Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-9)
ファン・ド・サラザール 1537 アスンシオン砦を建設 |
大航海物語 スペイン編★ |
PAGUAY サラザール隊一行のアスンシオン到着、1537 甲冑姿のサラザール隊長 1537 アスンシオン建設450年記念 1987 パラグアイ 1987 発行 |
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PANAMA 新世界へ航海するスペインの船隊 パナマ 1968/5/7 発行 |
REPUBLICA ARGENTINA 南アメリカの古地図 ホンデュウス・メルカトル世界図、1610 |
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アルぜンチィン 1988 発行 |
←アマゾン河 ←ラプラタ河 |
スペイン生れのサラザールは1535年にアルゼンチン辺境総督ドン・ペドロ・ド・メンドーザの探検隊に参加して、スペインのサン・ルーカル・デ・パラメダ港を出帆。大西洋を横断、大航海して、翌年1月にラプラタ川の河口に到着。ブエノスアイレス砦(現アルゼンチン首都)の建設を手伝って、ラプラタ川を遡上探検して、アスンシオン砦(現パラグアイ首都)を建設しました。 |
ファン・ド・サラザール・イ・エスピノーサ Juan de Salazar y Espinosa (1508〜1560) 生地:スペインのカスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県エスピノーサ・デ・ロス・モンテロス生 没地:パラグアイのアスンシオン、52才没 肩書: 探検家(エクスプローラー)、征服者(コンキスタドール)、アスンシオン砦の建設者 (Explorer, Cconquistador, Colonial settlement founder of Fort Asuncion) サラザールはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県エスピノーサ・デ・ロス・モンテロス町(Espinosa de los Monteros(2,042人:2002), province of Burgos, Castile & Leon, Spain)で生まれましたが、生い立ちについては定かではありません。 1529年にドン・ペドロ・ド・メンドーザ・イ・ルハン(Don Pedro de Mendoza y Lujan 1487-1537)が自費で新大陸に大航海して、新植民地を建設することをスペイン国王に申し出ました。1534年になってそれが認可され、ドン・ペドロ・ド・メンドーザは、アルゼンチン(後のリオ・デ・ラ・プラタ副王領1776-1814)最初のラプラタ川の辺境総督(アデランタード:Adelantado of the Viceroyalty of the Rio de la Plata, 1529-1550)に任命され、出帆の準備に取掛りました。 1535/8月にサラザールは27才で、ドン・ペドロ・ド・メンドーザ辺境総督の探検隊に参加して、スペインのアンダルシア州カディス県サン・ルーカル・デ・パラメダ(Sanlucar de Barrameda, Cadiz, Andalucia)を13隻の船隊に2,000人で、新大陸のラプラタ川(Rio de la Plata, 290km)付近でスペイン領の新植民地を建設するべく出帆しました。1536/1月にラプラタ川の河口(幅:約270kmの三角江有)に到着ました。 メンドーザ総督はそこで居住地建設に取掛り、サラザールもそれを手伝って、1536/2/2に現在のブエノスアイレス市(Buenos Aires)の起源となる、周囲を1mのアドベ(adobe)土壁に囲まれたブエノスアイレス砦(ス:Ciudad de Nuestra Senora Santa Maria del Buen Ayre、英:City of Our Lady Saint Mary of the Fair Winds)が完成しました。 その後サラザールは、メンドーザ総督の命(1536年)でラプラタ川を遡上して北方のパラナ河(Parana River, 4,880km)とパラグアイ河(Paraguay River, 2,621km)を探検しに行った ファン・ド・アヨラス(Juan de Ayolas, Gobernador del Rio de la Plata y del Paraguay(1537-1538), 1537パラグアイ没)探検隊 から何の連絡もなかったので、1537年にアヨラス探検隊を探しに出発しました。アヨラス探検隊の別働隊 ドミンゴ・マルチネス・ド・イララ(Domingo Martinez de Irala, 1509-1556:アスンシオン没) と、1537/2月にアヨラス探検隊が建設していたカンデラリア港(Puerto de la Candelaria:現在の場所は不明)で出会いました。 そして、サラザールはラプラタ川からアルト・ペルー(Alto Peru、現:ボリビア方面)への陸路を探す遠征の途上で、1537年の「聖母被昇天祝日」(8/15:Assumption of Mary)にパラグアイ河(Paraguay River, 2,621km)東河畔に欧州人最初の恒久的居住地で砦(fort)のアスンシオン(ス:Nuestra Senora de la Asuncion, Paraguay、英:Our Lady of Asuncion、現:パラグアイ首都) を建設しました。そこは1541年に現地人の攻撃のため放棄されたブエノスアイレスからの避難者を迎え、市として整備されました。なお、ブエノスアイレス市は1580年にフアン・ド・ガライによって再建されました。 アヨラス探検隊を求めて、さらに遠くペルーのラ・リベルタ県サンペドロ(San Pedro de Lloc, La Libertad Region, Peru)まで探検を続けて、アヨラス隊長がチャコ地方の現地人種族(Gran Chaco people)に殺害されていたことを知りました。 1544年にサラザールはリオ・デ・ラ・プラタのカベサ・ド・ヴァカ総督の失脚騒動に巻き込まれて、スペインへ追放同然で帰国しました。3年後にリオ・デ・ラ・プラタに戻ってきました。そして、1560年にアスシオンで亡くなりました。 参考HP:〜 ・パラグアイの地図 ・南米の国別地図 ・ラプラタ川の場所地図(水系の地図:Asuncion、Buenos Aires有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2014/7/14、令和6年 2024/12/20 |