大航海物語 冒険航海(Adventure Voyage)
ヴァイキングの航海
8世紀〜11世紀
Voyage of Viking Expedition

参考資料
新大陸 ヴァイキングの航海

フェロー諸島 2002/2/11 発行
北ヨ|ロ
ッパ

ヴァイキング
 Viking (最盛期:8世紀〜11世紀)

ヴァイキングという名の由来は謎ですが、北欧語(古ノルド語)で「湾」「入り江」を意味する「ヴィーク」という古い言葉があるといわれており、9世紀にスカンジナビアで「海の遠征」を意味して”ヴァイキング”が使われ出したとされています。未だに謎の多いヴァイキングですが、その宗教は最高神オーディンを崇める多神教。その社会は王・族長・後に専門職に分かれる自由人の農民がおり、その底辺には生まれつきの農奴とか戦争捕虜や裁判で権利を剥奪された元自由人の「スレール」という奴隷がいました。奴隷は他の階級と違い、髪を短くして色のついていない羊毛の服を着用。男の自由人と女の奴隷の間に生まれた子供は母親の身分規定に従い、農場の労働力に加えられ、農場には20人ほどの奴隷がいて、女の奴隷は主人の子供の世話役になると、一目置かれる地位を獲得。「ボーンディ」と呼ばれた自由人は開墾地を持ち、自由人はスカンジナビア社会の経済的・政治的基盤を形成、武器を所持し、訴訟を起こす権利も有していました。後に専門の職人階級が出てきました。鉄器を使用し、鉄を加工して護身用や遠征先での戦闘に必要な武器を作る鍛冶職人は重要な地位を占めていました。兵士、商人、大工などの職人が自由人の新しい階級を形成しました。 「自由人の女性は自由人の男性と同じ権利を持たずも、スカンジナビア社会は女性を重んじ、妻は家庭の全責任を引き受け、夫が不在の時は領地の管理さえも任されました。王と族長は民会の集会で選出され、選挙民に対する行為に責任を負い、その権限は住民の意思によって制限されました。王の基本的な役割は住民の安全、繁栄、名誉を保証することでした。また、王は宗教上の儀式をつかさどる祭司でもありました。

793/6月イングランドのリンディスファーンの修道院がヴァイキングに襲撃されたことがヴァイキング時代の幕開けといわれ、ヴァイキングが歴史の舞台に登場すると、世界は恐怖に震え上がりました。ヴァイキングは8世紀後半から11世紀にかけて活動し、わずか3世紀ほどの間にハンブルク、ケルン、ロンドン、パリを破壊し、ロシア、フランス、イギリス、シチリア島に王朝を築き、アイスランド、アメリカ、グリーンランドを発見して入植し、東ローマ帝国と十字軍の歴史にも関与しました。ヴァイキングは、8世紀から300年以上も西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアの武装船団(海賊)を指す言葉でしたが、後の研究で、その時代にスカンディナヴィア半島に住んでいた人々全体、を指す言葉に変り、中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残しました。ノルウェーの考古学者トール・ヘイエルダールは「ヴァイキングは海賊・交易・植民を繰り返す略奪経済を生業としていたのではなく、母国では農民であり漁民でした」と述べていますが、特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルで、中世のヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東を中心とした異民族・異人種との交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的技術や軍事的技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになって、富を求め近隣諸国を侵略していった、とする説もあります。オーセベリ船ゴクスタ船など完全な形で発掘されたロングシップ(Longship)と呼ばれる喫水が浅く、細長い舟を使用していたヴァイキングは、多数のオールで漕き、外洋では帆走し、水深の浅い河川にも侵入しました。また陸上では舟を引っ張ったり、担いで移動することもでき、ヴァイキングが何処を襲撃するのか予想するのは困難で、アングロ・サクソン人諸王国や大陸のフランク王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けました。また、ヴァイキングは船を副葬する慣習もありました。

フランスに侵入したヴァイキングは、845年に何百隻という集団でエルベ河を遡り、その近郊を襲撃しながら、885年にはパリに迫り、ノルマン人の一部族長ロロ(Rollo, 860頃-933)は初代ノルマンディー公(在位:911-933)になりました。一族を率いてフランス北岸に侵入したロロは、885年にセーヌ川を遡上してパリを攻略。ときの西フランク(West Frankish Kingdom)王シャルル3世(Charles III 、879-(在位893-923)-929)は、例年にわたる侵入に頭を悩ませ、911年にサン・クレール・シュール・エプト条約を結び、ロロにノルマンディー地方を与えてノルマンディー公爵にしました。その末裔がギヨーム2世庶子公ギヨーム(Guillaume II)で、イングランドを征服して国王ウィリアム1世(William the Conqueror)になりました。西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島やフリースラントへの略奪を始め、季節の終わりには故郷へと戻りました。9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになり、それらの越冬地は永続的な定住地となりました。デンマークのヴァイキングはデーン人(Dane)と呼ばれ、ヴァイキングの代名詞となりました。そのヴァイキングはセーヌ川(Seine)河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃。851年にはイングランド本土へ侵攻、東部イングランドを蹂躙。866年にノーサンブリア(Northumbria、現:イングランドのノーサンバーランド、Northumberland)からイングランド東部のイースト・アングリア(East Anglia)一帯にデーンロウが成立(870)。これ以後、150年に渡ってイングランドはアングロサクソン諸王国(アングロ・サクソン七王国、500頃ー800頃)とヴァイキングの闘争に終始しました。

ノルウェーのヴァイキングはノース人(Norse)と呼ばれ、8世紀にオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島やヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出して、988年にはダブリンが建設されました。815年にフローキがアイスランドの入植に成功した後、874年にノース人の数倍のアイルランドのケルト人と共にアイスランドに定住を開始。ケルト人を奴隷として連れて行ったのか、それとも対等な同志だったのかは不明。985年に赤毛のエイリークグリーンランドを発見。その息子レイフ・エリクソンは1000年に北アメリカに大航海し、ヴィンランド(ニューファウンドランド)と命名。 アイスランド・パペイ岩礁島
グリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗するも、交易活動を行って人や文化の交流をしました。ノルウェー人の築いた植民地はアイスランド植民の成功の他は、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされています。

スウェーデンのヴァイキングはスヴェア人(Svean)と呼ばれ、北方ドイツやフィンランド、東スラブ領土へ進出。8世紀後半から9世紀の半ばにかけて、現在のロシア北部にあったとされる都市国家群のルーシ汗国(ルーシ・カガン国、Rus' Khaganate、8世紀後半-10世紀頃)の一部をノルマン人が建国。リガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にバルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配し、839年
頃東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに到達しました。882年にはドニエプル川を南下し、キエフ大公国(Kievan Rus'、882頃-1240頃)を建国。彼らはヴァリャーグ(Varyags)と呼ばれ、北欧神話に登場するアース神族の女神サーガ(Saga)の時代に、エストニアとクールラント(現:ラトヴィア)を支配

そうしたヴァイキングの航海はスカンジナビアの過酷な自然環境で、船乗りや船大工を作り出したのがその発祥ともいわれています。造船技術上の発明、特に竜骨(キール)の発明が大型化と平底化を実現させたとされています。航海中のマストの使用を可能にしたのは、吃水線下の構造が強靭で、海の強い圧力にもたわんで耐えるほどのもので、航行距離と速度の増大をもたらしました。耐久性と安定性で推進力が増して、外洋にも進出できました。その構造は良好でも、屋根なしで快適さはありませんでした。
グリ|ンランド

ベアリングダイアル
アイス↓ランド古地図 ノ|ルウェイ






イギリス
フェロー諸島 2002/2/11 発行

ヴァイキングの航海術は巣作りのために行き交う海鳥の飛行パターンを観測することで陸地の場所に見当をつけたり、大西洋に出るときには北極星を目印にしました。天体観測航行は「白夜」の日は難しく、太陽を見ながら航行。ヴァイキングは1年を通して夜明け前と日没直後に行った無数の観察により、太陽がどのように横切るか知りました。サーガ(北欧中世の散文物語)には「太陽石」(サン・ストーン)が登場し、この石の光の当り方で太陽の位置を判断していたと述べられています。豊富な知識や経験のある船長がいない時は、「航海パイロット」(ケントマント:知者の意)が船に乗り込んでベアリングダイアルなどを使用して測定しました。また遠征の時に、すでにその航路を経験している船乗りがおれば、「道を教える人」として乗船させて絶大な信頼を置きました。 ベアリングダイアル使用

ヴァイキング船ロングシップ:”オーセベリ号”
  Viking ship:Oseberg Longship
、815〜820年頃
船 型 オーク材使用の「鎧張り」カルヴィ型(Karv)
沿岸航海用ロングシップ
ヴァイキング船、ロングシップ

     ジャージー 2000/5/22 発行
帆 柱 1本マスト、9〜10m高、90uの横帆
全 長 21.5m
全 幅  5.0m
重 量 11屯
喫 水 0.5m(浅い喫水)
漕ぎ手 30人(オール穴15対)、乗船者100人以上
速 さ 10ノット(knot、15.82km/h)
装 備 幅広舵取オール、鉄の錨、渡り板、水あか汲み
船首尾 オーセベリ様式の複雑な木彫り
「握り獣」(gripping beast)装飾
進 水 815-820年頃、オーセベリ農場の埋葬塚
発 掘 オーセベリ船はロングシップの完全な姿を今日に伝える物で、1904〜1905年にノルウェー人考古学者ホーコン・シェテリーク(Haakon Shetelig 1877-1955)とスウェーデン人考古学者ガブリエル・グスタフソン(Gabriel Adolf Gustafson 1853-1915)がノルウェーのオスロの南ヴェストフォル県トンスベルグ近郊にある埋葬塚で発掘。特徴は埋め込み式のマストとマスト・パートナー(マスト周囲の甲板を強化する枠組み)。沿岸水域でのみ使用(葬送用に特注?)と考えられている。オスロ・ビュグドゥイのヴァイキング船博物館に保存、展示。

参考HP:〜
 ・ヴァイキングの航海地図
 ヴァイキングの航海:緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は航路、数字は到達年
 フェロー諸島の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       20012/4/6、2017/2/23
スタンプ・メイツ
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