半球での地球磁気観測の重要性に気付き、帰国して、それを学会に訴えました。フンボルト男爵などに認められ、バイエルン王国の国王マクシミリアン2世の援助を得て、南半球の地球磁気観測をオーストラリアで実施しました。それはバーク・ウィルス探検隊と行を共にしてメルボルンからスワン・ヒル、ヴィクトリア居住地を探査しました。そしてドイツ極地探検家となり、気象学の科学的観測に関する国際協力を提案し、ワイプレヒト船長と共に国際極地観測年の創始者になりました。 |
・ジョージ・バルサザール・フォン・ノーメイヤー博士 (1826/6/21〜1909/5/24) Dr. Georg Balthasar von Neumayer 航海士(Master's Mate) 極地探検家(German polar explorer) 米国の海洋学者マシュー・モーリーの弟子 科学者:地磁気学、水路学、海洋学、気象学 (scientist, magnetician, hydrographer, oceanographer and meteorologist) 生地:ドイツのラインラント・プファルツ州ドネルスベルクレス県々都キルハイムボランデン生 没地:ラインラント・プファルツ州ウェインストラッセ、84才没 ノーメイアーは南西ドイツ連邦のラインラント・プファルツ州(Land Rheinland-Pfalz、州都マインツ:Mainz)ドネルスベルクレス県々都キルハイムボランデン(Kirchheimbolanden, Donnersbergkreis)で生まれました。 1849年にバイエルン(Bavaria)州々都ミュンヘン(Munchen)のミュンヘン大学(Munich University)で地球物理学(geophysics)と水路学(Hydrography)の学びを終えました。極地の探検に興味を持ち、地上磁気学(terrestrial magnetism)、海洋学(oceanography)、ナヴィゲーション(navigation:航法)、海洋天文学(nautical astronomy)の勉学を続けました。イギリスのロス大尉の1831年の北極点到達と、1841年の南極探検の偉業に感動しました。1845年に実体験のため南米に航海して、航海士免許(mate's certificate)を取得し、アメリカ合衆国の海軍士官・海洋学者・海洋気象学者のマシュー・フォンテーン・モーリー(Matthew Fontaine Maury、1806- 1873)の弟子になりました。帰国後にハンブルグで、モーリー理論の講義をして、航法ナヴィゲーションの改良をしました。当時ドイツのバイエルン王国(Kingdom of Bavaria、1806-1918)国王(King of Bavaria、在位1848-1864)マクシミリアン2世(Maximilian II 1848-1864)の下で行われたバイエルン州の地磁気調査の実施を指導しました。1849年にミュンヘン大学から博士号を与えられました。
1857/1/27に再びオーストラリアに、バイエルン国王から提供を受けた£2000ポンド相当の磁気・海事・気象・観測機械などの器具を得て持参し、再度の渡航後、メルボルンに到着・上陸。ビクトリア州政府に観測所の建設許可を願い出ると、£700の建設資金と£600の維持費の提供を受けました。ヴィクトリア州に数多くの観測基地を建設。ロス大尉とカイ(Captain Ross & J. H. Kay)が作ったホバート地磁気観測所(Hobart Magnetic Observatory)でも働いて、タスマニア島にあるホバートの観測所(Hobart observatory)で過ごしました。 1858年に、フラグスタッフ・ヒル(Flagstaff Hill)に信号所(signal station)建設の許可を受け、現在メルボルンでフラグスタッフ・ガーデン(Flagstaff Gardens)と呼ばれている地球物学観測所(1862)の元となる基地を建設し、1858/3/1に組織的系統的な観測データを得ました。
1860年に地球磁気観測結果の報告(Results of the Magnetical, Nautical and Meteorological Observations from March 1858 to February 1859)と、ビクトリア州植民地の地磁気観測探査記録旅行(Results of the Meteorological Observations 1859-1862 and Nautical Observations 1858-1862 in 1864)を出版。 1864年にドイツに帰国して、地磁気観測結果(Results of the Meteorological Observations 1859-1862)と海事航法観測結果(Results of the Nautical Observations 1858-1862 in 1864)を出版、政府の学者に引き継がれ、1869年にその結果を報告しました。1867年にフラグスタッフ観測所(Flagstaff Observatory)で地球磁気観測議論(Discussion of the Meteorological & Magnetical Observations)をもたらしました。1869年にビクトリア州地磁気探査(Magnetic Survey of the Colony of Victoria 1858-1864)で、極めて価値ある結果が現れました。 1872年にドイツ海軍本部(German Admiralty)から水路機関長(hydrographer)に任命されました。1879年にカール・ワイプレヒト船長と共に国際極地年委員会(International Polar Commission)の議長を勤め、最初の国際極地年(International Polar Year 1882-83)と南極年(Antarctic Year 1901)を創始しました。1895年にドイツ南極探検委員会(German Commission for South Polar Exploration)を設立、1901年にガウスの探検(Gauss expedition)と呼ばれるドイツ最初の南極探検(German Antarctica Expedition)を実施。1890年に最初の雲の地図帳(cloud atlas)を編著しました。ガゼル号探検隊(SMS Gazelle(2,300ton) Expedition 1874-76)を組織、水路学委員会(hydrographic organisation)のドイツ・シーワルト隊(Deutsche Seewarte 1876-1903)を指揮し、ハンブルグ海洋天文台(Hamburg Oceanic Observatory)の台長を務めました(1876-1903)。 1900年にノールウェイの局地探検家ロアルド・アムンゼン(Roald Amundsen)がノーメイアーの所に学びに来ました。 1909年にラインラント・プファルツ州のウェインストラッセ(Neustadt an der Weinstrase)にて84才で亡くなりました。1981年にノーメイアー博士の名に因んで南極ウェッデル海のドイツ最初の南極基地がゲオルグ・フォン・ノイマイヤー基地(Neumayer Station)と名付けられました。 参考HP:〜 ・ノーメーヤーの探検の場所地図(オーストラリアの地図上の赤線) 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/5/13、2017/2/23 |