★歴史の証人 シリーズ |
満州国 Empire of Manchou |
日本の侵略★ |
国旗 | 皇帝”溥儀” | 国章 | ||
満州国 1942/3/1 発行 |
ラスト | 満州国1932/7/26発行 |
エンペラ| | 満州国 1935/1/1 発行 |
|
アジア号の雄姿 | 満鉄1万km突破 | 国軍創設 | 満州赤十字社 | |
満州国 1939/10/21 発行 | 満州国 1941/5/25 発行 | 満州国 1943/10/1 発行 | ||
|
||||
5民族の協和 満州国 1942/9/15 発行 |
日満の繁栄 満州国 1944 発行 |
慶祝・日本起源2600年 満州国 1940/9/18 発行 |
満州国 (1932/3/1〜1945/8/18) Manchukuo、The Empire of Manchou 面積:1,133,437ku、人口:36,933,206人(1937)、建国宣言:1932/3/1、皇帝退位宣言:1945/8/18、元首:(皇帝) 1934-1945:康徳帝(愛新覚羅溥儀)、首都:新京、公用語:中国語(北京官話)・モンゴル語・日本語、国のスローガン(標語):五族協和の王道楽土 、通貨:満州国の”圓”、1番切手:1932/7/26発行。 満州国は、1932年から1945年の間、満州(Manchuria、南満洲:現在の中国東北部)に存在した事実上日本の傀儡政権とされている国家、1934年初めの満洲国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。 人口の構成としては、 満洲人 :30,190,000人 (漢族、満洲族、朝鮮族 97.8%、68万人の朝鮮族を含) 日本人 : 590,760人 (1.9%) 他人種 : 98,431人 (ロシア人・モンゴル人等 0.3%) なお、都市部の住民は約20%。 1904/2/6、明治37年、日露戦争(〜1905/9/5)勃発 大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州(中国東北部)南部が主戦場 1906年、半官半民の特殊会社の南満州鉄道(株)を設立、満州軍野戦鉄道提理部が ポーツマス条約でロシアから譲渡された東清鉄道の南満州支線(長春〜大連)と 戦争中の物資輸送軽便鉄道の安奉線(安東(現・丹東)〜奉天(現・瀋陽)間)の経営 1907/7/30、明治40年、日露協約(第1次)調印、(第4次まで有) 1917年、ロシア革命でロシア帝国が滅亡、日露協約はソビエト政府が破棄、 日本は中国権益の危機を迎える 1919年、大正8年、南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が、関東軍と改称、 司令部は旅順、満州事変後は満州国の首都・新京(現吉林省長春)に移転 1928/6/4、昭和3年、奉天軍閥の指導者「張作霖」が関東軍に爆殺された事件発生 1931/9/18、昭和6年、柳条湖事件(満洲事変の端緒):奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、 大日本帝国陸軍の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破、大日本帝国と中華民国と の間で満洲事変(1931/9/18〜32/2/18)が勃発、全満洲を関東軍が5ヵ月で占領 1931/12、国際連盟理事会は柳条湖事件の問題を討議し、 イギリス人のヴィクター・リットン卿を団長とするリットン調査団の派遣を決議 1932/1/18、夜、上海の馬玉山路を歩いていた日本人僧侶を中国人がを殺害、 川島芳子(1907/5/24-48/3/25、清朝粛親王の王女、愛新覚羅”顕し”)が画策で、 1932/1/28、昭和7年、上海国際共同租界周辺で日華(19路軍)両軍衝突(第1次上海事変) 1932/2、遼寧(当時は奉天省)・吉林・黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、 満洲新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織 1932/2/18、東北省区は完全に独立と、中国国民党政府からの分離独立宣言 元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅”溥儀”(1906-1967)が満洲国執政として即位 1932/2/22、上海事変で肉弾三勇士(江下武二、北川丞、作江伊之助)一等兵が 19路軍が上海郊外の廟行鎮に築いた陣地の鉄条網に突入爆破・爆死した英雄 1932/3/01、満洲国の建国を宣言(元号は大同)、首都は長春を新京と改名 1932/4/15、満州国軍(陸海軍)を創設 1932/3〜6月、リットン調査団が中国と満洲を調査 1932/4/29、上海天長節爆弾テロ事件が発生(重光公使が右脚を失う) 抗日武装組織韓人愛国団員の尹奉吉がテロの実行犯で白川大将死亡他 1932/5/5、上海停戦協定(日本軍は3/3に戦闘中止を宣言) 1932/10/2、リットン調査団が報告書を提出 満洲事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満洲に対する中華民国の主権を 認める一方、日本の満洲に於ける特殊権益を認め、満洲に中国主権下の自治政府 を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告する報告書を提出 1932/9/15、大日本帝国が満洲国の独立を承認、リットン調査団の報告書に反発、 松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟に送るも、 総会で42対1(反対は日本のみ)、棄権1(シャム、後のタイ王国)で報告書が採択 1933/3、大日本帝国がこれを不服として国際連盟を脱退 1933/5/31、昭和8年、塘沽(たんく)協定成立、 大日本帝国と中華民国とが河北省塘沽で締結した満州事変の停戦協定 1934/3/1、ラスト・エンペラー溥儀が皇帝に即位、満洲国は帝政に移行、元号は康徳に改元 (当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更) 国務総理大臣(首相)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任 1936年、満蒙開拓移民団の渡満が開始される(約32万人のうち帰国したのは11万人) 1937/7/7、盧溝橋事件(北京(当時は北平)西南方で起きた発砲事件)が発端で、 日中(国民党)全面戦争(1937/7/7〜45/9/9、支那事変)勃発 1937/8/13、第2次上海事変(〜10/26)勃発 1938/10/1、満州国赤十字社を恩賜普済会と統合で設立 1939年、昭和14年、南満州鉄道が1万kmを突破 1940/11/10、昭和15年、紀元(皇紀)2600年式典を開催 1941/12/4、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦直前、満洲国の参戦を抑止し、在満洲の 連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに米英仏蘭、営口に蘭の名誉領事館) の閉鎖を実施しため満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が 大日本帝国軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった 1941/2/11、李香蘭(1920/2/12〜)が紀元節に日本劇場に出演、「日劇七周り半事件」発生 1941/12/8、大日本帝国がアメリカ合衆国に宣戦布告(太平洋戦争勃発) 1943/09/8、大日本帝国の同盟国のイタリア王国が降伏 1944/7/29、鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍の B29爆撃機の空襲を受け、工場の稼働率は全般に低下、 1944/6月、奉天の東郊外の「満洲飛行機」では平均で70%だった従業員の工場への出勤率が 1944/8/5、鞍山の空襲から1週間後の稼働率が26%に下落(従業員が空襲で出勤しなかった) 1944/10/20、連合軍司令官マックアーサーがレイテ島に上陸 1945/5/08、大日本帝国の同盟国ドイツが降伏 1945/3/25、硫黄島が全滅・玉砕 1945/6/25、沖縄が陥落、連合国の手に落ちる 1945/8/08、ソビエト連邦が日本に宣戦布告、ソビエト連邦軍が中国東北部に侵攻 1946/4/26まで有効の”日ソ中立条約”を破棄し、ソ満国境を越えて侵入 1945/8/10、大日本帝国の関東軍が民間人を置き去りにして敗走 新京の関東軍が莫大な資金を乗せた憲兵の護衛つき特別列車で脱出 皇帝溥儀たちは新京を放棄し、朝鮮に近い通化省臨江県大栗子に避難 1945/8/15、玉音放送で大日本帝国・無条件降伏(9/2:第2次世界大戦終結) 1945/8/17、国務院は満洲国の解体を決定 1945/8/18、溥儀が大栗子で退位し、満州帝国が13年で滅亡 中国国内で国民党と共産党の内戦再発 1945/8/19、溥儀が通化飛行場から飛行機で日本に逃亡する途中、奉天でソ連軍の 空挺部隊に拘束・逮捕され、通遼を経由、ソ連・チタの収容施設に護送された 1946/5、満州占領のソ連軍が完全に撤退、満州を蒋介石の中華民国に返還 1949/10/1、中国の国共内戦で共産党が勝利、中華人民共和国が成立 参考:〜大百科辞典より 大日本帝国の関東軍が民間人を置き去りにして敗走;〜1945/8/8のソ連対日参戦で国境付近で多くの部隊が全滅し、侵攻に対抗できなかったので、関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は8月10日、いち早く、莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた憲兵の護衛つき特別列車で脱出した。そしてソ連軍の侵攻で犠牲となったのが、主に満蒙開拓移民団員をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。 ソ連軍は規律が整っておらず、兵士による数多くの殺傷・強姦・略奪事件が発生したとされる(但し被害を証明する文献は少ない)。また日本人の強引な土地収奪などから開拓団に恨みを持つ満洲族や漢族、朝鮮族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。 この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、漸く46年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。その間多くの餓死者・凍死者・病死者を出したとされる。 一方ソ連軍の侵攻は満洲国内で日本人による抑圧を受けていた中国人、朝鮮人、蒙古人にとっては「解放」であり、彼らの多くはソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が相次ぎ、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。 日本兵と日本人入植者;〜戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除させ捕虜とし、シベリアや中央アジア等の極北の僻地に強制連行して抑留し、過酷な労働を強要した。更には民間人も18才から45才までの男性を有無を言わさず逮捕収用し、65万人からの日本人が極度の栄養失調状態のうえ極寒の環境にさらされた、このシベリア抑留によって帰国を待たずその地で命を落とす者が25万人以上出たといわれる。 一方、逃避行の果てに、ようやく内地の日本へ帰り着いた入植者を含む日本人「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、さらに治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓移民団 や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。 ソ連の占領;〜満洲は1946年4月までソ連軍に占領され、彼らは東欧地域同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪してソ連本国に持ち帰ったりした。5月には完全に撤退し、蒋介石率いる中華民国に返還された。 人口;〜1908年の時点で、満洲の人口は1583万人だったが、満洲国建国前の1931年には3000万人近く増加して4300万人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123の割合で、1941年には人口は5000万人にまで増加していた。男性の方が多かったことに移民国家としての側面が強かったことがうかがえる。 1934年の初めの満洲国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。人口の構成としては、 満洲人(漢族、満洲族、朝鮮族) 30,190,000人 (97.8%) 日本人 590,760人 (1.9%) ロシア人・モンゴル人等の他人種 98,431人 (0.3%) 上記の「満洲人」の中には、68万人の朝鮮族も含んでいる。なお、都市部の住民は20%程度であった。 日本側の資料によると、1940年の満洲国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の全人口は43,233,954人(内務省の統計では31,008,600人)。別の時期の統計では36,933,000人であった。 参考HP:〜 満州国のあった所(緑色の所) 南満洲鉄道株式会社 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/12/30 |