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★スペイン | ジョージ・ホォアン 1735 エクアドル・サイエンス・ミッション |
大航海物語★ |
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ジョージ・ホォアン スペイン 1974/5/28 発行 |
スペインのコルベット艦 スペイン 1964/7/16 発行 |
ECUADOR |
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エクアドルの地図とアマゾン河 |
南米の地図とアマゾン河 |
ペルー(タルガイ)戦争132年記念 エクアドル 1961/2/27 発行 |
ジョージ・ホォアン・イ・サンタシリア Jorge Juan y Santacilia (1713/1/5〜1773/6/21) ジョージ・ホォアンはスペインのバレンシア州アリカンテ県ノヴェルダ(Novelda, Alicante, Spain)村で生れました。3才で父を亡くし、叔父のマルタ騎士団所属の騎士ドン・シピリアノ・ホァン(don Cipriano Juan)などに育てられ、さらにサラゴザに行き教育を受けました。12才でマルタ島に行きマルタ騎士団で教育を受け、14才で騎士のタイトル(Commander of Aliaga in Aragon)を取得し、生涯独身の誓いをたてました。 1729年16才でスペインに戻り、王立海軍士官学校にエントリーされ、1730年アカデミーに入学し、数学、航海学、天文学などにずば抜けた秀才ぶりを発揮して同級生から”ユークリッド”(Euclid、古代ギリシアの数学者、天文学者)と呼ばれ、1734年に卒業しました。22才でイタリア・ナポリ遠征の指揮官に任命され、3本マストのコルベット(Corvette)艦の司令官になりました。 1734年スペイン国王フェリペ5世の諮問を受け、フランスと共同で(French Geodesic Mission)エクアドルの科学調査をすることになりました。1735/5/26にペルー総督承認のもとにマルケス会社(company of the Marquess of Villagarcia)として、ホォアンはエル・コンキスタドール号(El Conquistador)に乗船してカディス港を出帆し、一路エクアドルへと向かいました。キトーで9年間にわたる科学的調査をし、地球が完全な球体ではないことやアンデスの山の高さを調べたりしました。ホォアンはさらに9年間アメリカに残り、スペイン領の政治的社会的状態を調査して、スペインに戻りました。フェルヂナンド国王は彼をキャップテン(Captain)に昇進させました。 スペイン宰相ドン・マルケス(Marques de la Ensenada)の命により、隠密裏に”Mr. Josues”として1749年イングランドに渡りました。そしてイギリス海軍の造船を学び、造船技術者(Matthew Mullan、Richard Rooth含)を連れて、1750年にスペインに戻ってきました。帰国後はスペイン海軍の造船責任者となり、多くの戦艦を建造しました。それらは皮肉にも、後のトラファルガー海戦でイギリス戦艦と砲火を交えることとなりました。 1757年には国立スペイン天文台(National Astronomical Observatory of Spain)を造りました。1773年にスペインの都マドリードで亡くなり、サンマーチン(San Martin)教会に葬られました。享年60才。南無〜! ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/11/20 |