★インドネシア |
南マルク共和国 Republik Maluku Selatan |
地図参考資料★ |
南マルク共和国 Republik Maluku Selatan 南マルク共和国 は1949/12/27にインドネシア連邦共和国が成立し、連邦各国が「インドネシア共和国」一国に統合されていく過程で、アンボン島に「南マルク共和国」を樹立する運動が高まり、 1950/4/24、南マルク共和国 (RMS) 樹立を宣言 スモキルとマヌサマの指導の下、インドネシア共和国からの公然たる 分離独立を目指す南マルク共和国樹立がアンボンで宣言される 1950/7〜11月に住民とインドネシア国軍は衝突を繰り返すも、反乱は半年ほどで 平定され、国内での組織的な抵抗運動は年内に終結 反乱軍の残党が西イリアン経由でオランダへ逃れる 1970年代、「オランダが独立の約束を守らなかった」としてテロ事件を引き起こす 1975/12月、アムステルダムのインドネシア領事館占拠事件が発生 1977/5月、オランダ北部での列車乗っ取り事件が発生。
1512年、マラッカから探検航海して来て、セラム島の近くで難破し地元の住民に救助された ポルトガルのフランシスコ・セラン(Francisco Serrao)船長がテルナテ島のサルタン に同島に連れて来られてきて、同盟を結び砦を建設 1513年、最初のヨーロッパ人としてポルトガルのアントニオ・ダブリウが初めてアンボン島に 上陸、テルナテ島でポルトガルのマルク諸島での活動の中心となる ポルトガルはジャワ島へ渡る港として商業的、宗教的な交流のあるヒツ(Hitu)とし そこを島東北部の土着イスラム教徒が定期的に襲撃 1521年、ポルトガルがナツメグ生産の中心バンダ諸島でアンボン島に香料工場を建設、 1546年、フランシスコ・ザビエルがアンボン島、テルナテ島、モロタイ島に来て布教する 1575年、ポルトガルのサルタン排斥と強引な布教活動でテルナテ島から追放される 1580年、アンボン島を平和的に支配するも、現地の香辛料貿易を統制はできず 1599年、オランダのファン・ワールワイクがポルトガル勢を駆逐し 1605/2月、オランダがポルトガルを追い出した砦をヘイゲン(Steven van der Hagen)が 無血で占領してニュー・ヴィクトリア砦を建設し、支配権を確立 1606年、スペイン人がポルトガルに対抗してティドレ島に拠点を置いたが、 テルナテ島のポルトガルが築いた砦を占拠、スルタンを捕まえてマニラに移送 1607年、オランダがテルナテ島(ハルマヘラ島近く)の一部を占領 1610年、アンボン島がオランダ東インド会社(VOC)の本拠地となる(-1619) 1615年、イギリスがアンボン島のカンベロ(Cambello)に居住地を建設 香料貿易を行い、オランダと激しく競争 1619年、英蘭両国の政府が香料貿易協定を締結 1623年、アンボイナ島事件が発生、オランダがカンベロ居住地を襲い、 イギリス商館を破壊して、商館員を拷問の末に全員殺害 1654年、イギリスのクロムウェルがネーデルラント連邦共和国に賠償として マンハッタン島と300,000ギルダーの供与を要求 1663年、テルナテ島からスペインが撤退 テルナテ島はオランダ領とスペイン領に2分されも、オランダが丁子の生産拠点を アンボン島などに移し、モルッカ諸島の政治経済の中心がアンボン島に移る 1673年、イギリスの詩人ジョン・ドライデンは、悲劇「アンボイナ (Amboyna)」を製作 1796年、Rainier提督の下、イギリスはアンボン島を手中に収める 1802年、アミアン和約でアンボン島がオランダに戻される 1810年、再びイギリスが奪還する 1814年、再度オランダに戻される 19世紀までアンボン島は世界のクローブの生産の中心であった。オランダはアンボンの独占権を確保するため、クローブの木を育てることを禁止し、他の島々はその規則に従っていた。オランダ統治時代は、アンボンはオランダ居住民の中心地で、モルッカ諸島の軍司令部がヴィクトリア砦に置かれていました。オランダ人以外にも、アラブ人、中国人そして少数のポルトガル人の居住者がおり、第2次世界大戦でアンボンの街にはオランダ軍の主要基地があり、アンボンの戦いで大日本帝国が接収しました。 1945年、インドネシアが独立 1950年、南モルッカ共和国の反乱が勃発。 参考HP:〜 ・アンボン島の場所地図 ・アンボン島 (中央はセラム島で、左下がアンボン島) ・上記々述はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/11/11、11/5/11 |