★日  本
文禄・慶長の役
1592〜1598
海 戦

大航海物語★
REPUBLIQUE de BENIN
日本の安宅船(?)

昭和50年 1975/925 発行
MARSHALL ISLANDS
亀甲船が豊臣秀吉侵略軍を撃破
李舜臣の亀甲船 壬辰倭乱

丁酉再乱
マーシャル 1998 発行

日本 Nippon
日本の千石船

日本 昭和51年 1976/3/11 発行
明のジャンク船

グレナダ 1998/4/26 発行

便郵国帝本日大
朝鮮半島と日本の地図

日本 昭和5年 1930/9/25 発行

文禄・慶長の役(1592/4〜1598/12)は、韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ばれています。豊臣秀吉が日本全国を平定して後、その侵略軍が朝鮮に侵入して、日本軍と朝鮮・明の援軍との連合軍が戦った戦争です。

前期が「文禄の役」(1592(文禄1年)〜1593)と呼ばれて、宇喜多秀家を総大将として16万の軍勢を朝鮮に出兵するも休戦となりました。

その後、明との講和交渉が決裂、小早川秀秋を総大将として14万の軍を再出兵したのが、後期の「慶長の役」(1597(慶長2年)〜1598)と呼ばれています。
文禄・慶長の役(1592/4〜1598/12):主な海戦:〜
・海戦:〜(1)
巨済島東岸入り江・玉浦の海戦 (1592/5/7)  第1次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
藤堂高虎
兵 力 24隻の板屋船,
57隻の小舟
30隻
船舶被害 なし 26隻破壊
死傷者 なし 約400人死亡 生残りは山中に逃走
玉浦の海戦は李舜臣提督の最初の海戦。提督は釜山浦付近くへ探望船を送って偵察させ、提督は倭船隊の規模と戦闘方式を把握するまで出撃せず。5/7に提督は元均の船隊とともに出帆して玉浦へ向かった。倭船隊は船から下りて玉浦付近の村を略奪していた。倭人たちは朝鮮船隊を発見するや、すぐさま船に乗船。提督は倭軍が全て乗船するまで待って砲撃を命令。提督の船隊は船を一列にした「一字陣」を取っていた。提督はその当時、非常にありふれている戦法である敵の船に乗る戦法を使わなかった。提督は倭船に砲撃だけするように命じ、倭船隊をほとんど破壊。玉浦海戦の勝利は開戦以来朝鮮が成し遂げた初勝利であった。

なお、両軍の戦法は、倭軍は「接舷・斬り込み」戦法で「積荷を奪う」方式、朝鮮軍は倭寇対策以来の伝統戦法「砲撃、破壊」が主だったが、乱戦となると「この限りに非ず」だった。

・海戦:〜(2)
巨済島(前洋)・合浦の海戦 (1592/5/7)  第1次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
藤堂高虎
兵 力 24隻の板屋船
57隻の小舟
5隻
船舶被害 なし 5隻破壊 大型船5隻炎上沈没
死傷者 なし 陸地へ逃亡
玉浦海戦後、李舜臣提督は巨済島にある永登浦に停泊する予定だったが、探望船が倭船が現:鎮海の合浦を通りすぎているという消息を聞いた。提督は直ちに船隊をそちらへ向かわせ、倭船を追い掛けて攻撃。倭人たちは船を捨てて陸地へ逃亡。朝鮮船隊は全ての船を破壊したあと、昌原にある藍浦へ向かった。

・海戦:〜(3)
赤珍浦海戦 (1592/5/8)  第1次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 李舜臣 不明 早朝
兵 力 24隻の板屋船,
57隻の小舟
13隻
船舶被害 なし 13隻破壊 大船9隻・中船2隻他破壊
死傷者 不明 乗船する時間がなし
明け方、李舜臣提督は倭船隊が鎮海の古里梁に停泊していることを知った。提督は直ちに出撃して倭船隊を追いかけ、提督は固城にある赤珍浦で13隻の倭船隊を発見。倭人たちは乗船する時間がなく、陸地から鳥銃(てっぽう)で攻撃をしてきた。提督の船隊は倭軍を弓で攻撃して全ての船を破壊。この戦闘以後、提督は5/9に本陣がある麗水に帰った。

・海戦:〜(4)
泗川浦海戦(1592/5/29) 第2次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
不明 泗川泊地を攻撃される
兵 力 26隻の板屋船,
20隻の小舟
13隻
船舶被害 なし 13隻破壊 大船13隻炎上
死傷者 李舜臣負傷 陸地へ逃亡
本陣に戻った後、李舜臣提督は5/27まで船隊戦法を訓練したり水軍の訓練に力を注いだ。提督は麾下将帥らと共に次の海戦での戦法を相談して、全羅左水営と連合することに決めた。提督は左水営に伝言を送って6/3に会うことにした。5/27に元均が伝言を送ってきたが、元均の船隊が攻撃を受けているといってきたので、李舜臣提督は左水営と船隊を合わせることができずに5/29に単独で出撃。提督は元均の船隊と会った後、倭船隊を追いかけて泗川浦に停泊していることを知った。提督は泗川浦沖が狭くて潮の満ち引きが激しいから、船を一列に並べる「長蛇列」に広げろと命じ、そのまま泗川浦へ向かった。日本船隊を港で誘引しようとしたが、約200人余りの倭軍は港から鳥銃(てっぽう)で射撃をするだけであった。このとき、潮の流れが変わって提督の船隊は港に接近できるようになった。この海戦で提督は亀甲船(コブッソン )を初めて出撃させた。亀甲船は船隊が進入する前に先に突撃して倭船を錯乱させた。すぐさま倭軍は船を捨てて陸地へ逃亡した。すると、提督は残ったすべての船を沈没させた。提督はこの海戦で鳥銃(てっぽう)が左肩に当たり負傷。

・海戦:〜(5)
唐浦海戦 (1592/6/2) 第2次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 李舜臣 亀井茲矩 唐浦泊地を攻撃される
兵 力 26隻の板屋船
20隻の小舟
13隻
船舶被害 不明 21隻破壊 21隻全滅
死傷者 不明 亀井茲矩が戦死
李舜臣提督は船隊を動かして、6/1に固城の蛇梁島に停泊。翌日午前8時頃、提督は唐浦に日本軍船隊が停泊中という探望船の情報を聞き、ここを離れて唐浦へ向かった。提督は午前10時頃、唐浦に到着して倭船隊を攻撃。倭軍は船上から、または陸地から対抗射撃をしてきた。提督は亀甲船を送り、先に突撃して倭船隊隊長船である安宅船を先に攻撃して撃沈。すぐさま提督の麾下将帥である権俊が倭隊長である亀井茲矩を打ち取った。提督の船隊は隊長が死ぬや、混乱に陥った倭軍を次々に殺害した。提督の船隊が倭軍の全ての船を沈没させて勝利を確定した頃、探望船から倭軍船隊が巨済島から進出してきているという諜報を入手。そして、提督は船隊を率いてこの倭船隊を追い掛けようとしたが、捜すことができなかった。

・海戦:〜(6)
1次唐項浦海戦 (1592/6/5-7) 第2次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
全羅右水使・李億祺
加藤清正
兵 力 51隻の板屋船
50隻の小舟
26隻
船舶被害 なし 26隻破壊 加藤軍全滅、損害74隻
死傷者 不明 不明
全羅左水営が6/4に李舜臣提督の船隊と会って、連合船隊を構成することになった。これで朝鮮船隊の戦力は2倍に電撃拡張された。ある市民が固城地方の唐項浦に倭船隊が停泊していると申告をした。李舜臣提督は将軍らと協議をして倭船隊を唐項浦から誘引することにした。 朝鮮船隊は二つの分隊を構成して最初の分隊が先に唐項浦へ向かった。二番分隊は最初の分隊が港に入ってこいとの信号を送るときまで待機して攻撃に出た。この海戦でも亀甲船は先に突進して隊長船である安宅船を先に沈没させ、全ての倭船船を沈没させた。

・海戦:〜(7)
栗浦海戦 (1592/6/7) 第2次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
全羅右水使・李億祺
来島通之
兵 力 51隻の板屋船,
50隻の小舟
7隻
船舶被害 なし 7隻破壊
死傷者 不明 陸地へ逃亡 来島道之が切腹
明との連合艦隊は明け方頃に出発して甑島に到着。この近くで朝鮮船隊は倭船隊の痕跡を探そうと努力して正午頃に永登浦に到着した。ここで小規模の倭船隊を発見して追撃した。この海戦で敗れるや、倭軍は船を捨てて陸地へ逃亡した。倭軍の記録には、この海戦以降倭軍隊長だった来島道之が近くの陸地に上陸したあと自殺したと記録されている。連合船隊は6/10に分れてそれぞれの軍営へ向かった。

・海戦:〜(8)
閑山島海戦 (1592/7/8) 第3次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
全羅右水使・李億祺
脇坂安治
兵 力 59隻の板屋船,
50隻の小舟
73隻
船舶被害 なし 59隻被害 脇坂軍59隻損害、脇坂安治負傷
死傷者 不明 不明 真鍋左馬允は船を失って上陸後に切腹
倭の統治者であった豊臣秀吉は倭軍に伝令を下し、水軍同士連合して朝鮮船隊に対抗するように命じた。しかし、脇坂安治は一人で出撃することに決めた。7/7に脇坂は倭船隊を率いて当時倭水軍の総司令部があった鎮海を離れた。脇坂の船隊は巨済島付近に到着して見乃梁に停泊。停泊していた倭船隊を見た羊飼いがこれを朝鮮水軍に知らせた。朝鮮船隊は倭船隊を広い海へ誘引することにしたが、これは見乃梁沖が狭くて板屋船の進行方向を変えにくかったためだった。その上、倭軍は戦闘中に守勢に回れば、陸地に逃げる公算が大きかった。5,6隻で構成された分隊は見乃梁へ向かい、残り船隊は閑山島沖で待機。分隊は日本船隊を攻撃して退却させ、倭船隊を誘引した。李舜臣提督はこの戦闘で提督の最も有名な戦法の中の一つである「鶴翼陣」を広げるように命令。朝鮮船隊は「鶴翼陣」を取ったあと、直ちに砲門を開いて攻撃し、はじめの攻撃により2、3隻の日本戦船があっという間に沈没。朝鮮船隊は勢いに乗り、倭船隊の隊長船(安宅船)に攻撃を集中させながら日本船隊を囲んで攻撃を繰り広げた。戦闘が守勢に追い込まれると、倭大将の脇坂安治は14隻の船を率いて退却した。

・海戦:〜(9)
安骨浦海戦 (1592/7/10) 第3次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
全羅右水使・李億祺
九鬼嘉隆, 加藤嘉明
兵 力 59隻の板屋船,
50隻の小舟
42隻 倭軍大船21隻・中船15隻・小船6
船舶被害 なし 20余隻撃沈 40隻余全滅
死傷者 不明 陸地へ逃亡
朝鮮船隊が見乃梁で休息を取っているとき、7/9に探望船から倭船隊40隻余りが安骨浦に停泊しているという報告が入ってきた。当時、安骨浦に停泊していた倭船隊は九鬼嘉隆と加藤嘉明の連合船隊であった。二人の倭大将は7/7に脇坂船隊に従って出撃したところだった。7/10に朝鮮船隊は安骨浦へ向かった。朝鮮船隊は入り江沖の水位が低くて板屋船が接近できなかったので、倭船隊を誘引しようとした。しかし、倭船隊は入り江から出ずに陸地から対応射撃をしてきた。李舜臣提督は分隊を送り、港に停泊していた船を砲撃で沈没させた。多くの倭軍が死に、生き残った者は陸地へ逃亡した。倭船隊の半数程度の船が撃沈されたあと、朝鮮船隊は周辺の山に隠れていた平民の安全と安危が気になり、戦場を離れた。李舜臣提督の船隊は7/13に本陣に帰投。

・海戦:〜(10)
長林浦海戦 (1592/8/29) 第4次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
全羅右水使・李億祺
不明
兵 力 板屋船と小舟を含め、
約74隻
6隻
船舶被害 なし 6隻破壊
死傷者 不明 全滅
李舜臣提督は戦闘がない間、戦船を建造して全羅左水営と共に戦法訓練をした。全羅連合船隊は慶尚左水営側から倭船隊が金海から出帆して下ってくるという消息を聞き、8/24に出撃した。全羅連合船隊は釜山の方へ向かいながら、倭戦船を8/28まで探索した。8/29になり、倭戦船を東莱にある長林浦で発見して全て撃沈した。

・海戦:〜(11)
釜山浦海戦 (1592/9/1) 第4次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
全羅右水使・李億祺
大部分の倭軍大将
兵 力 74隻の板屋船と
92隻の小舟
470隻
船舶被害 鄭運、
6人の朝鮮水軍死亡 ,
25人が負傷
130隻破壊 470余隻を攻撃、
100隻余破壊
死傷者 不明 不明
絶影島での戦闘後、李舜臣提督は釜山浦へ探望船を送った。探望船は470隻余りが釜山浦に停泊中であるのを発見して朝鮮船隊に戻った。朝鮮船隊は釜山浦へ向かい、まず倭戦船4隻を撃沈して「長蛇列」をつくり敵陣に突撃。倭陸軍も倭船隊に合流して周辺の丘から朝鮮船隊を攻撃した。しかし、朝鮮船隊はこの海戦で大勝を収めた。その後、戦船を修理し、兵糧が不足していたため本陣に戻った。李舜臣提督の船隊は9/2に本陣に帰投した。

・海戦:〜(12)
熊浦海戦(1593/2/1) 第5次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊
司令官 全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
全羅右水使・李億祺
不明
兵 力 89隻 40隻
船舶被害 通船2隻転覆 13隻破壊
死傷者 不明 倭軍100人射殺
熊浦海戦の期間である2/22から29日までの1週間の晋州城第2次戦闘で、朝鮮軍9千2百余人と民間人6万余人が9万2千余人の倭軍の攻撃を受けて全滅するとてつもない敗戦を喫した。しかし、全羅道の関門である晋州が陷落したが、李舜臣船隊が全羅道海上を鉄壁守備したため、倭軍は全羅道を占領することはできなかった。

よく熊浦海戦はあまり重要な海戦ではないような評価が下されているが、明・倭講和交渉期に行われた重要な一戦であった。特に宣祖から李舜臣提督が三道水軍統制使に任命される相当期間以前に正式命令で全ての水軍を総動員しろという内容を含んでいることから見て、三道水軍統制使の職制を創設する構想をたてていたことがうかがえる。

そして、「一隻の船も返すな」(片帆不退)という力強い王の指示は、敵の退路遮断と追撃掃討の意志を内包していたが、李舜臣提督は最長期間である1ヵ月3日間の苦しい作戦を展開した。しかし、不幸にも当時の作戦権を握っていた明軍が倭との講和交渉を進展させるために、陸軍はもちろん水軍に戦闘中止指示を下すことで、憤りが爆発するのに耐えがたかったのである。朝鮮戦争の休戦も望まない方向に進展したため、結局、休戦協定調印のとき、戦争当事国でありながらも協定文書の署名者として含まれなかった侮辱を受けたのである。

ともかく、李舜臣の熊浦海戦は豊臣の特別命令によって、敵水軍が熊浦に構築した海上前進基地兼陸上前哨基地を半身不随に大破することで、倭と明との講和交渉で朝鮮に不利な条件を一方的に倭が突きつけることができないように釘をさす役割をしたのである。

文禄2年(1593)3月に和議開始。

・海戦:〜(13)
2次唐項浦海戦 (1594/3/4-5) 第6次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊
司令官 三道水軍統制使
李舜臣
不明
兵 力 30隻の板屋船 不明
船舶被害 なし 30隻破壊
死傷者 不明 不明
李舜臣提督は探望船から日本船隊が吾里梁へ向かったという報告を聞いたあと、船隊を動かして甑島へ向かった。提督は船隊を二つに分けた。魚泳潭が30隻余りからなる最初の船隊を率いて倭戦船30隻を攻撃する間、李舜臣提督の船隊は甑島の海を守っていた。魚泳潭の船隊は唐項浦沖で30隻の倭戦船を撃沈した。提督は5/7に本陣に帰投した。

・海戦:〜(14)
場門浦海戦 (1594/9/29-10/4) 第7次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊
司令官 三道水軍
全羅左水使・李舜臣
慶尚右水使・元均
全羅右水使・李億祺
不明
兵 力 50余隻 不明
船舶被害 自軍被害なし 2隻撃沈
死傷者 不明 不明
唐項浦海戦後4ヵ月が過ぎた7,8月頃からは、倭軍の動きが前より組織的に現れ始め、長門浦一一帯を中心に沿岸には各入り江ごとに家をたてるなど長期間留まる準備をしていた。これを知った李舜臣は水陸はさみ撃ちで敵を打ちのめす体制を整えるに至った。8月初旬から李舜臣提督は都元首権慄と数回にわたり、公文書で出撃のための対策を相談した。また直接会うなど忙しい毎日を送っているところ、9/22には権慄将軍から「27日兵士を起こす」という内容の連絡を受けた。
このときから李舜臣提督はより一層積極的な臨陣態勢を取り、24日には海戦時、各道指揮官らの標識のため号衣を支給した。これに伴い全羅左道は青い服9着,全羅右道は赤い服10着,慶尚道は黒い服4着などだった。この色のある服で部隊を識別することができる。青い色は左軍,赤い色は前軍,黒い色は後軍を表わす。
ついに26日には有名な郭再祐と金徳齢らが権慄の指示により見乃梁に達し、李舜臣提督も27日閑山島を出帆して赤島近海に達して、これら陸軍将帥らは各戦船に乗船した。言わば今から李舜臣提督が望んでいた水陸はさみ撃ち作戦を実践段階に移そうとする瞬間であった。

引き続き28日には胸島沖に達して一旦休息し、29日一斉に場門浦沖に突入した。このとき、倭軍は険しいところに陣取って出てこなかった。彼らは楼閣を高くたてており、両方の峰には壁塁を積んでいながら、少しも抗戦しようとしなかった。敵が戦おうと出てこないため、李舜臣提督は先鋒船は2隻だけを攻撃するにはしたが、これも船に乗った人々が陸地へ逃走したため、空の船だけ壊して、また漆川梁を基点にして場門浦などの地の倭軍を撃滅しようと数日間細密に偵察をした。また直接戦船を率いて攻撃したりもしたが、やはり敵船は応戦するそぶりが見られず、10/4には本格的な水陸はさみ撃ち作戦を計画した。これは1593年にあった熊浦海戦で使った戦術とほとんど同じものであった。郭再祐・金徳齢などの陸軍は、倭軍が恐れをなして東西に逃げながら刀を振り回すのを見て、攻撃を続けずに船で退却してしまった。

こうして特別な成果を得られないと、李舜臣提督は地上軍の無能を嘆きながら漆川梁へ回軍した。 しかし、6日にはまた先鋒船に場門浦を攻撃させたが、このとき倭軍は「倭は今、明国と和親の相談をしているので互いに戦うことはできない」というクギさしたまま逃走して、いなかった。これに李舜臣提督は兵士たちに倭軍の巣窟に上陸させるということは危険であり、また、郭再祐・金徳齢が率いた地上軍も事実上大兵力ではないという点を考慮して、7日には一旦水陸軍を解体して8日に閑山島に戻ってしまった。

慶長の役」の海戦:〜

・海戦:〜(15)
漆川梁の海戦(1597/7/14-16)
 巨済島の海戦
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 三道水軍統制使・元均 藤堂高虎、脇坂安治
加藤嘉明、菅達長
兵 力 約160隻余りに達した
朝鮮艦隊の戦船
島津義弘、小西行長の
陸上部隊が支援
船舶被害 ほとんど撃沈 不明
死傷者 三道水軍統制使・元均(戦死)
全羅右水使・李億祺(戦死)
忠清水使・崔湖(戦死)
慶尚右水使・裴楔(12隻で逃走)
不明
勝敗 壊滅的敗戦 大勝利 日本軍が西進する端緒となる
1597/7/16に三道水軍統制使になった元均は漆川梁戦闘で大敗して戦闘後に死んだ。約160隻余りに達した朝鮮船隊の戦船は漆川梁戦闘でほとんど撃沈された。戦闘中に「楔将軍は12隻の戦船を率いて戦場を抜け出した。漆川梁戦闘での敗北以後、朝鮮朝廷は李舜臣提督を、再び「三道水軍統制使」に任命した。これに、李舜臣提督は提督の麾下にあった将帥と水軍を集めて南下した。8/19に提督は「楔(ペソル)将軍が率いてきた戦船を會?浦で引受け、軍用米、矢、弓などを集めた。宣祖が李舜臣提督に水軍で戦わずに陸軍で戦うように命じたが、提督は彼の有名な言葉である「私にはまだ12隻の戦船が残っています」を入れて宣祖に送った。李舜臣提督は引き続き水軍の基地を西に動かしていった。

「楔将軍は手勢12隻を引き連れ、本拠の閑山島の食料武器を焼き払い、
住民に避難を勧めて逃走。

・海戦:〜(16)
鳴梁海戦 (1597/9/16) 第8次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 三道水軍統制使
李舜臣
藤堂高虎
兵 力 13隻 113隻の戦船,
32隻の小舟
約1500人の水軍
船舶被害 不明 30余隻破壊 藤堂高虎が負傷
死傷者 34人 不明 来島通総が討死
9/16に探望船が数多くの倭戦船が水軍本陣へ向かっていると報告をした。これに、李舜臣提督は船隊を率いて現:海南郡にある水軍本陣近海で倭船隊を待った。133隻の倭戦船が珍島と花源半島の間にある鳴梁海峽に入ってきた。鳴梁海峽の最も低い水位は約1.9mで潮流の速度は最大11.5ノットである。倭軍は戦船を分離して、鳴梁海峽に入ってくることができない安宅船は前で待機した。133隻の比較的安宅船より小さい戦船だけ鳴梁海峽を通過して、朝鮮船隊に攻撃をしてきた。すると、李舜臣提督は船を一列に編成する「一字陣」を展開するように命令。開戦以後、他の将帥らが攻撃をためらっていると、李舜臣提督の船が先頭に立って攻撃をした。李舜臣提督は他の戦船にも攻撃を命じて倭船隊に突進した。すぐに潮流が変わるや、残っていた朝鮮船隊の戦船も李舜臣提督に続いて攻撃。あっという間に31隻の倭軍船が破壊され、倭軍は夕方に退却した。李舜臣提督が最後まであきらめずに対応したおかげで勝利を得ることができた。

なお、鳴梁海戦は朝鮮水軍を破って倭水軍が鳴梁通過を成功させた海戦で、この海戦で鳴梁海峡の制海権は倭軍が握って両岸を攻撃したり黄海側へ進出するも、来島通総戦死、毛利高政と藤堂高虎は負傷。ところが、
局地戦では、漆川梁海戦で勝利した直後に僅か13隻の李舜臣提督に大敗したという事実に、残された戦力(破損された約90隻は修理後に使用可能)で李舜臣提督に対抗することを以前より更に恐れ、この戦闘の敗北が倭軍に与えた心理的打撃は更に大きいものを残し、その後の1年間は大きな海戦は起きなかった。

(別説):8/28(慶長二年)、(朝鮮水軍が)於蘭浦(オランポ)に停泊中のところに、8隻の倭水軍が侵入してきたが、これは戦わずに退散した。また碧波津(ペクパジン)に停泊中のところに、西進する55隻の倭水軍の前衛13隻が攻撃を仕掛けてきたが、すぐにこれを撃退した。夜になって再び倭船が来襲したが、砲撃を仕掛けてこれも撃退した。

1597(慶長2)/8/18:〜豊臣秀吉が伏見城で亡くなる。

(別説):9/15、李舜臣は碧波津に12隻の全軍を集め、倭水軍は於蘭浦に330隻が集結した。9/16、「鳴洋渡の海戦」がこの両軍の間で戦われることになった。鳴洋渡は音を立てて流れる潮流の激しさと暗礁の点在する航海の難所として恐れられる海峡であった。早朝、倭軍の大船団は海面も見えないほどに埋め尽くし、潮流に乗って襲来した。李舜臣は停泊地を発して中流に碇を入れて、大砲で迎え撃つが、僚船は遠巻きにして戦いに加わらない。李舜臣は次々に各船を呼び付けて、軍律違反で死を受けるか戦うか、と迫り、倭船に立ち向かわせた。戦いの最中に海峡の潮流が逆転した。この機会をとらえて潮に乗った李舜臣の艦隊は、大砲を打ちかけて倭の軍船を攻撃し30隻あまりを打ち砕いて撃退して勝利を収めた。

・海戦:〜(17)
順天倭城の合戦(1598/9/19-10/7)にともなう朝鮮水軍の攻撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 明の支援船隊・陳リン、
三道水軍統制使・李舜臣
小西行長
兵 力 明水軍19400人
朝鮮水軍7328人
順天倭城
包囲され撤退不能
3日の夜襲による海戦
船舶被害 唐船23隻が座礁・炎上 不明 朝鮮水軍成果少なく
援軍の明軍船42隻被害
死傷者 不明 不明
1598/9月末から10月初頭にかけて実施された、明・朝鮮連合軍の総力を挙げての一大攻勢は倭軍の反撃の前にすべて失敗に終わった。明・朝鮮連合軍は順天倭城攻略に失敗後、遠巻きに順天倭城を監視する体制に切り替えた。

1598/10/15、五大老連署で朝鮮撤兵船舶輸送指示を発す。

・海戦:〜(18)
露梁海戦 (1598/11/19) 第9次李舜臣提督の出撃
朝鮮軍船隊 倭軍船隊 備考(別説)
司令官 明の支援船隊、
三道水軍統制使・李舜臣
小西行長, 島津義弘, 立花宗茂,
宗義智、寺澤政成, 高橋統増
小西行長の撤退を
阻止するための海戦
兵 力 明水軍の約400余隻の戦船,
朝鮮水軍の80余隻の戦船
500余隻の戦船 300隻
船舶被害 なし 不明 戦況は倭軍に不利であり、
夜が明けるころには大勢は決し、
倭軍側の撤退により戦闘は終結
死傷者 李舜臣提督戦死
10人の朝鮮水軍将校死亡
水軍兵士死傷者は不明
不明 小西行長は
順天より無事撤退
鳴梁海戦以後、倭船隊は李舜臣提督の水軍本陣から遠方の熊川へ退却した。李舜臣提督は水軍、戦船、兵糧、武器を集めて水軍本陣を東に移動し続けた。1598/2/17に提督は小西行長軍から近海を守り、水軍を再建するために古今島に統制営を構えた。古今島に統制営を構えてから提督は次の海戦のための兵糧を得ることができたが、これは古今島に平地が多く農作業をすることができたためである。提督が鳴梁海戦で大勝を収めたことが知らされると、多くの難民がこの島に集まった。提督は彼らと共に水軍を再整備することができた。懲録によれば、李舜臣提督が8千人余りの難民を訓練させたと言われ、これにともなう軍用米の心配をした。

明船隊は李舜臣提督の船隊と7/16に連合した。以後、朝鮮明連合船隊は大小の戦闘を繰り広げた。8/18に豊臣秀吉が死んでから倭軍本営は朝鮮にいた倭軍に11月までに退却するように命じた。小西行長は退却しようとしたが、朝鮮明連合船隊に要所を阻まれて失敗した。すると、小西行長は陳リンに賄賂を贈り、彼の船を他の日本軍陣営に送った。李舜臣提督の将帥らがこれを知って提督に知らせた。提督は麾下将帥らと会議を開いてゆっくりと進撃することに決めた。11/18に提督の船隊は露梁沖で小西行長の要請に応じて出戦した島津の船隊を待った。陳リンの船隊は小西行長との協議を妥結せずに李舜臣提督の船隊と連合した。

当時は風が北西から吹いていて、朝鮮明連合船隊はこれにともなう利点を享受することができた。朝鮮明連合船隊は倭船隊を砲撃した。すぐに倭戦船は火に包まれて退却。退却して倭船隊は入江に囲まれた。倭軍は入江から抜け出そうと猛烈に抗戦した。戦闘の中盤に李舜臣提督は銃傷により観音浦の入江周辺で提督の息子である李會が見守る中で死んだ。提督は死ぬ前に提督の名言の中の一つである「私の死を知らせるな」という言葉を残した。


・李氏朝鮮水軍の編成:〜
朝鮮国水軍の組織は、文禄の役の直前には、倭寇の襲来に備え、見張り台・狼煙台が整備され、次のような水軍本営に直ちに情報が伝わるように整備されていた。
(一例)
・慶尚道左水営=本拠・釜山北東20キロの河口。
  水使(長官)・朴泓(パク・ホン)、開戦にあたり船武器を沈めて逃走。
・慶尚道右水営=本拠・巨済島。
  水使(長官)・元均(ウオン・ギュン)、開戦にあたり戦はせず逃走。
  慶長2/7/15-16の巨済島海戦で、三道水軍統制使として元均:戦死。
・全羅道左水営=本拠・麗水。
  水使(長官)・李億祺(リ・オクギ)。
  慶長2/7/15-16の巨済島(漆川梁)海戦で、水使・李億祺:戦死。
・全羅道右水営=本拠・鳴梁浦。
  水使(長官)・李舜臣(イ・スンシン)
  慶長3/11/18露梁津海戦で三道水軍統制使・李舜臣:戦死。

(日付の解っている例)
1591年、全羅左道水軍節度使(略称:全羅左水使)李舜臣、
  1592/8、三道水軍統制使に任命
  1597/1/21、解任、後「白衣従軍」
  1597/8/3-1598/11/19、三道水軍統制使 李舜臣
1592/2-1597、慶尚道右水使 元均、
  1597/1/21-1597/7/16、三道水軍統制使 元均
1592-1597/7/16、全羅右道水軍節度使(全羅道西半部を管轄する水軍長官)李億祺(Yi Eokgi)
(1595/3/4:国王への実数報告)
全羅左水使 李舜臣 戦員717/船員3072人、戦船26/亀船 5/偵船31隻
全羅右水使 李億祺 戦員425/船員2171人、戦船24/偵船24隻
慶尚左水使 李守一(イスイル) 戦員 31/船員 240人、戦船 3/偵船 3隻
慶尚右水使 斐 楔(ペソル)   戦員 55/船員 398人、戦船10/偵船10隻。

なお、朝鮮は僅かな軍隊しか持たず、野戦軍は全くなく、非常時には民兵の動員に大きく依存。文禄の役の全期間の合計で、朝鮮は84,500人の正規軍を展開し、22,000人の非正規軍がこれを支援。この戦争の間の「明」からの支援は戦争のどの時点においても朝鮮域内に60,000人以上が維持される事はなかったため、戦争の全期間で合計500,000人に及んだ倭軍側の兵力との差を埋めるには不十分だった、との説も有。

参考地図HP:〜
  朝鮮半島朝鮮八道巨済島

参考HP:〜
  韓国のKBSドラマ「不滅の李舜臣」の日本武将       09/6/26

文禄・慶長の役:主な合戦:〜

北朝鮮  発行
1592年 (文禄元年、文禄の役)---の合戦--- 倭軍 朝鮮軍
04/14 釜山鎮(プサンジン) 釜山鎮城を落す
04/15 東莱城(トンネ)
04/25 尚州(サンジュ)
04/28 忠州弾琴台(チュンジュ) 小西行長 申石立
05/03 漢城陥落(ハンソン)
05/07 巨済島(コジェド)・玉浦(オクポ)海戦 藤堂高虎 李舜臣
05/07 釜山(プサン)合浦(ハッポ)海戦 藤堂高虎 李舜臣
05/08 赤珍浦(チョクチンポ)海戦 李舜臣
05/18-28 臨津江(リムチンカン) 加藤清正ら臨津江渡河成功 李陽元
05/29 開城(ケーソン) 開城を落す
05/29 泗川(サチョン)海戦 泗川泊地を攻撃される 李舜臣
06/02 唐浦(ダンポ)海戦 亀井茲矩 李舜臣
06/05 唐項浦(ダンハンポ)海戦 加藤清正 李舜臣
06/05 龍仁(ヨンイン) 脇坂安治、守備中に攻撃を受けるも夜襲で撃退 李洸の朝鮮軍約5万が敗走
06/07 巨済島(コジェド)栗浦海戦 来島通之 李舜臣
06/15 平壌(ピョンヤン) 平壌を落す
07/08 錦山(クムサン)(梨峙) 小早川隆景 権慄
07/09 錦山(クムサン)(熊峙)第1次 小早川隆景 高敬命
07/08 閑山島(ハンサンド)海戦 脇坂安治 李舜臣
07/10 安骨浦(アンゴルポ)海戦 九鬼嘉隆, 加藤嘉明 李舜臣
07/17 平壌(ピョンヤン)第1次(祖承訓の攻撃敗走) 小西行長 明・祖承訓
07/18-19 海汀倉(ヘジョンチャン) 加藤清正、朝鮮二王子(臨海君・順和君)生捕り 韓克誠
8/18 錦山 (クムサン)第2次 小早川隆景、立花宗茂、安国寺恵瓊 趙憲
08/22 延安(イェンアン) . 李仙月 .
09/03 釜山浦(プサンポ)海戦、朝鮮水軍が根拠地を攻撃 大部分の武将 李舜臣
09/16 鏡城(キョンソン)、鏡城を義兵が奪取 義兵(鄭文孚ら)
10/06-10 晋州城(チンジュソン)第1次、晋州城攻略失敗、撤兵 細川忠興、長谷川秀一 金時敏、郭再祐
10/16 咸興(ハムフン) 加藤清正 . 都市
11/15 吉州(キルチュ)長平 加藤清正 韓克誠
・1593年 (文禄2年) . . . .
01/06-09 平壌(ピョンヤン)第2次、小西行長、城脱出 小西行長 李如松が平壌を奪還
01/25-27 碧蹄館(ピョクチェグァン)、明軍を迎撃 小早川隆景、立花宗茂、宇喜多秀家 李如松、査大受、高彦伯
02/12 幸州山城(ヘンジュサンソン 宇喜多秀家、石田三成 敗. 権慄が守り抜く
06/19-29 晋州城(チンジュソン)第2次 宇喜多秀家、黒田長政、加藤清正 崔慶会、金千鎰
・1594年 (文禄3年) . . . .
3/4-5 唐項浦(ダンハンポ)海戦第2次 脇坂安治、九鬼嘉隆 李舜臣
9/29-10/4 場門浦、永登浦 脇坂安治、九鬼嘉隆 、福島正則 李舜臣
(慶長2年、慶長の役)---の合戦--- . . . .
1597年 (慶長2年) . . . .
07/14-16 漆川梁(チルチョンリャン)海戦(巨済島海戦 藤堂高虎 元均(戦死)
08/17 黄石山城(ホワンシーサンソン 加藤清正、黒田長政、黄石山城が落城 明・朝鮮軍
08/13-16 南原城(ナムウォンソン 宇喜多秀家 明の解生、楊元
08/ 全州城(チョンジュソン 無血占領 明軍が逃走
09/06-07 稷山(イクサン) 黒田長政 解生
09/16 鳴梁(ミョンリャン)海戦 藤堂高虎 李舜臣
12/23-1/4 蔚山(ウルサン)第1次 加藤清正、毛利秀元、黒田長政、小早川秀秋 楊鎬、麻貴、権慄
・1598年 (慶長3年) . . . .
09/22 蔚山(ウルサン)第2次 加藤清正が守り抜く 明の麻貴
09/17-10/01 泗川(サチョン) 7千の島津軍が数万の明軍に大勝 董一元
09/19-10/07 順天(スンチョン)倭城 小西行長明・朝鮮軍を撃退 劉テイ、陳リン
11/19 露梁津(ノリャンジン)海戦 島津義弘、立花宗茂、宗義智 陳リン、李舜臣(戦死)
)印は「壬辰倭乱の三大捷」
参考:〜
大船=安宅船(あたかぶね)、中船=関船(せきぶね)、小船=小早船(こはやぶね)とする説有。
安宅船=200人乗組み、関船=100人乗組み、小早船=40人乗組み。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       09/6/26
スタンプ・メイツ
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