大航海物語 |
ハイチ革命 1791〜1804 イスパニョーラ島西部で奴隷が反乱、成功 |
参考資料 |
REPUBLIQUE D'HAITI | ||
サン・ドマング(ハイチ) | 海賊島・トルトゥーガ島 | |
ハイチ 1995 発行 |
←トルトゥーガ島→ (現トルチュ島) ←ハイチ (イスパニョーラ島) ←ゴナーブ島 |
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REPUBLICA DOMONICANA |
イスパニョーラ島 |
ドミニカ(黄色の部分)、ハイチ(緑色の部分) 左の島がキューバ |
・ハイチ革命 (1791〜1804) Revolution haitienne ハイチ革命は西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した革命で、これにより自由黒人の共和国としてハイチが建国されました。革命が起こった時、ハイチはサン・ドマング(Saint-Domingue)と呼ばれるフランスの植民地で、当時はイスパニョーラ島の西三分の一を占めていました(ベルギーほどの大きさ)。この革命によって、アフリカ人とアフリカ人を先祖に持つ人々がフランスの植民地統治から解放されただけでなく、奴隷状態からも解放。奴隷が世界中で使われていた時代に多くの奴隷の反乱が起こりましたが、サン・ドマングの反乱だけが成功し、全土を恒久的に解放しました。 ▼あらまし 1789年にフランス本国では革命が勃発し、その知らせを聞いたサン・ドマングの黒人奴隷とムラート(混血の自由黒人)たちは、1791年に蜂起。 トゥーサン・ルーヴェルチュール、ジャン=ジャック・デサリーヌ、アンリ・クリストフらに率いられた黒人反乱軍は白人の地主を処刑した後、フランスに宣戦布告したイギリスとスペインが、この地を占領するため派遣した軍を撃退し、サン・ドマング全土を掌握。しかし、ナポレオンが本国から派遣した軍隊によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死。ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン・ドマング領内から駆逐。そして、1804年1月1日に独立を宣言してハイチ革命が成功しました。デサリーヌは国名を先住民のつけた名の”ハイチ”に変更し、ナポレオンに倣って皇帝として即位し、残った白人を追い出しました。彼は1805年に憲法を制定しましたが、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺されました。ジャン=ジャック・デサリーヌは今日もハイチ建国の父として敬愛されています。 ▼前ぶれ カリブ海の富裕層はヨーロッパで増大しつつある砂糖の嗜好に頼っており、プランテーションの所有者は北アメリカからの食料とヨーロッパからの加工製品を砂糖と交換していました。1730年代からフランスの技師はサトウキビの生産を上げるため複雑な灌漑設備を造り上げました。1740年代までにサン・ドマングはジャマイカと共に、世界の砂糖の主要な供給源となっていました。砂糖の生産は、厳格に統制されたハイチの植民地プランテーション経済において、大量の黒人奴隷によって行われる困難な肉体労働を必要としていました。砂糖の輸出で富を築いた白人の農園主は、圧倒的に多い奴隷に囲まれて絶えず奴隷の反乱に神経を尖らせていました。 1758年に白人の土地所有者は有色人種と階級の権利を制限し、厳格な階級制度を造り上げるために法律を定め始めました。3つの階級区分:〜 ・ブランクス(blancs)と呼ばれた1番目の階級:白人植民者。 ・ジャン・ド・クルール(gens de couleur、有色人)と呼ばれた2番目の階級: 自由黒人(大抵はムラート、ヨーロッパ系とアフリカ系の混血) ・黒人奴隷:3番目が数の上では他を10対1の比率で圧倒するほとんどがアフリカ生まれの黒人奴隷であり、フランス語訛りの西アフリカ語、いわゆるクレオール言語を話しました。 白人植民者と黒人奴隷の間には度々暴力的な紛争が続き、マルーンと呼ばれる逃亡奴隷の集団は森の中に隠れ住み、内陸の砂糖やコーヒーのプランテーションにしばしば暴力的かつ残虐な襲撃をかけました。最初に現れたマルーンの際立った指導者はカリスマ性のあるフランソワ・マッカンダル(Francois Mackandal、生年不詳-1758没,、ブードゥー教の司祭、ウンガン houngan、6年間ゲリラ活動をつづけ、毒薬と大農園への襲撃を通じて、6,000人以上の白人を殺害)であり、黒人の抵抗集団を纏め上げることに成功。ブードゥー教の僧侶でもあったマッカンダルは、アフリカの伝統と宗教に配下の者を惹き付けることで集団を鼓舞した。集団を連携させただけでなく、プランテーションの奴隷の中に秘密の情報組織を造り上げ、マッカンダルは1751年から1757年にかけて、部下の黒人を率いて反乱を指揮。マッカンダルは部下の裏切りにより、1758年にフランス軍に捕縛され、カプ・フランソワ(Cap-Francais 現カパイシャン Cap-Haitien)の広場で生きたまま焼かれました。多くの武装したマルーン集団は、マッカンダルの死後も襲撃や示威行為を続けました。 1789年にサン・ドマングは世界の砂糖の40%を生産しており、地球上でも最も価値ある植民地となっていました。社会の最下層にいる奴隷の数は、この時でも8対1の比率で白人とカラードの数を上回り、島にいる黒人奴隷の人口はこの時少なくとも50万人であり、カリブ海地域にいた奴隷100万人のおよそ半分でした。彼らはほとんどがアフリカ生まれ、奴隷制度の厳しさ故に出生率よりも死亡率の方が高く、重労働と不適切な食糧、住まい、衣類、医療、および男女間の構成差のために、奴隷人口は毎年2%から5%で減少。奴隷の中には都市の家事奉公人として、プランテーション所有者の料理人、従僕、および職人として働き、いわばエリート階級の中に所属する者もいました。この比較的特権階級に属する者はほとんどがアメリカ生まれであり、アフリカ生まれの階級は厳しい労働と過酷な条件の下で生きました。 島の北海岸にある北部平原と呼ばれる地域が最も土地の肥えた所であり、大きな砂糖プランテーションがありました。必然的に経済的にも最も重要な地域でした。ここの奴隷達は、「マッシフ」と呼ばれる高い山脈に隔てられているために、植民地の他の場所とは隔離されている状況でした。この地域はグラン・ブラン (grand blancs、偉大な白人)と呼ばれる富裕な白人植民者の地盤であり、特に経済に関しては大幅な自治権を望んでいたので、好きなように振舞うことができました。1789年にはサン・ドマングには4万人のフランス人植民者がいましたが、ヨーロッパ生まれのフランス人が行政上の地位を独占。砂糖農園主グラン・ブランの多くは少数貴族でした。多くの者は黄熱病を恐れて、できるだけ早くフランスに戻りました。貧乏な白人プティ・ブラン (petit blancs) は職人、商店主、奴隷交易者、監督者および日雇い労働者でした。サン・ドマングのカラードは1789年時点で2万8千人を数えました。 白人、カラードおよびアフリカ生まれの奴隷である多数の黒人の間で、奴隷所有者によって助長された人種間紛争以外にも、島は北部、南部および西部の地域間競争意識によって分裂。これに加えて、富裕な白人農園主、貧乏な白人、自由黒人(カラード)および奴隷という階級間紛争と、独立指向者、フランスに忠実な者、スペインの同盟者、およびイギリスの同盟者の間の紛争もありました。フランス本国では、国民議会と呼ばれる諮問機関がフランスの法律を急激に変えており、1789/8/26に人権宣言を出版して「全ての人の自由と平等を宣言」しました。フランス革命はハイチの抗争にも影響を与え、初めは島中で広く受け入れられました。フランスの指導層には多くの紆余曲折がありましたが、ハイチ自体でもそれが捻じ曲げられ、様々な階級と党派がその連衡を何度も変えました。 ▼こうして、1791年に北県で奴隷の反乱が勃発 島のアフリカ人大衆は、島の海外貿易に対するフランス本国の規制を不快に思っていた富裕なヨーロッパ人農園主による独立の扇動について漏れ聞くようになりました。この階級はほとんどがフランスの王党派やイギリスに組していました。というのも、もしサン・ドマングの独立が白人奴隷所有者によって成されたときは、プランテーション所有者はフランスの貴族に対して少しの責任も無く好きなように奴隷制度にあたるであろうから、アフリカ人大衆には過酷な待遇と不当な取り扱いが増えると考えられたからです。サン・ドマングのカラードであり最も知られたジュリアン・レイモンは、1780年代以降白人との完全な平等をフランス本国に積極的に訴え、レイモンはフランス革命を利用して、フランス国民議会にこのことを植民地の主要な問題であると投げかけました。1790年10月、植民地の別の富裕なカラードであるヴァンサン・オジェがレイモンと共に働きかけを続けていたパリから島に戻りました。フランス国民公会によって成立したあいまいな法律によって、彼自身のような富裕なカラードにも完全な市民権が与えられていることを確信したオジェは参政権を要求。植民地の知事がこれを拒んだ時、オジェはカプ=フランソワ周辺で短期間の反乱を率いましたが、捕えられ1791年早くに残酷に処刑。オジェは車輪に縛り付けて体の自由を奪われ、槌で殴打し死ぬまで放置されました。オジェは奴隷制に反対して戦ったのではないのですが、この処置が奴隷達に1791年8月の蜂起と植民地人との契約に対する抵抗を決断させる要因の一つとなったと、後に奴隷の反逆者達によって証言されました。一般にこの時点までの紛争は白人の党派間、あるいは白人とカラードの間のものであり、黒人奴隷は傍観者の立場でした。 奴隷達は反乱に加わると予想されておらず、1791/8/22に突然、ブードゥーの高僧デュティ・ブークマンが奴隷たちに動員令を発して大規模の奴隷蜂起が起こり国中が内戦状態となりました。肥沃な北部平原地域の何千という奴隷がその主人に対する報復とその自由を戦い取るために立ち上がり、10日間の内に白人の支配地域は幾つかの孤立した砦のみとなり、北部地域全体を前例の無い奴隷の反乱が支配することとなりました。次の2ヵ月間暴動は拡大し、2,000人の白人を殺し、280ヵ所の砂糖プランテーションを焼いて破壊。一年以内に島は革命の渦に巻き込まれ、奴隷達は労働を強制されていたプランテーションを焼き主人、監督者および他の白人を殺害しました。 反乱の指導者であるジャン・フランソワとジョルジュ・ビアソーが島の東側のスペイン植民地サント・ドミンゴの王党派寄り当局と同盟したためスペイン軍が侵入し、大きな混乱が進行。北部のプランテーションで始まった奴隷の反乱は植民地中に混乱を拡げ、最終的に1792/4/4にフランス議会が肌の色に関係なくフランス植民地の全ての自由人の平等を宣言。レジェ=フェリシテ・ソントナに率いらせた使節団をサン・ドマングに派遣し植民地当局を従わせようとして、ソントナは1793/8/29に奴隷制度の廃止を宣言。フランスのエティエンヌ・ラヴォー将軍は1794/5月にトゥーサンがフランス軍に付いてスペインと戦うよう説得しました。 ▼トゥーサン・ルーヴェルチュールの指導
ナポレオン・ボナパルトはトゥーサンを収益の上がる植民地としてのサン・ドマングの回復の障害と看做し、奴隷制の再導入を否定してはいましたが、1802年にサン・ドマングの再支配のために義弟のシャルル・ルクレール将軍率いる遠征軍を大西洋を越えて派遣しました。フランス軍にはアレクサンドル・ペションおよび3年前にトゥーサンに敗れていたアンドレ・リゴーが率いるムラートの軍勢も加わり、ジャン=ジャック・デサリーヌのようなトゥーサンに近い同盟者がフランス軍に逃げたりしました。トゥーサンは残っている軍隊を連れてフランス軍に投降すれば自由を保障されると言われ、トゥーサンは1802年5月にこれに同意するも、これがウソ(偽計)で、捕まえられて軍艦でフランスに運ばれ、ジュー要塞に収監されている間(1803)に獄死しました。 ▼ジャン=ジャック・デサリーヌ (Jean-Jacques Dessalines,1758-1806)の指導 数ヵ月の間、島はナポレオンの支配の下で平穏でしたが、フランスが奴隷制を復活させようとしていることが明らかになると、ルーヴェルチュールの部下デサリーヌやペションが1802年10月に反旗を翻し、フランスと戦いの火ぶたを切り、11月にルクレール将軍は黄熱病で亡くなりました。フランス軍兵士の多くも黄熱病に倒れ犠牲になりました。ルクレール将軍の後継者ロシャンボー子爵(Donatien-Marie-Joseph de Vimeur, vicomte de Rochambeau 1755-1813、アメリカ独立革命時のロシャンボー将軍の息子)は、その前任者よりも残忍なやり方で戦い、ロシャンボー将軍の残虐行為によって、元のフランス王党派の多くが反乱軍の側に付きました。フランス軍はイギリスの海上封鎖によって勢いを弱められ、またナポレオンは要請された大量の援軍を送ることを躊躇しました。ナポレオンは1803年4月にアメリカ合衆国にルイジアナ植民地を売却し、西半球における事業に対する興味を失っていったのでした。デサリーヌは反乱軍を率い、終に1803年にフランス軍を打ち破りました。 ハイチ革命の最後の戦い「ヴェルティエ−ルの戦い」は1803/11/18にカパイシャン近くで勃発。ハイチ反乱軍はデサリーヌが率い、フランス植民地軍はロシャンボー子爵が指揮。「ヴェルティエールの戦い」の結果、1804/1/1にデサリーヌらはゴナイーヴでハイチの独立を宣言しました。サン・ドマング遠征の影響は、特に人命に及び、革命直前の島の人口は、およそ550,000人であり、1804年には300,000人となりました。サン・ドマングを失ったことはフランスとその植民地帝国にとって大きな打撃となったたのでし。 ・デサリーヌ略歴:〜1805年には自らジャック1世として皇帝の座に就く。1804年に独立宣言、国名をサン・ドマングから先住民であるタイノ人がつけた名であった”ハイチ”に変更。ムラートと黒人の将校による議会から総督に選ばれ、さらにナポレオンに倣って皇帝として即位。権力を掌握すると報復として白人を大量に殺害。しかし、皇帝になったものの、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺されました。以下略。 ・ハイチ革命戦争(1791〜1804):〜数字は概算で通期の推定
フランス傭兵のポーランド軍はハイチ反乱軍との戦闘をためらって戦わなかったという説有。 参考HP:〜:ハイチの地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/7/20 |