切手で綴る世界遺産(シリア)
古代都市遺跡パルミラ
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パルミラの女性像 地下墳墓群から見つかった胸像 The Besauty of Palmyra シリア 1961 発行 |
パルミラの女王ゼノビア シリア 1961-63 発行 |
パルミラの記念門と列柱道路(全長約1.3km)遺跡 | |||||
SYRIE フランス委任統治領シリア 1925 発行 |
REPUBLIQUE SYRIENNE シリア 1952/4/22 発行 |
SYRIAN ARAB REPUBLIC 列柱道路の記念門遺跡 Archway, Palmyre シリア 1961-63 発行 |
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REPUBLIQUE SYRIENNE 列柱道路遺跡 Palmyra フランス委任統治領シリア 1940 発行 |
SYRIE ベル神殿のリンテル Lintel from Temple of the Sun Temple de Baalshamin シリア 1956/10/8 発行 |
・古代都市遺跡パルミラ Palmyra Ruins 所在地:シリア中央部ホムス県パルミラ郡タドモル (Tadmur, Palmyra District, Homs Governorate(province), Syria) 世界遺産:ユネスコの文化遺産(1980) (UNESCO World Heritage Site, Type:Cultural) 正式名称:日:パルミラ遺跡 英:Site of Palmyra 仏:Site de Palmyre ・危機遺産:2013年、登録 パルミラはパルミラ王国とローマ帝国支配時の都市遺跡(古代セム族都市:ancient Semitic city)で、1980年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。パルミラ王国のローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式の円形劇場や、浴場、四面門、記念門列柱道路などがありましたが、過激派組織”IS”(イスラム国:Islamic State、IS)が、2015年5月から10ヵ月に渡ってシリア中部パルミラを支配した時、世界遺産を破壊しました。アサド政権軍が2016/3/27午前にパルミラの全域を、”IS”から10ヵ月ぶりに奪還して調査すると、ISはパルミラ遺跡を象徴するベル神殿の本殿と列柱、記念門、バールシャミン神殿を爆破していました。博物館前の「アラート神殿のライオン像」も倒され、バラバラになっていました。2世紀に造られたライオン像は硬質の石灰岩製で、高さ約3m、重さ約15トン。ISは像をワイヤーでトラックに結び、引き倒したと推測されました。 シリア中央部シリア砂漠の中にあるパルミラ遺跡は、シ リアの首都ダマスカスから北東へ約230kmで、ユーフラテス川(Euphrates, 2,780km)流域からは南西へ約120km。海抜は400mで、シリア中央部を北東方向へ伸びるアブ・ルジマイン山脈(Jabal Abu Rujmayn)の南麓に有。北から流れるワジ(涸れ川)のワジアブオベイド川(Wdi Abu Obeid)と、西から流れるワジアイド川(Wadi Aida)が形成した扇状地に建設されたオアシス都市で、 紀元前1世紀から3世紀まではシルクロードの中継都市として、また交易の関税による都市国家として繁栄しました。ナツメヤシの緑に包まれ、その産地パルミラの名もギリシャ語でナツメヤシを意味するパルマ(Palma)が起源といわれています。紀元前1世紀にローマ帝国の属州となり、中国とヨーロッパを結ぶ東西交易路の中継地として発展。パルミラは、2世紀にヨルダンのペトラ(ナバテア王国:Nabataeans, BC168-106)が衰え、ローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至りました。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブ人の市民は、東のペルシャ(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していました。紀元前3世紀頃から多数の地下墓地が建設され、当時からアラム語で現在のアラビア語名と同じくタドモル(Tadmor) と呼ばれました。 ローマ帝国の軍人皇帝時代(3世紀、Barracks emperor, 235-284)にパルミラ王国が成立し、267年に、ローマ総督に任命されていたパルミラ長官オダエナトゥスが暗殺され、これを機に妻のゼノビアが息子を皇帝に擁立、自ら皇妃と称してパルミラ王国を打ち立てました。ゼノビアはクレオパトラの末裔を名乗る美女で、政治にも長けていました。270年頃に君臨したゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置いているも、ローマ皇帝ルキウス・アウレリアヌス(Lucius Domitius Aurelianus, 在位270-275)が北方民族のローマ侵入を食い止めた後、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。272年に女王ゼノビアはアウレリアヌス帝の遠征で捕えられ、273年にパルミラは陥落し廃墟と化しました。シルクロードを行くキャラバンでにぎわい、商人たちを楽しませていた円形劇場も、浴場も廃墟となってしまいました。パルミラの主神を祀るベル神殿や列柱道路などの都市遺跡は、1世紀から2世紀の建造。遺跡の西に広がる墓の谷では、さらに古い紀元前3世紀ごろからの塔墓や地下墳墓も発見されています。15世紀に築かれたアラブ城砦パルミラ城からは、世界で最も美しい廃墟のひとつといわれるパルミラが一望のもとで、夕陽に染まる姿が美しく、そのような夕景を商人たちが「バラの街」(Rose city)と称えました。
<主な遺跡>
・ディオクレティアヌスの浴場 (Baths of Diocletian、Palmyre) 記念門から少し離れた所に、ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、在位284-305)が306年ローマに建設した公衆浴場に例えられる「ディオクレティアヌスの浴場」といわれる浴場と、アッシリアとバビロニアで信仰されていたメソポタミア神話の知恵と書記の神ナブー(Nabu)の神殿がありました。
・城塞(パルミラ城) (Castle of Diocletian、Palmyre) 城塞(Palmyre Castle)は岩山(駐屯地の北西)の上にあって、その下には駐屯地の兵営がありました。タドモル刑務所(Tadmor Prison, Palmyre, Syria)時代には、厳しい尋問、広範囲な人権侵害、拷問と処刑で知られていました。アムネスティ・インターナショナルによる2001年のレポートは、それを「絶望、拷問と名誉を傷つける処置」の源と呼びました。1980/6/27にタデモル刑務所で刑務所大虐殺があり、何千ものシリアの囚人が虐殺されたといわれています。2001年に閉鎖され、囚人はシリアの他の刑務所に移されました。2015/5/30にイスラム国ISが爆薬で破壊しました。 ・駐屯地 (Camp of Diocletian、Palmyre) ディオクレティアヌス城砦駐屯地は墓の谷にあって、列柱道路の横軸となる通りから続いています。シリアの統治者ソシアヌス・ヒエロクレス(Sossianus Hierocles、活躍期303頃)が建設しました。中央に大きなプリンシピア(principia、軍隊の本営を収容する広場)の遺構が有。近くにはシリアの女神アラートの神殿(西暦2世紀)も有。 ・ダマスカス門 (Gate of Damascus、Palmyre) ダマスカス門は、列柱道路の横軸となる通りで、ディオクレティアヌス城砦駐屯地のそばにあって、17年に建立されました。 ・バール・シャミン神殿 (Temple of Baal-Shamin、Palmyre) バール・シャミン神殿は、ダマスカス門のそばにあって、17年に建立され、後にオダエナトゥスの統治下で拡大しました。遺構には内陣 (cella) へと通じるポルチコ(Portico、列柱の屋根のある玄関)が有。
・パルミラ博物館 現地には博物館が建設されています。
・パルミラ王国の成立 212年にササーン朝(Sasanian Empire、226(パルティアを倒して成立)-651)ペルシアが、衰退するパルティア王国(Parthia Empire、BC247頃-228)を圧迫し、チグリス河(Tigris, 1,900km)とユーフラテス河の河口を占領すると、パルミラ経由の通商は途絶えがちになり、パルミラの長官セプティミウス・ヘロド(Septimius Hedro)の息子でパルミラ市生まれのセプティミウス・オダエナトゥス(Septimius Odaenathus、在位263-267)はローマ皇帝プブリウス・ヴァレリアヌス(Publius Licinius Valerianus、在位253-260)からシリア属州(Provincia Syria, BC64-637)総督(長官)に任命されました。260年にウァレリアヌス帝がササーン朝とのエデッサの戦い(Battle of Edessa)で捕らえられ、虜囚となったままペルシャのビシャプール(Bishapur)で没すると、オダエナトゥスは復讐としてペルシア領内に遠征し、イラクのクテシフォン(Ctesiphon)に2度侵攻。オダエナトゥスは内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任され、その本拠パルミラはローマから半独立状態の王国になりました。 ・パルミラ王国の繁栄 267年にオダエナトゥスがゴート族討伐の出征前宴席で甥マエオニウス(Maeonius)に暗殺されると、妻ゼノビアが息子ヴァバッラトゥス(Lucius Iulius Aurelius Septimius Vaballathus Athenodorus、在位:267-273)を擁立してパルミラの実権を握りました。ゼノビアは哲学者カッシウス・ロンギヌス(Cassius Longinus 213-273)博士を顧問に迎え、アラビアのペトラエア(Arabia Petraea)の州都ボスラ(Bosra)を征服し、さらにはローマのエジプト属州アエギュプトゥス(Provincia Aegyptus)へも遠征して領土を拡大し、ヴァバラトゥスに皇帝(Augustus:アウグストゥス)号を称させました。 ・パルミラ王国の滅亡 北にある大都市アンティオキア(Syrian Antioch)も奪おうとしていたゼノビアは、273年にローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(Lucius Domitius Aurelianus、在位270 - 275)の遠征攻撃を受けて敗北し、捕らえられローマに送られました。虜囚となったゼノビアはローマ近郊のティヴォリに邸宅を持つことを許され華やかな余生を送りました。パルミラの街は破壊され、ロンギヌス博士らパルミラ政府の高官は殺され、王国は滅亡しました。その後、ローマ帝国はパルミラをローマ軍団の駐屯地の基地に変えました。
オダエナトゥスはガッリエヌス帝(Publius Licinius Egnatius Gallienus, 在位253-268)に叛旗を翻して皇帝を僭称したティトゥス・ユニウス・クィエトゥス(Titus Fulvius Iunius Quietus, ?-261)の討伐や、バグダードの南東でチグリス河東岸にあるペルシャの首都クテシフォン(Ctesiphon)へ2度も攻め入るなどの功績を挙げてガッリエヌス帝の信頼を勝ちとりました。それらの遠征にゼノビアはパルミラ軍に同行しただけでなく、軍装を纏い、その智謀で夫オダエナトゥス長官を支えました。267年にオダエナトゥスが甥のマエオニウス (Maeonius) に暗殺され、また長男ヘロデスも同時に殺害されると、パルミラは長官と後継者を相次いで失う混乱状態に陥りました(ゼノビアが仕組んだともいわれる)。ゼノビアは子息ヴァバッラトゥスをオダエナトゥスの後継者に据えると共に自らはその共同統治者とななり女王を自称することで、一連の事態を収拾することに成功しました。 ローマ皇帝ガッリエヌスの治世下での功績もあってガッリエヌス帝から、ローマ帝国東部属州を委任されていた長官オダエナトゥスはパルミラを根拠地として既に半独立(パルミラ王国)の状態でした。西方属州にはガリア帝国が割拠、北方属州へはゴート族等の北方異民族の侵入が相次ぐ中、268年にはガッリエヌス帝が暗殺されました。女王ゼノビアはローマの迷走に乗じる格好で「サーサーン朝の侵略からローマ東部属州を護る」という名目で皇帝直轄領アエギュプトゥス(ローマ帝国属領時代のエジプト)及びカッパドキアやパレスティナ、カルケドンなどのローマ東部属州・都市に軍を派遣して次々と「領土」を拡大していきました。女王ゼノビアは自らを「エジプトの女王」と称し、またこれらの事件から「戦士女王(Warrior Queen)」とも呼ばれました。実際に女王ゼノビアは騎馬術にも優れた才能を示していました。女王ゼノビアは、カルタゴを建国したと伝えられている伝説上の女王ディードー(Queen Dido)や、アッシリアの伝説上の女王セミラミス(Queen Semiramis)、プトレマイオス朝(Ptolemaic dynasty、BC306-BC30)のクレオパトラ7世(Cleopatra VII Philopator, BC51-BC30)の後継者を自称したとされています。 ・ローマとの戦争 270年にローマ皇帝となったルキウス・アウレリアヌス(Lucius Domitius Aurelianus, 270-275)は北方異民族の侵入を撃退して、ローマから分離・割拠した西のガリア帝国、東のパルミラ王国に目を向けました。アウレリアヌス帝はパルミラに降伏を勧告するも、女王ゼノビアは272年にローマ帝国皇妃の称号のアウグスタ(Augusta)を自称、子息ウァバッラトゥスにはアウグストゥス(Augustus)を名乗らせると共に、これを記念した貨幣を発行し、ローマに対抗する姿勢を見せました。272年にアウレリアヌス帝は自らパルミラへ遠征して、抵抗したイスタンブールのあるバルカン半島トラキア東端の小さな半島のビザンティオン(Byzantion)などを陥落させました。女王ゼノビアは子息ウァバッラトゥス長官と共に軍を率いてローマ軍を迎え撃ちました。女王ゼノビア自らが陣頭に立って士気を鼓舞し、戦闘指揮はアエギュプトゥス攻略で活躍した将軍ザブダス (Zabdas) に任せるも、2度の戦いのアンティオキア近郊イマエの戦い(Battle of Immae, 272)とエメサの戦い(Battle of Emesa, 272)で大敗を喫し、ウァバッラトゥス長官は戦死しました(捕虜となった後に死亡したともされる)。女王ゼノビアはパルミラへと逃れて、籠城準備を整えました。ローマ軍はパルミラを包囲するも、兵站線が延びきっていたことに加えて、現住のアラブ人による攻撃が包囲を困難にしました。女王ゼノビアはペルシャからの支援を期待するも、ローマ軍はエジプトを攻略した将軍プロブス(Marcus Aurelius Probus, 232-282、軍人皇帝時代のローマ皇帝:在位276-282)が軍を率いてパルミラへ到着して兵站線が確保できて、軍勢が飛躍的に増加したことで、女王ゼノビアは敗色を悟りペルシアへ逃亡を図ったものの、ユーフラテス河を越える前にローマ軍に捕縛されました。その後パルミラ市もローマに降伏して、273年にパルミラ王国は滅亡しました。 ・その後の余生 ゼノビアはローマへと連行され、274年にガリア帝国もローマへ統合したアウレリアヌスの凱旋式(274)でローマ市内を引き回されました。その際にゼノビアは黄金の鎖で自らを縛り、その美貌と威厳をローマ市民に示したと伝えられています。なお、ローマへの連行中のゼノビア死亡説が有るも、凱旋式の後はローマ国内のティブル(現:ティヴォリ)のウィッラ・ハドリアナの近郊に高級な別荘(ヴィラ)を与えられ、社交界でも活躍するなど、贅沢に暮らしました。また、ゼノビアはローマの元老院議員(名前は伝わっていない)と再婚し、数人の娘(やはり名前は不詳)にも恵まれ、その娘もローマの高貴な身分の人と結婚したとも伝えられています。いずれにしてもゼノビアに勝利したアウレリアヌス帝(275暗殺)よりも長く生きたことは確実のようです。 参考HP:〜 ・パルミラ遺跡の場所地図(世界遺産) ・パルミラ王国の場所地図(最盛期の版図) ・271年頃のローマ世界の地図(パルミラ王国は黄色部分) ・パルミラのベル神殿レリーフ図(切手のベル神殿:Linteau du temple belshamine) ・ホムス県の場所地図 ・シリアの地図 ・シリアの地図(パルミラの涸れ川ワジなどシリアの川有) こちらで世界遺産の ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ペトラ遺跡 (ヨルダン) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2017/1/18 |