★フランス
ラザール・ピコ船長
1742、マヘ島を発見
1744、ルージュ島に上陸

大航海物語★
SEYCHELLES
ルージュ島(プララン島)に上陸する
ピコ船長、1742


セイシェル 1969-72 発行 (200%)
18世紀フランスの探検船

セイシェル 1968/12/30 発行 (200%)

セーシェルで国旗掲揚式を挙行、フランス領を宣言

1789 フランス革命200年記念 1989
セイシェル 1989/11/17 発行

セーシェル諸島のマヘ島を命名

セイシェル 1982/4/22 発行
セイシェル諸島の場所地図

アデン

セーシェル→

マダガスカル


モーリシャス
セイシェル 1962−69 発行
ルージュ島(プララン島)
プラスリン島



キュ|リ|ズ島
セイシェル 1982/4/22 発行

フランスの探検家ラザール・ピコ船長は1742年と1744年にセーシェル諸島を詳細に探検航海して、諸島全体(ラ・ブルドネス諸島)と各島々(セント・アン島、マヘ島、ルージュ島、パルメ島、フリゲート島)に命名しました。その後に来航した探検家が幾つかの島の名を改名しました。
ラザール・ピコ (18世紀中頃)
 Lazare Picault

ラザール・ピコ船長はセーシェル諸島の探検で知られているフランスの探検家で、すでにアラブ、ポルトガル、イギリスの船乗り達が来航していたセーシェル諸島(Seychelles)を18世紀中頃に大規模に探検した最初の人物でした。

1742年にインド洋(Indian Ocean)の探検中に、ピコ船長がセーシェル諸島中最大の島(現:マヘ島)を発見して、イル・デ・アバンダンス島(L’Ile d’Abondance=豊かな島:Isle of Abundance)と名付けました。その東の小さな島の上陸日がカトリック教会で聖人として崇敬されているイエスの母マリアの母親・聖アンナ(Saint Anne)に因む「セント・アンナの日」(Saint Anne's Day:7/26)だったので、セント・アン島(St. Anne Island)と呼びました。このことで発見日が1742/7/26ということになりますね。そして諸島全体を探検の主催者のレユニオン・モーリシャス総督バートランド・マヘ・デ・ラ・ブルドネス伯爵(Bertrand-Francois Mahe de La Bourdonnais comte de La Bourdonnais 1699-1753)に因んでラ・ブルドネス諸島(Iles de la Bourdonnais)と呼びましたが、1756年に諸島名がフランスの財務大臣ジャン・モロー・デ・セッシェル(French Minister of Finances, Jean Moreau de Sechelles, 1690-1761)に因んでセーシェル諸島(Sechelles Islands)と改名されました。

1744年にピコ船長が再度セーシェル諸島に来航して、
・諸島中最大の島を探検の主催者のレユニオン・モーリシャス総督バートランド・マヘ・デ・ラ・ブルドネス伯爵に因んでマヘ島(Mahe)と改名しました。そしてセーシェル諸島をさらに探検、回航、調査して、

・3番目に大きい島でプララン島の東に有るラ・ディグ島を赤がかった巨石(reddish granite boulders)の島であることからルージュ島(Ile Rouge)と命名しましたが、1768年にマリオン・デュフレーヌ船長(Marc-Joseph Marion-Dufresne,1724-1772)が乗船ラ・ディーグ号(La Digue)に因んでラ・ディグ島(La Digue)に改名しました。

・2番目に大きい島でマヘ島の東44kmに有るプララン島をパルメ島(Isle de Palmes)と呼びましたが、1768年にフランスの外交官セザール・ガブリエル・ド・ショワズール・プラズラン(Cesar Gabriel de Choiseul-Praslin, duc de Praslin 1712-1785)に因んでプララン島(Praslin)に改名されました。ピコ船長が来島した当時、この島は海賊の隠れ家やアラブ商人の寄港地として利用されていました。

・マヘ島の東55kmに有るフリゲート島(Fregate Island)を、島に大群で生息しているフリゲート鳥(frigate birds)に因んでフリゲート島と命名。
海賊島セイシェル、17世紀

セイシェル 1969-72 発行

現在ではマヘ島のベイ(bay)、ビーチ(beach)、ヴィレッジ(village)、ディストリクト(district)や、はては観光ホテル(tourist hotel)にまで、バイエ・ラザール(Baie Lazare)が名付けられています。

参考:〜
・セーシェル諸島の略史
1502、ヴァスコ・ダ・ガマがアミラント諸島を望見
1609/1/19、最初の上陸。英東印度会社のアセンション号
    が嵐で来島、飲料水、魚、鳥、ココナッツ、カメ、大亀
    などの食料を補給、帰国後、英政府当局に発見を報
    告するも、当局は何もせず
1735、モーりシャス島に総督デ・ラ・ブルドネス伯爵が来島
1742/11/21、イギリスのエリザベス号とチャールス号が
    マヘ島沖のアンス・ボイルー島に投錨
1744、ピコ船長がラ・ブルドネス島(La Bourdonnais)と呼ぶ
1756、セーシェル諸島と改名される
セーシェルの海戦、1801

セイシェル 1969-72 発行
1768、デュフレーヌ船長がルージュ島をラ・ディグ島と改名して投錨、
    キューリーズ島(La Curieuse)を発見して投錨
    パルメ島を望見してプララン島と改名
1770/8/12、セーシェル諸島に最初の移住者が上陸
    白人植民者15人、奴隷7人、インド人5人、黒人女1人がセントアン島に入植
1771、ポヴァール総督がジロット(Antoine Gillot)をスパイス園造りに派遣、マヘ島アンス・
    ロイアル(Anse Royale)でナツメグ、クローヴ、シナモン、胡椒の栽培を始める
1794、仏のクゥインシー(Jean-Baptiste Queau de Quincy 1748-1827)が島を征服
    イギリスの戦艦が来島
1801/9/15、イギリス艦ヴィクトール号(Victor、シビル号(Sybille)説有)がフランス艦
    ラ・フレチェ号(La Fleche, チフォン号(Chiffone)説有)を艦砲で一斉射撃すると、
    火災々上して沈没(セーシェルの海戦
1810/10、レユニオン島が降伏
1811、英のビーヴァー艦長(Captain Beaver)がニサス号(Nisus)でセーシェルに到着、
    仏のクゥインシー(Quincy)が降伏
1815、イギリス領となる
1841、首都がヴィクトリア(Victoria)と名付けられる
1862/10/12、マヘ島ヴィクトリアを大洪水が襲う。

モン・フルーリ
  Mont Fleuri、Mahe、Seychelles
モン・フルーリはセーシェル諸島のマヘ島にある主要な地域で、そこにはセントアン・マヘ国立公園(Ste. Anne Marine National Park)の6島が含まれています。そのずっと東方海上に2つの小島、ベーコン島 (Beacon Island)、セヘ島(Ile Seche):別名ハリソン岩礁(Harrison Rock).が有ります。

世界遺産”ヴァレ・ドゥ・メ”
プララン島の中央部にある世界遺産、ヴァレ・ドゥ・メ自然保護区には、プララン島のみならずセーシェルのシンボルとなっているココ・ド・メールというヤシの木(フタゴヤシ)が生育しています。この木はプララン島及び北のキュリーズ島にしか生育していません。チャールズ・ゴードン(Charles George Gordon、1833-1885)がプララン島に来島した時、ヴァレ・ドゥ・メをエデンの園だと言ったといわれています。
参考HP:〜
・1966年チャールトン・ヘストン主演の映画「カートゥーム」には、チャールズ・ゴードン将軍の最期が描かれています。(YouTube:http://www.youtube.com/watch?v=2HcQ_IveQCI)

なお、セーシェルは25の地方行政区分に分かれており、マヘ島が22(島嶼1を含む)に分かれるほか、プララン島と島嶼が2つに分かれ、4番目に大きなラ・ディグ島全体が1つの地方行政区分になっています。
・マヘ島〜22の地方行政区分
・プララン島〜2の地方行政区分
・ラ・ディグ島〜1の地方行政区分

参考HP:〜
モン・フルーリ地方の場所地図
マヘ島の行政区画地図
セーシェル諸島の地図(プララン島の場所地図)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       13/4/13
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