★日 本 |
弘法大師・空海の大航海 804〜806 唐の長安へ留学 |
大航海物語★ |
高野山・奥の院 | ||
日本郵便 NIPPON 弘法大師・空海 日本 平成19年 2007 発行 |
日本郵便 NIPPON 弘法大師 日本 平成19年 2007 発行 |
四国八十八ヶ所第4集シートより 日本 平成19年 2007 発行 |
日本郵便 NIPPON 遣唐使船 日本 昭和50年 1975/8/30 発行 |
琉球郵便 中国と日本の地図 昭和38年 1963/9/16 発行 |
弘法大師・空海は平安時代初期の僧侶で、遣唐使として中国の唐・長安へ大航海して、2年間の留学を終え、無事、日本に帰国しました。真言・密教を伝えて真言宗の開祖となり、高野山金剛峯寺を開きました。日本”三筆”の一人にも数えられています、「弘法も、筆の誤り」はあまりにも有名ですよね。弘法大師の伝説(逸話)を伝える「四国八十八ヵ寺」へは、現在も日本全国から巡礼が訪れています。 |
弘法大師・空海 (こうぼうだいし・くうかい) 774〜835/4/22 (宝亀5年〜承和2/3/21) ▼幼少期 弘法大師は日本の四国は善通寺の現七十五番札所「善通寺誕生院」でお生れになりました。そこは、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(さぬきのくにたどのこおりびょうぶがうら、香川県善通寺市善通寺)で、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)と阿刀(あと)氏出身の母(伝説では玉寄姫(たまよりひめ)の三男でした。善通寺の境内には父「善通」氏の屋敷跡が大師堂となっており、そこには「産湯の井戸」があるそうです。幼名は真魚(まお)で、幼少のころに神童と呼ばれ、幼少の頃から高い教育を受けることのできる環境に育ち、伊予親王の家庭教師だった母方の叔父(舅(きゅう)阿刀大足(あとのおおたり)に漢籍や儒教や文学や歴史などを学びました。7才頃に捨身ケ獄(七十三番札所の出釈迦寺・奥の院)に登り「 仏門に入り多くの人を救いたい、この願いがかなわないら自分の命を捨てる」と獄から投身しました。その時、釈迦如来と天女が現れ、その身を助けたという伝説があります。12才頃に讃岐の国学で学び、15才で母方の叔父「阿刀大足」氏に連れられて奈良の都に上りました。別の説では、四国は父方の領地だったんで、幼少の大師は母方の近畿地方で育ったというものです。そうすると奈良の都や長岡京は直ぐ近くで、18才から都の大学で明経道に入学して、儒教や仏教を学んだとなっています。 ▼仏門修行期〜私度僧(しどそう、官許を得ず僧侶を自称したということ) ある修行者から真言宗の虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)から授かる、記憶力増進を祈念する修法「虚空蔵求聞持法」を授かったことをきっかけに、約束された官史への道を捨て、学問だけでは人々を救えないと、出家して修行に励むため、都の大学を出奔、吉野の金峰山や四国の石鎚山、阿波の太龍岳、土佐の室戸岬などで厳しい修行を重ねました。別の説では、大師が室戸岬の洞窟「御厨人窟」に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説があります。また、この時期に高野山でも修行をなされたと伝えられています。22才で受戒し名を”空海”と改めました。やがて南都大宗の教学を学び、大日経の写本を見つけます。奈良の久米寺「東塔」の下で「大日経」を感得(796)したとも伝えられています。また、伊勢の飯高郡の丹生鉱山には水銀鉱山があり、近年まで採掘していましたが、 大師がこの頃に訪れたことがあるでそうで、顔料(朱)や大仏のメッキに丹生(にう、硫化水銀)が使用されました。 ▼大師の大航海:〜:804年、延暦23年 (肥前・田浦の港を出帆〜中国の福州・赤岸鎮に漂着) 803/4/16、藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)を遣唐大使とする遣唐使船が 難波津を出帆するも、嵐のため航行不能に陥り帰港 804/3/28、藤原葛野麻呂が再び遣唐大使に任命される 804/4/9、東大寺戒壇院で具足戒を受ける 大師の得度に関しては20才説、25才説など古来様々に言われるが、 現在は31才得度・受戒説が有力となっている。大師が遣唐使の一員に選ばれた経緯は不明。 先の遭難で欠員が出来たためとも言われ、大師の得度・受戒は遣唐使派遣に際して欠員を 補うための臨時の処置であったとの説も有。また、別の説では、叔父の阿刀大足が持講を 勤めた伊予親王の推挙があったとも言われている 804/5/12、延暦23/5/12、31才の大師が遣唐大使の藤原葛野麻呂と共に”第1船”に乗船し、 大師は難波津を仏教研究を目的の正規遣唐使・留学僧(るがくそう)として20年の予定で出帆 同日に難波の津を、第2船、第3船、第4船の3隻も遣唐使船として出港 804/6月、博多津を出港 804/7/6、第1船が肥前国松浦郡田浦を唐へ向かって出帆 同日に第2船(伝教大師・最澄が乗船)も出帆 804/7/6、第3船、第4船が出帆するも、中国には到着できず、途中で遭難 804/8/10、第1船が嵐に遭遇し、中国の福州長渓県赤岸鎮に漂着、海賊の嫌疑をかけられ、 遣唐使節であることを疑われる。おりしも福州の長官交代の時期にあたっており、 新長官の閻済美の赴任、そしてその指示を得るまで約50日間の待機を余儀なくされる。 大使藤原葛麻呂にかわり、福州の長官へ「大使のために福州の観察使に与うる書」という 嘆願書を代筆。嫌疑が晴れ、船を赤岸鎮から福州へ廻航のため出帆 804/9/1、第2船が明州に到着、同26日、天台山に向かって出発し、藤原大使と共に帰国 804/10/3、第1船が福州の港に到着し入港。大使以下23人の入京が許可されるも、朝貢使の 旅費などを唐朝廷が負担したので入京人数にも制限があったため、リストには大師の名は無。 直ちに「福州の観察使に与えて入京する啓」を提出して願いが聞きいれられる。 大師は1ヵ月間の福州滞在時に旺盛な活動を展開して五筆和尚の名を授けられる 804/11/3、福州を出発し長安へ向かう ▼留学期:〜805年、延暦24 804/12/23、長安に入り、宣陽坊の公館を宿舎とする 醴泉寺のインド僧・般若三蔵に師事、サンスクリット(梵語)やインドの学問を学習 805/1/23、唐の徳宗皇帝が崩御 805/1/28、順宗が皇帝に即位 皇帝の突然の崩御により、その服喪から大使一行の帰国許可が遅れる 2月に入って大使一行に帰国許可がおりる 805/2/11、藤原大使と最澄が長安をあとに帰国の途につく、 大師が大使一行に玄宗皇帝製「一行阿闍梨碑文」を託す 805/5月、最澄が帰国して神戸の和田岬に上陸、最初の密教教化霊場・能福護国密寺を開創 805/5月頃、大師が西明寺の僧と共に青龍寺の密教の第七祖・恵果(けいか)和尚を訪ね、 密教の戒、発菩提心戒(三昧耶戒)を受ける 805/6月上旬、大師が大悲胎蔵の学法灌頂を受ける 五智の灌頂を受け、観想智慧(瑜伽観智)を学ぶ 6月から半年間、青龍寺の恵果和尚から密教の伝授を受けて、真言密教の第八祖を継ぐ 長安滞在中は、唐の仏者たちや多くの文人・墨客(ぼっきゃく)と交流、広く文化を摂取 805/7月上旬、金剛界の灌頂を受ける 大師が漢語・梵語に通じていたため、金剛頂瑜伽経系の五部真言、密契、梵字梵讃を学ぶ 805/8月上旬、伝法阿闍梨位の灌頂を受ける(免許皆伝にあたる)。遍照金剛の灌頂名を授かる 805/8月中旬以降、曼荼羅や祖師図、密教法具の製作、経典の書写にあたり、 恵果より阿闍梨付嘱物を伝法の印信として授かる、大師は師・恵果に袈裟と柄香炉を献上 805/12/15、恵果和尚が入滅、享年60才 806/01/17、門下生(弟子)から選ばれて恵果和尚を追悼・顕彰する碑文を起草、 「大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂阿闍梨恵果和尚碑」碑文を書き、建立される この頃、判官高階真人が入唐し長安に入り、大師と橘逸勢が高階真人に帰国申請書を提出 806/3月、大師が長安を出発 806/4月、越州に到る 越州の節度使に書状「越州の節度使に与えて内外の経書を求むる啓」を提出し、 その協力のもとに経論等を蒐集 ▼大航海からの帰国:〜806年、延暦25、中国・明州の港を出帆 806/8月、大師が中国の明州の港をを出帆、帰国の途につく 806/10月、大師が無事に日本に帰国 ▼その後:〜806年、延暦25、太宰府から京の都へ 806/10月、九州の太宰府に滞在 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅、その他の文物をわが国にもたらし、 12月に「請来(しょうらい)目録」を朝廷に提出 809年、京都高雄山寺(神護寺)に入り、翌年、国家を鎮める修法を行う 812年、弘仁3年、天台宗・比叡山の最澄や弟子に 灌頂(かんじょう、水を頭に注いで仏位につかせる儀式)を授ける 816/6月、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏 816/7/8、高野山造営の勅許を得る 819/5月、高野山の伽藍の建立に着手 高野山が天台宗(最澄)の比叡山と共に平安初期の山岳仏教の拠点となる 821/9月、四国の讃岐の満濃池(香川県まんのう町)を修築し、農民のために尽力 823/1月、京都の東寺(教王護国寺)を給預される、 そこを京都での真言密教の根本道場として後進を育成 828/12月、天長5年、東寺の東隣にわが国最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設 835/01月、承和2年、宮中真言院で後七日御修法(ごしちにちみしゅほう)を行う 835/3/21、大師が高野山で入滅。享年62才 921年、延喜21年、醍醐天皇から弘法大師の諡号(しごう)が贈られる 大師は民衆の教育のため「綜芸種智院」を建立し教育の普及に力を入れたり、 満濃池の築造など、社会的事業にも貢献しました。たくさんの仏教や文学の書も書き残していますが、 弘法大師は能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に日本”三筆”のひとりに数えられています。大師にまつわる伝説は全国各地にあって、その数は3000〜4000にもなると言われています。 ◆「弘法も筆の誤り」とは 諺で「弘法大師のような書道の達人でも字を間違うことがある」ということで、字を書き損じたという話は「今昔物語」におさめられています。 京の都の大内裏に応天門という門があります。794年頃に大師は勅命(桓武天皇)を受けてこの門に掲げる額(扁額)を書くことになりました。ところが書き終えて額を門に掲げてみると、「応」の字の一番上の点を書き忘れていたのです。「それに筆を投げて点を打ったので、人々は大喝采して感動を表した」と記述しています。 ◆「五筆和尚」 在唐中、皇帝から唐朝・宮中の「王羲之の壁書」の書き直しを命じられた大師は、左右の手足と口とに筆を持って、5行を同時に書いて人々を驚かせ、「五筆和尚」の名を賜ったという逸話が残されており、この五筆和尚の図が神戸・白鶴美術館蔵の「弘法大師伝絵巻」で見られるそうです。 ■弘法大師・空海の略年表〜 |
年 | 元号 | 才 | 記 事 |
774 | 宝亀5 | 1 | 現七十五番札所善通寺誕生院で誕生 |
784 | 延暦3 | 11 | 桓武天皇が長岡京に遷都 |
785 | 延暦4 | 12 | 讃岐の国学(国分寺)に入る |
788 | 延暦7 | 15 | 都に上り、母方の舅(おじ)阿刀大足について学ぶ |
791 | 延暦10 | 18 | 大学(明経科)に入る(明経道の博士は讃岐出身の岡田臣牛養) |
794 | 延暦13 | 21 | 桓武天皇が平安遷都 |
798 | 延暦17 | 24 | 聾瞽指帰(さんごうしいき、宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書)を著す |
804 | 延暦23 | 31 | 東大寺戒壇院で得度受戒 |
” | ”/5/12 | ” | 難波津を遣唐使の”第1船”で出帆 |
” | ”/8/10 | ” | 暴風雨にあって遭難、福州長渓県赤岸鎮に漂着 |
” | ”/12/23 | ” | 第16次遣唐使留学僧として長安に入る |
805 | 延暦24/5 | 32 | 密教の第七祖・青龍寺の恵果和尚に師事 |
” | ”/8/10 | 32 | 伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられる |
806 | 延暦25/3/7 | 33 | 第50代”桓武”天皇(在:737(天平9)〜806/3/30)が崩御 |
” | 大同1/10 | ” | 20年の予定を2年で帰国のため、帰京の許可を得るまで太宰府に滞在 |
” | 大同1/5/18 | ” | 第51代”平城”天皇(在:806/6/8〜809/5/8(大同4/4/1)即位 |
816 | 弘仁7/7/8 | 43 | 朝廷より高野山を賜る |
821 | 弘仁12 | 48 | 香川県仲多度郡まんのう町の日本最大の灌漑用ため池満濃池の改修を指導 |
822 | 弘仁13 | 49 | 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院を建立、平城上皇に潅頂を授ける |
823 | 弘仁14年正月 | 50 | 太政官符により東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教の道場とする |
828 | 天長5/12/15 | 55 | 京に私立の教育施設「綜芸種智院」を開設 |
832 | 天長9/8/22 | 59 | 高野山で最初の万燈万華会 |
835 | 承和2/3/21 | 62 | 入滅 |
921 | 延喜21/10/27 | ・ | 東寺長者・観賢の奏上で醍醐天皇が「弘法大師」の諡号を贈る |
・弘法大師・空海の伝説(抄)〜大百科事典より ◆入定留身信仰(にゅうじょうるしんしんこう) 弘法大師空海は和歌山県高野山の奥の院御廟に祀(まつ)られ、現在もこの世に肉身を留めており、56億7000万年ののちに弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に出現するまでの間、衆生(しゅじょう)救済のために精進(しょうじん)されているという信仰。 ◆お衣替え(おころもがえ) 大師の入定留身信仰に伴って、高野山では毎年、旧3月21日の正御影供(しょうみえいく)にお衣替えの法要が営まれる。徳島県の山間部では、11月23日(霜月二十三夜)をお大師さまのお衣替えの日といって、小豆粥(あずきがゆ)を煮て仏壇に供え、家族もともに食べる風習がある。他の地方では、大師は人民救済のため諸国を巡歴しているので衣の裾(すそ)が傷むと信じられている。この夜、訪ねてくるお大師さまを接待するため、ある寒村の老婆が隣の畑の大根を盗みに行ったが、その老婆の足跡を隠すために11月23日の夜にはかならず雪が降ると伝えている。霜月二十三夜の行事は民間の新嘗祭(にいなめさい)といわれている。 ◆我拝師山捨身嶽(がはいしざんしゃしんがだけ) 四国霊場讃岐(さぬき、香川県)第72番曼荼羅寺(まんだらじ)と第73番出釈迦寺(しゅつしゃかじ)の奥の院に我拝師山捨身嶽という山がある。ここは大師が7歳のとき、「我が師釈迦如来(にょらい)に逢(あ)わしめ給(たま)え」という誓いとともに山頂より投身したところ、黄衣の僧が現出して中空で大師を受け止めたという。しかし、これは、青年空海の四国修行における捨身の修行が、のちにこのように伝説化されたものである。阿波(あわ、徳島県)第21番舎心山太龍寺(たいりゅうじ)も、舎心山ではなく、本来は修行場の捨身山だった。 ◆五筆和尚(ごひつわじょう) 唐の都長安の宮中に、2間にわたる壁面があり、王羲之(おうぎし)の書が揮毫(きごう)されていた。その一部が破損したが、だれも王羲之の筆勢に押されて筆をとって修復に応ずる者がいなかった。そこで憲宗皇帝が在唐中の大師に命じたところ、大師は両手両足と口にそれぞれ筆をもち、墨を含ませて一気に「樹」の一字を書いた。皇帝はいたく大師を賞嘆して五筆和尚と号したという(大江匡房(まさふさ、本朝神仙伝)。 ◆三鈷の松(さんこのまつ) 高野山の御影堂と根本大塔の中間あたりに、有名な三鈷の松がある。806年(大同1)大師が唐から帰朝する際に、唐の岸から、帰朝後に密教を広めるにふさわしい聖地を求めて祈誓し、三鈷杵(さんこしょ)を日本に向かって投げたところ、三鈷杵は沖の雲間に消えていった。818年(弘仁9)大師は嵯峨(さが)天皇から高野山を下賜され、大師が帰朝後初めて高野山に登ると、三鈷杵は高野山の松に落ちかかっていた。「本朝神仙伝」では高野山、京都の東寺、土佐の室戸岬にも三鈷杵は落ちていたという。 ◆神泉苑の祈雨(しんせんえんのきう) 平安京の神泉苑に善如(ぜんにょ)という竜王が棲(す)んでおり、霊験(れいけん)あらたかな僧が修行祈願すれば、善如竜王が姿を現し、所願成就(じょうじゅ)の霊験があると信じられていた。あるとき旱天(かんてん)のため天皇はもとより人民が非常に苦しんでいるのをみて、大師が神泉苑で祈雨の修法(しゅほう)をしたところ、長さ9尺(約2.7メートル)ばかりの金色の竜が姿を現し、雨が降った。その竜を見た者は大師と、実慧(じちえ)、真済(しんぜい)、真雅(しんが)といった大師の高弟たちで、余人は見ることができなかった(今昔物語)。 ◆守(修)円僧都の茹栗(しゅうえんそうずのゆでぐり) 天長(てんちょう)年間(824〜834)守円僧都が参内して、天皇の御前で呪力(じゅりょく)をもって生栗を茹栗にし甘味を調えて天皇に進めた。後日、大師が参内すると、天皇は守円のことを語り、大師にも、呪力による茹栗を上進しないのか、といった。大師は、天皇と私の前で守円の法力を見せてほしいと申し上げた。守円は宮中に招かれ、例のごとく、否、以前より熱心に生栗を加持したが、弘法大師の威徳に押されてか、法験を失い栗は変色さえしなかった(大師行状集記、今昔物語)。 ◆大師と遍路の元祖衛門三郎(だいしとへんろのがんそえもんさぶろう) 昔、伊予国(愛媛県)浮穴(うきあな)郡荏原(えばら)の庄(しょう)に衛門三郎という豪族がいた。非常な強欲者で、神仏も敬わず慈悲心のかけらもなかった。ある日、衛門三郎の門前に1人の旅の僧(実は大師)が托鉢(たくはつ)に立った。衛門三郎は接待をするどころか、持っていた鍬(くわ)で旅の僧に打ちかかり、僧の持っていた鉄鉢(てっぱつ)は八つに割れてしまった。その翌日から衛門三郎の家では8人の子が次々に死亡し、8日にしてことごとく死に果てた。さすがの衛門三郎もおのが強欲を懺悔(ざんげ)し、財宝ことごとく社寺や貧しい人に寄進して、発心(ほっしん)して四国遍路の旅に出た。これが遍路の元祖であるという。弘法伝説が信賞必罰よく祟(たた)るのは、超越的な神力を示すもの。 ◆焼山寺の麓の一本杉(しょうさんじのふもとのいっぽんすぎ) 衛門三郎は順逆21度の四国遍路のすえ阿波第12番焼山寺の麓(ふもと)の山中で行き倒れとなり、そこへ通りかかった大師に「われは伊予の河野(こうの)の一族なり、願わくば来世に伊予一国の領主河野氏の世嗣(よつぎ)に生まれしめ給(たま)え」と懇願した。大師は衛門三郎の手に「鉢塚衛門三郎」と書いた小石を握らせて往生させた。後年、伊予の領主河野息利(おきとし)に一子息方(おきかた)が生まれたが、左手に「鉢塚衛門三郎」と書いた小石を握っていたという。また、衛門三郎が焼山寺の麓で他界するとき、彼の遍路杖(づえ)を大師が墓標として土に突き刺した。それが根づいて杉の大木に成長し、いまもそこは杖杉庵(じょうさんあん)とよばれ、杉の大木と衛門三郎の墓がある(石手寺縁起)。 ◆機織る女房(はたおるにょうぼう) 土佐(高知県)の高岡郡仁井田(にいだ)の庄に弥助(やすけ)という男がいた。貞享(じょうきょう)年中(1684〜88)のことであるが、その女房が布を織っていたところへ遍路の僧が通りかかった。女房は貧しくて接待するものがなにもなかったので、手拭(てぬぐい)などの御用にもと、織りかけていた布を切って接待したところ、それからのち、その布はいくら切っても尽きることがなく、弥助夫婦は生涯、大師によく仕えたという(四国遍礼(へんろ)功徳記)。 ◆弘法清水(こうぼうしみず) 栃木市大森に、弘法水という清水がある。大師がここを通りかかり水を所望されたところ、老婆が汗をいっぱいかいて、遠いところまで水を汲(く)みに行き、大師に接待した。このあたりは水がなくて村人たちが苦しんでいるのを知った大師は、持っていた錫杖(しゃくじょう)を岩に突き立てると、清水がこんこんと湧き出るようになった。 ◆半渋柿(はんしぶがき) 三重県鳥羽(とば)市堅神(かたかみ)町に、半分渋くて、半分甘い半渋柿があり、全部食べることができない。昔、大師が巡ってこられたとき、柿を所望されたのに、半渋だといって与えなかったところ、その後は毎年、半渋の柿しか実がならなくなった。甘い柿が実らなくなったらしい(風呂の残り湯に一晩漬けておくと、柿の渋が抜けますよ)。 ◆十夜が橋(とよがはし) 愛媛県大洲(おおず)市徳森にある橋で、昔、四国修行中の大師が、宿もないまま土橋の下で一夜を明かされた。冬であったので、一夜が十夜にも大師には感じられた。いまも橋の下には大師の寝姿の石像があり、いつも新しい布団がかけられている。付近で病人が出ると、大師の布団を借りてきて病人に着せかけ、治るとまた別の新しい布団をこしらえて大師の石像にかけるのだという。 ■南都六宗(なんとろくしゅう) 奈良時代の六つの学派仏教。すなわち法相(ほっそう)宗、三論(さんろん)宗、倶舎(くしゃ)宗、成実(じょうじつ)宗、華厳(けごん)宗、律(りっ)宗の総称。これらは、唐を中心として発達した仏教が、遣唐使とともに唐に渡った留学僧によってもたらされたものである。その伝来の順は、まず玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の開いた法相宗を道昭(どうしょう)が伝え、ついで道慈(どうじ)が隋(ずい)の嘉祥大師吉蔵(かじょうだいしきちぞう)より三論宗を学んでこれを伝えた。さらに、これらとともに倶舎論を学ぶ倶舎宗や、成実論を主とする成実宗なども伝わった。これらは仏教の論を中心とした宗で、経を中心としたものは、唐の賢首大師法蔵(けんじゅだいしほうぞう)の開いた『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』に基づく華厳宗が新羅(しらぎ)の審祥(しんじょう)によって伝えられた。そこで審祥に学んだ良弁(ろうべん)は、聖武(しょうむ)天皇とともに東大寺を創建して、華厳経の本尊の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を安置した。とくに聖武天皇は戒律を唐に求めるために興福寺の栄叡(ようえい)と大安(だいあん)寺の普照(ふしょう)を遣わして、揚州の大明寺(だいみょうじ)に住していた鑑真(がんじん)に律宗の将来を促した。鑑真は意を決して743年(天宝2)より五度の遭難を乗り越えて753年に渡来し、日本に律宗を伝えて鑑真和上となった。 参考HP:〜 ・神戸の須磨寺・公式HP ・大阪の四天王寺・公式HP ・和歌山の高野山真言宗 総本山 金剛峯寺・公式HP 2009/1/20 |