★日 本 |
文禄・慶長の役 1592〜1598 海 戦 |
大航海物語★ |
REPUBLIQUE de BENIN 日本の安宅船(?) 昭和50年 1975/925 発行 |
MARSHALL ISLANDS 亀甲船が豊臣秀吉侵略軍を撃破
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日本 Nippon 日本の千石船 日本 昭和51年 1976/3/11 発行 |
明のジャンク船 グレナダ 1998/4/26 発行 |
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文禄・慶長の役(1592/4〜1598/12)は、韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ばれています。豊臣秀吉が日本全国を平定して後、その侵略軍が朝鮮に侵入して、日本軍と朝鮮・明の援軍との連合軍が戦った戦争です。 前期が「文禄の役」(1592(文禄1年)〜1593)と呼ばれて、宇喜多秀家を総大将として16万の軍勢を朝鮮に出兵するも休戦となりました。 その後、明との講和交渉が決裂、小早川秀秋を総大将として14万の軍を再出兵したのが、後期の「慶長の役」(1597(慶長2年)〜1598)と呼ばれています。 |
文禄・慶長の役(1592/4〜1598/12):主な海戦:〜 ・海戦:〜(1) 巨済島東岸入り江・玉浦の海戦 (1592/5/7) 第1次李舜臣提督の出撃
なお、両軍の戦法は、倭軍は「接舷・斬り込み」戦法で「積荷を奪う」方式、朝鮮軍は倭寇対策以来の伝統戦法「砲撃、破壊」が主だったが、乱戦となると「この限りに非ず」だった。 ・海戦:〜(2) 巨済島(前洋)・合浦の海戦 (1592/5/7) 第1次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(3) 赤珍浦海戦 (1592/5/8) 第1次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(4) 泗川浦海戦(1592/5/29) 第2次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(5) 唐浦海戦 (1592/6/2) 第2次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(6) 1次唐項浦海戦 (1592/6/5-7) 第2次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(7) 栗浦海戦 (1592/6/7) 第2次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(8) 閑山島海戦 (1592/7/8) 第3次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(9) 安骨浦海戦 (1592/7/10) 第3次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(10) 長林浦海戦 (1592/8/29) 第4次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(11) 釜山浦海戦 (1592/9/1) 第4次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(12) 熊浦海戦(1593/2/1) 第5次李舜臣提督の出撃
よく熊浦海戦はあまり重要な海戦ではないような評価が下されているが、明・倭講和交渉期に行われた重要な一戦であった。特に宣祖から李舜臣提督が三道水軍統制使に任命される相当期間以前に正式命令で全ての水軍を総動員しろという内容を含んでいることから見て、三道水軍統制使の職制を創設する構想をたてていたことがうかがえる。 そして、「一隻の船も返すな」(片帆不退)という力強い王の指示は、敵の退路遮断と追撃掃討の意志を内包していたが、李舜臣提督は最長期間である1ヵ月3日間の苦しい作戦を展開した。しかし、不幸にも当時の作戦権を握っていた明軍が倭との講和交渉を進展させるために、陸軍はもちろん水軍に戦闘中止指示を下すことで、憤りが爆発するのに耐えがたかったのである。朝鮮戦争の休戦も望まない方向に進展したため、結局、休戦協定調印のとき、戦争当事国でありながらも協定文書の署名者として含まれなかった侮辱を受けたのである。 ともかく、李舜臣の熊浦海戦は豊臣の特別命令によって、敵水軍が熊浦に構築した海上前進基地兼陸上前哨基地を半身不随に大破することで、倭と明との講和交渉で朝鮮に不利な条件を一方的に倭が突きつけることができないように釘をさす役割をしたのである。 文禄2年(1593)3月に和議開始。 ・海戦:〜(13) 2次唐項浦海戦 (1594/3/4-5) 第6次李舜臣提督の出撃
・海戦:〜(14) 場門浦海戦 (1594/9/29-10/4) 第7次李舜臣提督の出撃
このときから李舜臣提督はより一層積極的な臨陣態勢を取り、24日には海戦時、各道指揮官らの標識のため号衣を支給した。これに伴い全羅左道は青い服9着,全羅右道は赤い服10着,慶尚道は黒い服4着などだった。この色のある服で部隊を識別することができる。青い色は左軍,赤い色は前軍,黒い色は後軍を表わす。 ついに26日には有名な郭再祐と金徳齢らが権慄の指示により見乃梁に達し、李舜臣提督も27日閑山島を出帆して赤島近海に達して、これら陸軍将帥らは各戦船に乗船した。言わば今から李舜臣提督が望んでいた水陸はさみ撃ち作戦を実践段階に移そうとする瞬間であった。 引き続き28日には胸島沖に達して一旦休息し、29日一斉に場門浦沖に突入した。このとき、倭軍は険しいところに陣取って出てこなかった。彼らは楼閣を高くたてており、両方の峰には壁塁を積んでいながら、少しも抗戦しようとしなかった。敵が戦おうと出てこないため、李舜臣提督は先鋒船は2隻だけを攻撃するにはしたが、これも船に乗った人々が陸地へ逃走したため、空の船だけ壊して、また漆川梁を基点にして場門浦などの地の倭軍を撃滅しようと数日間細密に偵察をした。また直接戦船を率いて攻撃したりもしたが、やはり敵船は応戦するそぶりが見られず、10/4には本格的な水陸はさみ撃ち作戦を計画した。これは1593年にあった熊浦海戦で使った戦術とほとんど同じものであった。郭再祐・金徳齢などの陸軍は、倭軍が恐れをなして東西に逃げながら刀を振り回すのを見て、攻撃を続けずに船で退却してしまった。 こうして特別な成果を得られないと、李舜臣提督は地上軍の無能を嘆きながら漆川梁へ回軍した。 しかし、6日にはまた先鋒船に場門浦を攻撃させたが、このとき倭軍は「倭は今、明国と和親の相談をしているので互いに戦うことはできない」というクギさしたまま逃走して、いなかった。これに李舜臣提督は兵士たちに倭軍の巣窟に上陸させるということは危険であり、また、郭再祐・金徳齢が率いた地上軍も事実上大兵力ではないという点を考慮して、7日には一旦水陸軍を解体して8日に閑山島に戻ってしまった。 「慶長の役」の海戦:〜 ・海戦:〜(15) 漆川梁の海戦(1597/7/14-16) 巨済島の海戦
「楔将軍は手勢12隻を引き連れ、本拠の閑山島の食料武器を焼き払い、 住民に避難を勧めて逃走。 ・海戦:〜(16) 鳴梁海戦 (1597/9/16) 第8次李舜臣提督の出撃
なお、鳴梁海戦は朝鮮水軍を破って倭水軍が鳴梁通過を成功させた海戦で、この海戦で鳴梁海峡の制海権は倭軍が握って両岸を攻撃したり黄海側へ進出するも、来島通総戦死、毛利高政と藤堂高虎は負傷。ところが、 局地戦では、漆川梁海戦で勝利した直後に僅か13隻の李舜臣提督に大敗したという事実に、残された戦力(破損された約90隻は修理後に使用可能)で李舜臣提督に対抗することを以前より更に恐れ、この戦闘の敗北が倭軍に与えた心理的打撃は更に大きいものを残し、その後の1年間は大きな海戦は起きなかった。 (別説):8/28(慶長二年)、(朝鮮水軍が)於蘭浦(オランポ)に停泊中のところに、8隻の倭水軍が侵入してきたが、これは戦わずに退散した。また碧波津(ペクパジン)に停泊中のところに、西進する55隻の倭水軍の前衛13隻が攻撃を仕掛けてきたが、すぐにこれを撃退した。夜になって再び倭船が来襲したが、砲撃を仕掛けてこれも撃退した。 1597(慶長2)/8/18:〜豊臣秀吉が伏見城で亡くなる。 (別説):9/15、李舜臣は碧波津に12隻の全軍を集め、倭水軍は於蘭浦に330隻が集結した。9/16、「鳴洋渡の海戦」がこの両軍の間で戦われることになった。鳴洋渡は音を立てて流れる潮流の激しさと暗礁の点在する航海の難所として恐れられる海峡であった。早朝、倭軍の大船団は海面も見えないほどに埋め尽くし、潮流に乗って襲来した。李舜臣は停泊地を発して中流に碇を入れて、大砲で迎え撃つが、僚船は遠巻きにして戦いに加わらない。李舜臣は次々に各船を呼び付けて、軍律違反で死を受けるか戦うか、と迫り、倭船に立ち向かわせた。戦いの最中に海峡の潮流が逆転した。この機会をとらえて潮に乗った李舜臣の艦隊は、大砲を打ちかけて倭の軍船を攻撃し30隻あまりを打ち砕いて撃退して勝利を収めた。 ・海戦:〜(17) 順天倭城の合戦(1598/9/19-10/7)にともなう朝鮮水軍の攻撃
1598/10/15、五大老連署で朝鮮撤兵船舶輸送指示を発す。 ・海戦:〜(18) 露梁海戦 (1598/11/19) 第9次李舜臣提督の出撃
明船隊は李舜臣提督の船隊と7/16に連合した。以後、朝鮮明連合船隊は大小の戦闘を繰り広げた。8/18に豊臣秀吉が死んでから倭軍本営は朝鮮にいた倭軍に11月までに退却するように命じた。小西行長は退却しようとしたが、朝鮮明連合船隊に要所を阻まれて失敗した。すると、小西行長は陳リンに賄賂を贈り、彼の船を他の日本軍陣営に送った。李舜臣提督の将帥らがこれを知って提督に知らせた。提督は麾下将帥らと会議を開いてゆっくりと進撃することに決めた。11/18に提督の船隊は露梁沖で小西行長の要請に応じて出戦した島津の船隊を待った。陳リンの船隊は小西行長との協議を妥結せずに李舜臣提督の船隊と連合した。 当時は風が北西から吹いていて、朝鮮明連合船隊はこれにともなう利点を享受することができた。朝鮮明連合船隊は倭船隊を砲撃した。すぐに倭戦船は火に包まれて退却。退却して倭船隊は入江に囲まれた。倭軍は入江から抜け出そうと猛烈に抗戦した。戦闘の中盤に李舜臣提督は銃傷により観音浦の入江周辺で提督の息子である李會が見守る中で死んだ。提督は死ぬ前に提督の名言の中の一つである「私の死を知らせるな」という言葉を残した。 ・李氏朝鮮水軍の編成:〜 朝鮮国水軍の組織は、文禄の役の直前には、倭寇の襲来に備え、見張り台・狼煙台が整備され、次のような水軍本営に直ちに情報が伝わるように整備されていた。 (一例) ・慶尚道左水営=本拠・釜山北東20キロの河口。 水使(長官)・朴泓(パク・ホン)、開戦にあたり船武器を沈めて逃走。 ・慶尚道右水営=本拠・巨済島。 水使(長官)・元均(ウオン・ギュン)、開戦にあたり戦はせず逃走。 慶長2/7/15-16の巨済島海戦で、三道水軍統制使として元均:戦死。 ・全羅道左水営=本拠・麗水。 水使(長官)・李億祺(リ・オクギ)。 慶長2/7/15-16の巨済島(漆川梁)海戦で、水使・李億祺:戦死。 ・全羅道右水営=本拠・鳴梁浦。 水使(長官)・李舜臣(イ・スンシン) 慶長3/11/18露梁津海戦で三道水軍統制使・李舜臣:戦死。 (日付の解っている例) 1591年、全羅左道水軍節度使(略称:全羅左水使)李舜臣、 1592/8、三道水軍統制使に任命 1597/1/21、解任、後「白衣従軍」 1597/8/3-1598/11/19、三道水軍統制使 李舜臣 1592/2-1597、慶尚道右水使 元均、 1597/1/21-1597/7/16、三道水軍統制使 元均 1592-1597/7/16、全羅右道水軍節度使(全羅道西半部を管轄する水軍長官)李億祺(Yi Eokgi) (1595/3/4:国王への実数報告) 全羅左水使 李舜臣 戦員717/船員3072人、戦船26/亀船 5/偵船31隻 全羅右水使 李億祺 戦員425/船員2171人、戦船24/偵船24隻 慶尚左水使 李守一(イスイル) 戦員 31/船員 240人、戦船 3/偵船 3隻 慶尚右水使 斐 楔(ペソル) 戦員 55/船員 398人、戦船10/偵船10隻。 なお、朝鮮は僅かな軍隊しか持たず、野戦軍は全くなく、非常時には民兵の動員に大きく依存。文禄の役の全期間の合計で、朝鮮は84,500人の正規軍を展開し、22,000人の非正規軍がこれを支援。この戦争の間の「明」からの支援は戦争のどの時点においても朝鮮域内に60,000人以上が維持される事はなかったため、戦争の全期間で合計500,000人に及んだ倭軍側の兵力との差を埋めるには不十分だった、との説も有。 参考地図HP:〜 朝鮮半島、朝鮮八道、巨済島 参考HP:〜 韓国のKBSドラマ「不滅の李舜臣」の日本武将 09/6/26 文禄・慶長の役:主な合戦:〜 |
1592年 | (文禄元年、文禄の役)---の合戦--- | 倭軍 | 朝鮮軍 | ||
04/14 | 釜山鎮(プサンジン) | 釜山鎮城を落す | 勝 | ・ | 敗 |
04/15 | 東莱城(トンネ) | ・ | ” | ・ | ” |
04/25 | 尚州(サンジュ) | ・ | ” | ・ | ” |
04/28 | 忠州弾琴台(チュンジュ) | 小西行長 | ” | 申石立 | ” |
05/03 | 漢城陥落(ハンソン) | ・ | ” | ・ | ” |
05/07 | 巨済島(コジェド)・玉浦(オクポ)海戦 | 藤堂高虎 | 敗 | 李舜臣 | 勝 |
05/07 | 釜山(プサン)合浦(ハッポ)海戦 | 藤堂高虎 | ” | 李舜臣 | ” |
05/08 | 赤珍浦(チョクチンポ)海戦 | ・ | ” | 李舜臣 | ” |
05/18-28 | 臨津江(リムチンカン) | 加藤清正ら臨津江渡河成功 | 勝 | 李陽元 | 敗 |
05/29 | 開城(ケーソン) | 開城を落す | 勝 | ・ | 敗 |
05/29 | 泗川(サチョン)海戦 | 泗川泊地を攻撃される | 敗 | 李舜臣 | 勝 |
06/02 | 唐浦(ダンポ)海戦 | 亀井茲矩 | ” | 李舜臣 | ” |
06/05 | 唐項浦(ダンハンポ)海戦 | 加藤清正 | ” | 李舜臣 | ” |
06/05 | 龍仁(ヨンイン) | 脇坂安治、守備中に攻撃を受けるも夜襲で撃退 | 勝 | 李洸の朝鮮軍約5万が敗走 | 敗 |
06/07 | 巨済島(コジェド)栗浦海戦 | 来島通之 | 敗 | 李舜臣 | 勝 |
06/15 | 平壌(ピョンヤン) | 平壌を落す | 勝 | ・ | 敗 |
07/08 | 錦山(クムサン)(梨峙) | 小早川隆景 | ” | 権慄 | ” |
07/09 | 錦山(クムサン)(熊峙)第1次 | 小早川隆景 | 勝 | 高敬命 | 敗 |
07/08(※) | 閑山島(ハンサンド)海戦 | 脇坂安治 | 敗 | 李舜臣 | 勝 |
07/10 | 安骨浦(アンゴルポ)海戦 | 九鬼嘉隆, 加藤嘉明 | 勝 | 李舜臣 | 敗 |
07/17 | 平壌(ピョンヤン)第1次(祖承訓の攻撃敗走) | 小西行長 | 勝 | 明・祖承訓 | 敗 |
07/18-19 | 海汀倉(ヘジョンチャン) | 加藤清正、朝鮮二王子(臨海君・順和君)生捕り | 勝 | 韓克誠 | 敗 |
8/18 | 錦山 (クムサン)第2次 | 小早川隆景、立花宗茂、安国寺恵瓊 | 勝 | 趙憲 | 敗 |
08/22 | 延安(イェンアン) | ・ | ・. | 李仙月 | ・. |
09/03 | 釜山浦(プサンポ)海戦、朝鮮水軍が根拠地を攻撃 | 大部分の武将 | 敗 | 李舜臣 | 勝 |
09/16 | 鏡城(キョンソン)、鏡城を義兵が奪取 | ・ | 敗 | 義兵(鄭文孚ら) | 勝 |
10/06-10(※) | 晋州城(チンジュソン)第1次、晋州城攻略失敗、撤兵 | 細川忠興、長谷川秀一 | 敗 | 金時敏、郭再祐 | 勝 |
10/16 | 咸興(ハムフン) | 加藤清正 | 勝. | 都市 | 敗 |
11/15 | 吉州(キルチュ)長平 | 加藤清正 | 勝 | 韓克誠 | 敗 |
・1593年 | (文禄2年) | . | . | . | . |
01/06-09 | 平壌(ピョンヤン)第2次、小西行長、城脱出 | 小西行長 | 敗 | 李如松が平壌を奪還 | 勝 |
01/25-27 | 碧蹄館(ピョクチェグァン)、明軍を迎撃 | 小早川隆景、立花宗茂、宇喜多秀家 | 勝 | 李如松、査大受、高彦伯 | 敗 |
02/12(※) | 幸州山城(ヘンジュサンソン) | 宇喜多秀家、石田三成 | 敗. | 権慄が守り抜く | 勝 |
06/19-29 | 晋州城(チンジュソン)第2次 | 宇喜多秀家、黒田長政、加藤清正 | 勝 | 崔慶会、金千鎰 | 敗 |
・1594年 | (文禄3年) | . | . | . | . |
3/4-5 | 唐項浦(ダンハンポ)海戦第2次 | 脇坂安治、九鬼嘉隆 | 勝 | 李舜臣 | 敗 |
9/29-10/4 | 場門浦、永登浦 | 脇坂安治、九鬼嘉隆 、福島正則 | 勝 | 李舜臣 | 敗 |
・ | (慶長2年、慶長の役)---の合戦--- | . | . | . | . |
1597年 | (慶長2年) | . | . | . | . |
07/14-16 | 漆川梁(チルチョンリャン)海戦(巨済島海戦) | 藤堂高虎 | 勝 | 元均(戦死) | 敗 |
08/17 | 黄石山城(ホワンシーサンソン) | 加藤清正、黒田長政、黄石山城が落城 | 勝 | 明・朝鮮軍 | 敗 |
08/13-16 | 南原城(ナムウォンソン) | 宇喜多秀家 | 勝 | 明の解生、楊元 | 敗 |
08/ | 全州城(チョンジュソン) | 無血占領 | ” | 明軍が逃走 | ” |
09/06-07 | 稷山(イクサン) | 黒田長政 | 勝 | 解生 | 敗 |
09/16 | 鳴梁(ミョンリャン)海戦 | 藤堂高虎 | 敗 | 李舜臣 | 勝 |
12/23-1/4 | 蔚山(ウルサン)第1次 | 加藤清正、毛利秀元、黒田長政、小早川秀秋 | 勝 | 楊鎬、麻貴、権慄 | 敗 |
・1598年 | (慶長3年) | . | . | . | . |
09/22 | 蔚山(ウルサン)第2次 | 加藤清正が守り抜く | 勝 | 明の麻貴 | 敗 |
09/17-10/01 | 泗川(サチョン) | 7千の島津軍が数万の明軍に大勝 | 勝 | 董一元 | 敗 |
09/19-10/07 | 順天(スンチョン)倭城 | 小西行長、明・朝鮮軍を撃退 | 勝 | 劉テイ、陳リン | 敗 |
11/19 | 露梁津(ノリャンジン)海戦 | 島津義弘、立花宗茂、宗義智 | 敗 | 陳リン、李舜臣(戦死) | 勝 |
参考:〜 大船=安宅船(あたかぶね)、中船=関船(せきぶね)、小船=小早船(こはやぶね)とする説有。 安宅船=200人乗組み、関船=100人乗組み、小早船=40人乗組み。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/6/26 |