★アイスランド 冒険航海(Adventure Voyage)
赤毛のエイリーク
982頃、グリーンランド島発見
985頃、グリーンランド島探検

大航海物語★

ァイキング船
Umm al Quiwain
赤毛のエイリーク

Viking Drakkar ship
ウム・アル・カイマン 1972 発行
赤毛のエイリ


Guinea Bissau
赤毛のエイリーク一行の
グリーンランドへの大航海


ギニア・ビサウ 1981 発行
Foroyar
ヴィンランド・グリーンランド・アイスランド


カナダ



イギリス
ヴァイキング船・ロングボート
(ヴィンランド=ニューファウンドランド)

フェロー 1992 発行

ISLAND
グリーンランド、アイスランド   ノールウェイ


北→
米→

ニューファンドランド島
(ヴィンランド)
←イギリス
アイスランド 1962/11/20 発行 .

北欧の古地図 1570

アイスランド 1984 発行

ノールウェイ生れのエイリーク・ソルヴァルズソンはレイフ・エリクソンの父でヒゲと髪の毛が赤かったので、赤毛のエイリークと呼ばれていました。

「アイスランドのサーガ」が伝えるところによると、982年頃にグリーンランドを発見してヴァイキングによる入植の先駆けとなったとされています。
エイリーク・ソルヴァルズソン (950頃〜1003頃)
 Eirikr Torvaldsson
 別名:赤毛のエイリーク (Erik the Red)

ノルウェー、アイスランドの族長で、探検家。
ヨーロッパ人として初めてグリーンランドに入植した人物とされ、「赤毛のエイリーク」は個人の特徴を名前の後ろにつけて区別する慣習によるニックネーム(あだ名)で、赤毛のエイリークのサーガ(Saga of Eric the Red)や、グリーンランド人のサーガ(Greenland saga)、植民の書(Landnamabok)など、アイスランド・サーガ(Icelandic Saga)に残る記録により、その呼び方で知られるようになりました。

・生立ちの記
赤毛のエイリークはレイフ・エリクソン(Leifur Erikson, 970頃-1020頃)の父で、950年頃にノールウェイ南西部フョーランズヴァンネット湖(Froylandsvatnet Lake)南のヴェストラン地域ローガラン県ヤーレン地区ヤーレン(Jaeren, Jaeren district, Rogaland County, Vestlandet Region, Norway)で生まれました(アイスランド生まれの説も有)。

・赤毛のエイリークの大航海
 ・960頃、ノールウェイ〜アイスランド島 (父に連れられて航海)
 ・982頃、アイスランド島〜オックスニー島 (追放されて西へと航海)
       アイスランド島(オックスニー島)〜グリーンランド島 (南突端を廻航して居住地を建設)
 ・985頃、アイスランド島〜グリーンランド島へ、25隻に移住者500人で大航海
       (上記の航海時期(年)は諸説有)

960年(10才)頃に父ソルヴァルド・アースヴァルズソン(Torvaldr Asvaldsson, 980頃没)がヤーレンで殺人事件を起して過失致死罪になり、ノールウェイを追放処分となりました。家族を連れて船で西方へと大航海して、アイスランド島に到達。アイスランド最北端の北西部ホンストランディール(Hornstrandir, Iceland)に上陸して入植しました。979年(29才)頃エイリークはヨルンド・ウールヴズソン(Jorund Worvaldsson)の娘ショーズヒルド(Tjodhildr)と結婚。アイスランド西部のフィヨルドのブレイザフィヨルズル(Breidafjordur)近郷ハウカダル(Hawksdale)に移住し、そこで農場を経営して成功し、財を成しました。長男レイフ・エリクソンソルステイン(Torsteinn Eiriksson)、ソルヴァルド(Torvaldr Eiriksson)の男子3人と、庶子の娘フレイディス(Freydis Eiriksdottir)を授かりました。ソルステインは父と共にグリーンランドで暮らし、レイフはノルウェーへ行き、オーラーヴ・トリュクヴァソン王(Olafr Tryggvason、在位995-1000、オーラーヴ1世)のもとに滞在したと伝えられています。

アイスランド島のハウカダルでは赤毛のエイリークと、先に移住していた豪族との間に争いが生じました。エイリークは自分の奴隷を殺された報復に相手の親族を殺害してハウカダルから追放されました。982年(32才)頃にアイスランド北西部へ航海して、現:西アイスランド地方ヴェスターランド(Vesturland, Western Region, Iceland)のオックスニー島(Oxney island)に移りました。3年間の追放処分の後、985年(35才)頃にハウカダルに帰郷すると、追放時に財産の保管を委託していた隣人ソールゲスト(Thorgest)に返却を拒まれたので盗み出し、後を追って来たソールゲストの息子2人と戦って死なせてしまいました。これに対しソールゲストは民会(民主議会アルシング:Althing)に提訴し、エイリークは再び3年間の追放処分になりました。グリーンランドはこの時期(985〜988)に探索したともいわれています。

・グリーンランド島の発見
アイスランドに伝わる散文作品群のサーガ(Saga)がありますが、その「アイスランドのサーガ」(Icelandic Saga)中のサーガである「赤毛のエイリークのサーガ」には、赤毛のエイリークのグリーンランド入植と、ソルフィン・カルルセフニのヴィンランド探検が中心に扱われています。

その「赤毛のエイリークのサーガ」が伝えるところによると、赤毛のエイリークはグンビョルン・ウールフスソン(Gunnbjorn Ulfsson)が西に流された時に見たという陸地を探しに、同年(982)アイスランド島を出帆。そしてフィヨルドのような景色で、肥沃な緑の谷を見つけ、その海岸を探検するも、氷に阻まれて海岸に近づけず、グリーンランド島の突端を廻航して現カコトック(Qaqortoq:Julianehab)近くに定住し、最初のグリーンランド島居住地の建設者となりました。

・赤毛のエイリークのグリーンランド入植の経緯
985年頃にアイスランド島に帰ってくると緑の土地(グリーンランド:The green land)と名づけた所を見つけたと吹聴し、人々を説得して移住者を募りました。
 ・25隻の船団に男女500人と、家畜や道具を積み込んで、グリーンランドへと出帆。
 ・その内の14隻がグリーンランドに到着、他の11隻は遭難、沈没。
エイリークはグリーンランドのブラッターフリーズ(Brattahlid、現Qassiarsuk)に居住地を建設して定住し、族長になって、ヴァイキングによる入植の先駆けとなりました。その他の一行はさらに北方へ航海して、現在の首都ヌーク(Nuuk)近くのフィヨルド(Fjord)に居住地を建設しました。こうして西海岸に2つの植民地(the first Norse settlement)が作られました。

間もなく、ブラッターフリーズ(別名エイリークスフィヨルド:Eriksfjord)とその近郷フィヨルドは移住者であふれだして人口5,000人にもなって過密状態になりました。ところが、伝染病で1,002人もが亡くなり、エイリークも病に伏しました。

・赤毛のエイリークの最期
グリーンランドでのキリスト教布教は、エイリークの息子レイフがノルウェーで洗礼を受け、オーラヴ1世の命によりグリーンランドに宣教師を伴って戻りキリスト教を布教しました。ところが、エイリークは古い信仰を捨てず、改宗した妻との間に溝が生じたと伝えられています。

エイリークの最期は、レイフが997年頃にヴィンランド(Vinland)へと出帆した冬に亡くなったとする説があります。そうするとレイフはグリーンランドに帰ってくるまで、父の死を知らなかったわけです。

別説では、レイフが1000年頃に帰還したので、そのヴィンランドへ行くということになって、ソルステインが船団を指揮することになりました。ところがエイリークは落馬して、同行を断念したことになっています。そうすると赤毛のエイリークはレイフが帰還してから亡くなったことになるわけです。すなわち1003年頃に亡くなったことになり、長男レイフが後を継いで族長となって、グリーンランドがノース人で繁栄しました。

・その後のグリーンランド
14世紀になると海賊の襲撃が起こりだし、またイヌイット族(Inuit)が移住してきて、徐々にヴァイキング族は圧迫を受け、ついに小氷期(Little Ice Age、14世紀半ば〜19世紀半ば)の到来で、それまで青々としていたグリーンランドが氷で覆われ、農業ができなくなって食糧が底を尽くなどして、グリーンランドのバイキング植民地は全滅しました。

参考:〜
フィヨルド
  fjord

フィヨルドとは、氷河による浸食作用で形成された複雑な地形の湾・入り江のことで、日本では峡湾(きょう
わん)とか、峡江(きょうこう)と訳されています。ノルウェー語による通俗語を元とした地理学用語で、湾の入り口から奥まで、湾の幅があまり変わらず、非常に細長い形状の湾のことです。

キリスト教を広めたレイフ・エリクソンの航海
ある日、レイフ・エリクソンはグリーンランドからノルウェーへ向かう途中でヘブリディーズ諸島に流され、魔女ソールグンナと仲むつまじくなり子供が生まれました。ヘブリディーズ諸島を出帆したレイフはノルウェーでオーラーヴ・トリュクヴァソン王に謁見し、王からグリーンランド布教の任務を授かりました。グリーンランドへ帰る途中、偶然にも小麦とブドウの木が自生している陸地を発見。さらに船が難破して漂流している人びとを見つけて助けました。以来、彼は幸福なレイフと呼ばれるようになったといわれています。帰ってきたレイフは、ノルウェー王の命令通りグリーンランドにキリスト教を広めました。父エイリークは受け入れませんでしたが、母ショーズヒルドは間もなく改宗し、エイリークスフィヨルド(Eriksfjord)に教会を作らせました。これ以来、2人の夫婦仲は悪くなったと伝えられています。
アメリカ寄贈の
レイフ・エリクソン像


レイキャビックに有

アメリカ 1968 発行

ソルステインの航海
レイフが来島してまもなく、グリーンランドのブラッターフリーズ(Brattahlid)ではレイフが見つけた陸地ヴィンランド(Vinland)のことが話題に登り、皆でそこに行こうということになりました。リーダーはエイリークの息子ソルステインに決まりました。エイリークは同行を要請され、気乗りはしなかったものの、皆の意見に逆らえず嫌と言えなくなってしまいました。

船に20人と少なめの家畜、武器と食料が詰め込まれました。

出帆当日、エイリークは金と銀のつまった箱を隠してから出ようとすると、落馬して脇腹の肋骨を折り、上腕の付け根を痛めました。負傷したエイリークは「金銀を隠した罰が下ったのだ」、と妻に打ち明け、航海に出ることを断念しました。それからソルステインたちは意気揚々と出帆するも、目的地に辿り着けず、秋の終りにようやくエイリークスフィヨルドに帰りつき、ブラッターフリーズに戻り、冬を越しました。

帰ってきたソルステインは、アイスランド島北部フーサヴィークのラウガーブレッカ農場(Laugarbrekka farm, Husavik)生れのグズリーズ・ソルビャルナルドーティル(Gudrid Thorbjarnardottir)に結婚を申し込みました。本人からも父親からも色よい返事をもらい、秋に2人は結婚するも、冬になって間もなく疫病が蔓延し、ソルステインは亡くなりました(ソルステイン没)。彼はエイリークスフィヨルドの教会に葬られました。夫を失い、遺産を相続したグズリーズはエイリークの家に引き取られました。

ソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソン
  Thorfinn Karlsefni Thortharson
, 生誕970〜没年不詳
「赤毛のエイリークのサガ」が伝える新大陸ヴィンランド(Vinland、現ランス・オ・メドー(L'Anse aux Meadows)、カナダ東部ニューファンドランド・ラブラドール州ニューファンドランド島最北端)、1010頃)への探検は、レイフ・エリクソンが発見した航路で実施されました。

ある夏、優秀な船乗りだった侠気(おとこぎ:Makings of a man)のソルフィンと呼ばれたアイスランドの若者ソルフィン・カルルセフニ(Thorfinn Karlsefni)は、仲間と共に40人で船に乗り込み、秋にブラッターフリーズ
ヴァイキング船・ロングボート

フェロー 1992 発行
へやって来ました。カルルセフニ達は赤毛のエイリークと気前良く取引に応じ、エイリークも寛大に礼を返し、2人は仲良くなりました。そして冬至の宴の準備の便宜を図ったことをきっかけに、エイリークは息子の未亡人グズリーズをカルルセフニと結婚させました。

その冬ブラッタフリーズではヴィンランド探検の話題が持ち上がり、春にカルルセフニが行くことになりました。その航海にはエイリークが他の女性との間にもうけた娘フレイディース(Freydis Eiriksdottir)とその夫ソルヴァルズ、さらにはエイリークのもう一人の息子ソルヴァルドも加わりました。一行の総勢は160人になりました。カルルセフニの一団はまずグリーンランド西部入植地へ向かい、ビャルンエイ(熊の島、ビャルン島)を目指しました。2日間そこから南に進むと、大きな平たい岩のある陸地を見つけ、そこをヘッルランド(Helluland、平岩の国、バフィン島(Baffin Island)説有)と名付けました。そこから2日間航海し、進路を南東に変えると、森に覆われた土地を見つけ、マルクランド(Markland、森の国)と名づけました。さらに、マルクランドの南東の対岸に島を見つけ、その島で熊を仕留めたので、ビャルンエイ(熊の島)と名付けました。

そこから陸地に沿って長いこと南に進路をとると、岬を見つけました。その岬で難破船の竜骨を見つけたので、キャラルネス(Kjalarness:竜骨岬)と名付けました。また、右舷には驚くほど長い砂浜の海岸線が伸びており、その海岸線にはフルズストランディル(驚異の海岸)と名付けました。そこから陸地に湾が入り込んでいたので、そのうちの一つに船を進めました。そこでブドウの房と野生の小麦を見つけました。その後、とある入り江に船を進め、その入り江と入口にある島をそれぞれストラウムフィヨルド(急流の入り江)とストラウムエイ(急流の島)と名付け、入り江に上陸しました。そこで冬を越すも、食糧が不足する事態に陥いりました。海岸に鯨が打ち上げられたので解体して食べると、皆が食あたりを起こしてしまいました。次に北上するか、それとも南下するかで乗組員の一人、「狩人」のソールハッルルとカルルセフニの意見が対立しました。ソールハッルルは偽キリスト教徒で、もともと他の船員とそりが合いませんでした。彼は結局、少数の仲間と共に船に乗り込み独断で北に進路を取るも、そのまま西からの向かい風に遭いアイルランドまで流されてしまいました。彼らはそこで奴隷にされて生涯を終えたと伝えられています。

一方、カルルセフニ達は別の船でさらに陸地に沿って南下。長いこと船を走らせると、川を見つけたので、そこの河口に投錨しました。その土地は非常に肥沃で、その地の低地帯には野生の小麦畑が、森が見える所にはブドウの木が広がり、川は魚で溢れていました。森にはありとあらゆる動物が数えきれないほどいました。彼らはそこに半月ほど留まり、家畜を育てて暮らしました。

ある朝早く、皮船に乗った先住民(スクレリング:Skraling、ニューファンドランド島先住民ベオスック族:Beothuk)に遭遇。その時はなにもせずに逃げてしまうも、次に来た時には彼らはカルルセフニに交易を持ちかけました。スクレリング達は特に赤い布を欲しがり、持ってきた革製品と毛皮と交換しました。また、先住民はノース人の武器を交換したがるも、カルルセフニはそれを禁じました。その時に突然、カルルセフニの飼っていた牛が突っ込んできて唸り声をあげ、それを聞いたスクレリングは驚いて逃げてしまいました。三週間後、彼らは武器を持って大勢でやってきて、攻撃を仕掛けてきました。激しい戦闘が始まるも、スクレリングは棒の先につけた大きな黒っぽい球体を投げつけてきました。未知の武器に遭遇したノース人は恐れをなし、みな一目散に岩場に逃げ去りました。しかし身重だったフレイディースは踏みとどまり、仲間の死体から抜き身の剣をひったくり、胸をあらわにして剣で胸を叩いて威嚇しました。それを見たスクレリングは恐れをなして逃げだしました。その戦闘でノース人には2人、スクレリングには多くの死者が出ました。

ヴィンランドは肥沃な土地なるも、先住民の攻撃に晒されるわけにもいかないので、カルルセフニは故郷に帰ることにしました。ヴィンランドでさらに5人のスクレリングを殺したのち、ストラウムフィヨルドに戻ってきました。一説によれば、ビャルニとグズリーズという名の船員と100人の仲間は共にストラウムフィヨルドにと留まったといわれています。カルルセフニ達は北上し、キャラルネスを過ぎて西方へ船を進めました。左舷に陸地が見えるも、ずっと荒涼とした原野が続きました。更に進むと川を見つけ、その河口に船を入れて南岸に投錨しました。ある朝突然、見知らぬ男がカルルセフニ達のいる川辺に走りこんできました。その男は脚が一本しかなく、恐るべき速さで矢を射掛けてきました。エイリークの息子ソルヴァルドがその矢を腹に受け、ほどなく死亡(ソルヴァルド没)。一本脚の男はすぐに逃げ出し、カルルセフニ達は追いかけるも、結局逃げられてしまいました。それから北に船を返し、三度目の冬はストラウムフィヨルドに留まりました。最初の冬にカルルセフニの息子スノッリ(Snorri Thorfinnsson, 1004or1013生-1090頃没)が生まれました。帰途につく時には3才になっていました。グリーンランドへ帰る途中、マルクランドで先住民の子供二人を捕まえ、言葉を教えて洗礼を受けさせました。2人の話では、スクレリングには2人の王がいて、人々は岩穴や洞窟に寝泊まりしていると言いました。さらに彼らの住んでいる土地の真向かいに、白い服をまとい、布切れの着いた棒を携え、大声を張り上げる人々が住む土地があるとも言いました。

そして一行はグリーンランドに到着し、その冬はエイリークのもとで世話になりました。その後、二度目の夏を迎えた時に、カルルセフニは妻子をともなってアイスランドの故郷へ帰りました。カルルセフニの息子スノッリの一族は司教を三人輩出したと伝えられています。

参考HP:〜
ノールウェイ南西部の地図(GoogleMap、Jaeren有)
エイリークの航海地図(1)
エイリークの航海地図(2)
エイリークの航海地図(3)
エイリークの航海地図(4、黒い線)
ニューファンドランド島地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     14/10/14、2017/2/23
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