France

国連 1980 発行
切手で綴る フランスの冒険大航海(Great Adventure Voyagee)ビーバー戦争(II-9

アブラハム・ドゥケーヌ提督
1676
パレルモの海戦、勝利
大航海物語
 フランス編


REPUBLIQUE FRANCAIES
ドゥケーヌ提督と地中海の航海図


Duquesne 1610-1688
フランス 1988/2/20 発行 2.0+0.5=2.5f 寄付金付
JERSY
英仏海峡の地図

ジャージイ 1970 発行

ドゥケーヌ提督は第3次英蘭戦争中の1672年ソルベイの海戦でオランダのデ・ロイテル提督と英仏海峡で戦いました。その後、戦上は地中海に移って、デ・ロイテル提督と1676/1月にストロンボリの海戦、4月にアゴスタの海戦を戦いデ・ロイテルに重傷を負わせ、6月には西蘭連合艦隊とパレルモの海戦を戦い勝利して、地中海の制海権を奪取し、侯爵になりました。
侯爵(マルケス)アブラハム・ドゥケーヌ提督
 Marquis Abraham Duquesne (1610〜1688/2/2)
ドゥケーヌ提督はフランスのセーヌ=マリティーム県港町ディエップ(Dieppe, #79)で生れました。父親が海軍士官でしたので、若い頃に水夫となり商船に乗り組んでいました。1636年26才でフランス海軍ネプチューン艦隊(Neptune Fleet)勤務を命じられました。1637/5月スペインに占領されていたフランス・ヴァール県ツーロン(Toulon, #93)付近リヴィエラ海岸沖でアルプ=マリティーム県カンヌ(Cannes, #92)近くの地中海のレラン島(Lerins Island)を奪還する作戦に従軍して手柄を立てました。この前後に彼の父がスペイン人との争いで亡くなりました。その後、スペインを憎み復習を誓い、1638年にはスペインのバスク州ギプスコア県(#5-16)グンタリア(Guetaria)で、1639年にはコルーニャ(Corunna, #12-40)で、1641年にはバルセロナ(Barcelona, #10-34)とガタ岬(Cabo de Gata)のタラゴナ(Tarragona, #10-37)の海戦で勇敢に戦いました。

1643年にスェーデン海軍に移籍しました。三十年戦争(Thirty Years' War, 1618−1648)中の1644/7/1スェーデン海軍(34隻)とオランダ海軍(40隻)との「コルバーハイドの海戦(Battle of Kolberger Heide, 1644/7/1)」では、ドゥケーヌ提督はスェーデン・フリゲート艦レジーナ号(frigate Regina)に乗船して戦いました。1644/10/13にバルティック海の「フェマーンの海戦(Battle of Fehmarn, 1644/10/13)」ではスェーデンとオランダ連合艦隊37隻対、国王クリスチャン4世が自ら指揮するデンマークの艦隊17隻が戦いましたが、デンマーク艦隊の司令官の提督は戦死し、戦艦は拿捕されスェーデン・オランダ連合艦隊の勝利となりました。1645年の和平後に、ドゥケーヌ提督はフランス海軍へ復帰しました。

ドゥケーヌ提督は「フランス市民戦争(Fronde1648−1653)」勃発の時にボルドー(Bordeaux, #11)で反乱を鎮圧しました。その時には皮肉にも彼が最も憎んでいるスペインからの物質的援助で支えられました。その同じ年に彼は自費でドルドーニュ川(Dordogne rivers, 483km)とガロンヌ川(Garonne rivers, 529km)が河口に合流するジロンデ河口(Gironde estuary)を封鎖する艦隊を編成し、ジロンド県ジロンデ市(Gironde, #11)を降伏させました。これでドゥケーヌ提督は新フランス海軍の最高司令官となり、アンドル県(Indre, #50)で城持ちになりました。1659年フランスとスペインは和解し、ドゥケーヌ提督は地中海艦隊の司令官となり海賊の討伐の任につきました。

第3次英蘭戦争(1672−1674)では、1672/6/7オランダ上陸をもくろむイギリス軍がヨーク公指揮のイギリス艦隊とドゥケーヌ提督指揮のフランス艦隊が英仏連合艦隊を編成し、93隻でもってオランダに迫りました。デ・ロイテル提督指揮のオランダ艦隊75隻が迎え撃って、「ソルベイの海戦(Battle of Solebay, 1672/6/6)」が勃発しました。英仏対オランダは双方一歩も譲らず激しい砲撃戦を戦いました。双方に大損害が出て、薄暮が来ると共に双方が引き上げ、両者共に勝利宣言を発しました。この戦いでのドゥケーヌ提督の適切な指揮振りが有名になりました。

その後、地中海方面では、スペインに対するイタリイ・シチリア島メッシーナの反乱で反乱軍を支援し、デ・ロイテル提督指揮のオランダ・スペイン連合艦隊と戦いました。1676年「ストロンボリの海戦(Battle of Stromboli, 1676/1/8)」が勃発。神聖ローマ帝国とオランダ(Franco-Dutch War, 672−1678)対フランスとの戦争では、ドゥケーヌ提督指揮のフランス艦隊20隻がデ・ロイテル提督指揮のオランダ・スペイン連合艦隊20隻と戦いましたが決定的な攻撃は無く双方が引き上げました。1676年「アゴスタの海戦(Battle of Agosta, 1676/4/22)」が勃発し、ドゥケーヌ提督指揮のフランス艦隊34隻がデ・ロイテル提督指揮のオランダ・スペイン連合艦隊27隻と戦い、猛烈な砲撃戦の後、双方に大勢の死傷者を出し、急に修了となりました。この戦いでデ・ロイテル提督は重傷を負い、その後亡くなりました。1676年「パレルモの海戦(Battle of Palermo, 1676/6/2)」が勃発、ドゥケーヌ提督指揮のフランス艦隊16隻に対し、スペイン・オランダ連合艦隊17隻が戦い、フランス艦隊がスペイン艦4隻とオランダ艦3隻の計7隻を撃沈して勝利し、その後の2年間の地中海はフランスが制海権を勝ち取りました。これらの海戦結果によりフランス皇帝ルイ14世はドゥケーヌ提督が新教徒(Protestant)であるにもかかわらず、侯爵(Marquis)の栄誉をもってその労苦に報いました。

1681年地中海でバーバリー海賊(Barbary pirates)の掃討作戦に従事し、キリスト教徒の捕虜を救助するために、1682年と翌年にアルジェリアのアルジェの街を、そして1684年にはジェノアの街を砲撃しました。その同じ年、病に倒れ軍務を引退しました。1685年「ナントの勅令」が廃止されてプロテスタントが禁止されましたが、ドゥケーヌ提督はその罪を許されました。1688/2/2ドゥケーヌ提督はパリで78才で亡くなりました。

参考HP:〜
仏リヴィエラ海岸の場所地図(ツーロン付近)
レラン諸島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   06/10/15、令和8年 2026/3/3
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